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スマホ生活
 
便利なものが、金さえ出せば、手に入れられる時代になりました。移動は飛行機、新幹線、車とスピードも以前と比較しますと、格段の違いです。自家用車がなければ公共の乗り物で、何とか確保できますし、食料品でも米がなくなればパンもありますし、選択できる範囲が広がりました。便利になると言うことは手段が多くなったと言うことでもありましょう。
 衣食住とは言いますが人間の生存の基本は変わってはいません。でも手段が多くなってしまい手段が目的化してしまい、何のために生きているのかがわかりづらくなっています。生きる生活手段が多くなったのを恵まれた社会と言うのでしょうか。モノのない時代は衣食住さえ満たされれば幸福を感じられたのが今は満たされていても不安ですね。「足を知ること」を、すっかり忘れてしまったようですね。ポケベルが携帯電話に、そしてスマートフォンに変わる時代の早さに振り回されています。今は、誰もが便利なスマートフォンを手に持ち、いや一時も離すことの出来ないものとして扱っています。スマホは、生活に欠かせないモノとして定着しつつあります。コンピューター時代は手のひらに乗る電話機、情報端末機の一つの道具で事足りるようになったのです。パソコン、カメラ、テレビ、音楽プレーヤー、ナビゲーション、ゲーム機、クレジットカード、税金の支払い、その他のことすべてが使いこなせればこれ一台で事足りるのです。生活機能のすべてが網羅されているのです。しかしこの便利な道具に、依存しなければ生きていけないような強迫観念のようなところまで今は行き着いているような感覚です。当初の便利なモノが持たなければ不安が増す社会現象が起こっています。犯罪も、個人情報も、世界中のことがこの一台に振り回されている社会が豊かな社会とは言えません。
 逆に不自由この上ない世の中のような気がいたします。小さな画面と、にらめっこをしていることが健全なのでしょうか。一つの道具に過ぎないモノが、それなしには生活ができないようにしてしまい、万能感を味あわせるのは、異常な世界です。自らの好みに合わせスマホを使い、己の好み、趣味の世界のように閉じこもり、他とは閉ざしてしまい、切り離し、そして切り離されます。人と人との共通点を失い、気にもならなくなる現象が見られるのです。情報も速いですねぇ。情報も消費され、忘れ去られます。汚職、政治家の失言、森友問題、ー「そんなこともあったなぁ」です。今私たちはどんな時代を生きているのか、見定める時です。
 以前作家寺山修司さんが「若者よ、書を捨てて街に出よう」と呼びかけましたが、今は「若者よケータイを捨てて自分と世界を見よう」と叫びたくなります。あらゆる情報が瞬時に世界をかけめぐります。しかしその中で交わされるのは「どうやったら上手く生きれるか」ばかりで「よく生きる」指針は見えないですね。むき出しの権力、欲望とマネーが飛び交います。
 仏教はこの権力、欲望と対峙するのです。限りなき欲望がどれだけ人間の【いのち】を損ない傷つけたかを思い起こすべきです。「欲が人間を進歩させた」と言われる方もいらっしゃいます。悲しいながらそれも事実でしょう。欲にはきりがありません。行き着くとこまで行っても欲は消えないのです。せめてその欲望にしっかりと目を向ける事が大切です。
 それは「欲のある人間」は他でもない「わたし」であり「あなた」であるのです。