ス ト レ ス

 文化庁が先日発表しました外来語の理解率一位はストレスという言葉でした。
厳しい社会情勢を反映しているとのコメントが出ておりましたが、いつの頃からでしょうか、ストレスという言葉が流行するようになったのは・・・・
働き過ぎとか、人間関係の歪みとか、理由は何でもつけられるでしょう。しかし戦後貧しさからの脱出として懸命に誰もが働いていた時代ストレスなどは言われなかったようです。一つの大きな理由として合理性があるように思えるのです。
何でも合理性を追求し、合理的でないものは総て切り捨ててきたのではないでしょうか。しかし人間そのものは決して合理的な存在ではないのです。
感情の動物と言われるように総てが割り切れるようなものではないのです。
つまり合理的な考えと言うのは損得での判断だと思うのです。年老いた病弱の親の面倒を家庭で看るのは合理的でありません、給料を銀行振り込みでなく手渡しは合理的ではありませんし、すべて機械に任せた方が合理的なのです。
損得の合理性を考えますと、他人が見ていなければ少々の悪さは・・・と思うようになってきます。
選挙違反、交通違反、これらの犯罪には罪の意識さえもありません。『たまたま運が悪かった・・・』であります。子供たちの自転車泥棒、万引き、これらを大人が非難出来ないような、生活を送ってきたのではないでしょうか。『ちょつとしたことじゃないか』でおしまいです。何でも合理的に考える事が人間同士が傷つけあっているように思えるのです。テレビのワイドショーを見れば、悪意に満ち溢れれています。誰かの人生でのつまずきを大きく報道され、さらし者にされてしまいます。コメンティターと称される方々が何の変哲もない万人向けのコメントを発言し正義の味方になりすまします。離婚したとか、倒産したとか、よってたかって個人攻撃であります。ここにも様々な事が見え隠れしているようです。『他人の不幸は密の味』と言われるように人の悪口、個人攻撃は楽しくて仕方がないのです。
成功者さえも妬みからか攻撃の対象とされるのです。成功者のほんのわずかなミスさえも餌食にされるのです。しかもこのような番組こそ視聴率が高いのです。ストレスのはけ口として自分より弱い者、非難出来る者を私たちは探して、そうして見つけたときにホッとする心がどっかにあるようです。子供のイジメも、ストレスの発散の場のようです。
いつの間にやら全体で『生きる』と言うよりは、他者を蹴落としてでもになってしまったようです。しかし考えますと一人勝ちの社会のどこがよいのでしょうか。人間の真実の喜びは何だったのか。外来語の第三位には『ボランティア』が入っています。これが今の時代を表しているように思えるのです。ストレスを持ちながらも、実は他に尽くすことが真実の喜びということを・・・・
『全体が幸福にならないうちは僕は幸福はなれない』仏教童話作家宮沢賢治の言葉です。何が自分にとっての幸福なのか、閉塞感からの脱出はこのあたりを考え続けていくことでありましょう。