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                                 思 考 停 止

 今年も色々なことがありました。北朝鮮の核開発、泥沼のイラク戦争、安倍政権の誕生、イジメ自殺、教育改革の問題、団塊世代の定年、年金問題、老人介護の問題、あまり明るい話題はなかったようですね。参詣などにいきまして、このような話になりますと、「困ったもんだ、何とかしなければ」と言う意見をほとんどの方が言われます。そこには私も含め当事者という見方が欠けているように思えるのです。イジメの問題にしてもイジメられた辛さ、苦しさ、悲しさは誰もが共感いたしますが、肝心の加害者が見えては来ません。誰もが被害者であって加害者はどこにいるのでしょうか。人間は被害に関しては敏感であっても、加害に関しては鈍感なのかもしれませんね。「オレがこんなに苦労しているのに・・・」とか、「我慢はわたしばっすりしているのに・・・」などとか、被害者は全部自分であって、加害者は他にあるとは思っていませんでしょうか。「そりゃ、私も悪いですよ。でもね・・・」この「でもね」が、余計な言葉なのです。他を批判することには長けていても、私を批判することの難しさを思いますね。誰もが善い人ばかりならこんな世の中にはならないはずなのに、現実はどうでしょうか。何年たっても、争いごとは止むことはなく、犯罪も以前より複雑化しています。しかしその複雑化している争いと共に、逆に原因は単純化しているようです。その原因は、もっと豊かに、もっと贅沢に、もっと楽しくの一点にあります。それ以外の考え方は必要がないような生き方をし、子供達にもその方向へ、歩むように教育をしているようです。先日の高校での必修科目の未履修で、卒業が出来ないような問題はこの事をあらわしているように思えるのです。いつのまにか「受験に役に立たないことはしないでおこう」の考えが当たり前になっていくのでしょう。
「思考停止」に陥っているとしか思えません。なんでも「あたりまえ」の感覚を「思考停止」と申します。仏教の諸行無常、諸法無我などの教えは人間の思考はいつも危ういことを教えています。すべての物事を考えなくなるのではなく、一方的にかたくなに考えてしまうことです。
 その考えの中心となすのは、いつでも、「我が身びいき」です。「応依智不依識」(真実の智慧を依りどころとし、人間の知識を頼ってはいけない)という言葉があります。人間の虚妄分別がいかに危ういかを指し示す言葉です。人間同士の争いから、戦争まで、どちらも正義をかざします。知識だけを詰め込み、智慧を忘れたことが、今の時代とは言えないでしょうか。驕った人間の、この世を「思い通り」の考えがどれほど悲しみの連鎖を生んでいることでしょうか。
 何でも、「当たり前」、すべては「常識」で判断してしまう私達の「思考停止」をちょっと疑うところから、見えてきたり、察したりすることがあると思うのです。大勢の意見や、有名人の意見などを鵜呑みにし、思考停止になることは、自分の人生を歩んでいるとは言えません。 自らの考えで、自らの生き方をしてみませんか。 お釈迦さまの最後の言葉「自灯明・法灯明」は、この事をあらわしています。「自らを、真実の法を灯火として歩みなさい」、そこにはいつでも「考え続ける」私との出会いを忘れてはならないと言うことです。「私は正しい」「オレこそ」という勝手な思いがどれほど他を、そして私をも、傷つけているか・・・・・