想像力
 

ある病院に行きますと、『一日一触』と書かれてあります。患者さんに一日一回は触診

するということでしょう。そう言われますと、お医者さんも、検査の数値ばかりを見まし

て、患者さん自身を見ないとも、又病気は診ても、患者としての人間を診ないとも言わ

れます。その反省の言葉でありましょう。最近になりまして、情報革命とも言われるほ

ど、知ることの出来る情報量は膨大な数であります。科学、文明の発達といいまして

も、この急激な情報量にかえって振り回されているようであります。知識量、情報量は

昔の人と比べたら、圧倒的にわたしたち現代人が多く持っています。しかし昔の人が

持っていて私達がいつのまにか失ってしまったものもあるように思えるのです。

その大切なものに『想像力』があると思います。今の私達は想像する前に、数値や、

データーを駆使して判断してしまう習慣がついているようなのです。太陽や月を見て、

自然の恵みと感謝し手を合わせた昔の人と、太陽はコロナが燃えており、月はゴツ

ゴツした岩山で出来ていると知識する現代人とどちらが豊かなのでしょうか。私達は

どうも情報と知識を集めそれに逆らわないように生活しているようであります。それは

上手な行き方なのかも知れません。しかしそのような事がどれだけ想像力や人間とし

ての感受性を失わせたことでしょうか。『死』ということを考えてみましても情報としての

『死』は、平均寿命とか、『死』の原因第一位とか、葬式の出し方などには敏感ですが、

人間として大切な『死』そのものを自分の問いとして考える方はほとんどおられません。

しかし知識量や情報量はこれからも増え続けていくことでしょう。そうなりますとます

ます人間として磨かなければならない感覚は減退していくように思えるのです。初対面

の人と会ったとしましょう。その時に私達はその人に対してどのようなことで判断してい

くでしょうか。今の私達はそれが出身大学であったり、勤め先の会社の大小であった

り、
その役職であったり、あげくの果てには金持ちかどうかでその人を見てしまい、

一番大事
なその人の考え方とか性格などはすっかり棚上げにして判断しているよう

であります。

その原因としていろいろな情報量がこのような判断基準を作っているように思えるの

す。ですから純粋に他を見つめることも次第に苦手になってきているようです。

魚を見て、
肉を見て、それが食物以前には『いのち』であったことを感じられますか。

野菜や果物には土や太陽、水などの恩恵を感じられますか。そのようなものがすっ

かり
とどこかへ追いやられ、『金』さえあればになってしまっています。『景気回復』

も大切か
もしれませんが、基本的な事を忘れないで欲しいのです。仏教はこの基本

そのものと言
ってもいいでしょう。

難しい事ではないのです。お釈迦様の言葉、『自らが為されたら嫌なことは決して

他にし
てはならない』これが仏教の基本的な想像力であり、感受性であります。

『人間を壊して
みたかった』という少年の言葉、これには想像力のかけらも見えま

せん。知識、情報、そし
て想像力、感受性のバランスが今、誰しもに求められてい

るのではないでしょうか。