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                          数  字
 
人間はどうも数字に振り回されているようです。教育水準が上がり、数字に詳しくなればなるほど、数字を頼りにいたします。他と比較したり、統計をとったり、その計算されて出てくる数字は絶対的なものです。その数字は私達の判断基準であり信じて疑いのつけようもないものです。誰も文句のつけようがないのです。新聞を読んでも、テレビを見ても、あらゆるものが数字で計られます。コンピューターの発達は難解な計算もアッという間にやってみせます。
 経済成長率、株価の上下、内閣支持率、給料計算、子供の学校での成績、すべては数字が評価いたします。数字は平等をあらわす一番てっとり早いものなのです。水戸黄門の印籠のようなものです。学校での成績も、テストの点数で決めなければならないのです。なぜなら、それが平等だからなのです。そこに先生の意図が加われば平等ではなくなってしまうのです。優しさとか思いやりとか、責任感とかを成績に加えるのは平等ではないのです。「先生のえこひいき」になる可能性があるのです。モンスターペアレントが何を言い出すかもわからないのです。
 幼稚園から大学、そして社会全体までがすべて、数字の世界で分けられています。民主主義という結構な言葉さえも、多数決という数字なのです。五十一%が四十九%に勝ち、四十九パーセントは、何も得られないのが民主主義というものなのです。私達は学校は偏差値が高いところ、会社も一流と言われる上場企業を目ざすのが、共通の考えだったようです。もう四十年前になりますか、フォーク歌手の高石ともさんが歌っていた「受験生ブルース」の歌詞の中に「母ちゃんもオイラを激励する 一流大学入らねば アタシゃ近所の皆様に 合わせる顔がないのよ」とありました。何ら今と変わりがないようですね。近所・隣の地域性は希薄になったかもしれませんが、数字が、点数が私達を幸せにしてくれる価値観は少しも変わってはいないようですね。数字は私ばかりでなく、他人を評価するのにもわかりやすいのです。「あなたはどのくらいの偏差値の学校へいっているのか」「どのくらいの年収があるのか」を他人の評価基準に使ってはいないでしょうか。そこにも数字の絶対性が見えてくるのです。しかしバブルがはじけ、不景気と言われる今こそ、この考えを見直す時期にきているように思えます。一流の大学、企業に入り、夜も寝ないで勉強、仕事、そして高収入を得ることが、本当に人間として価値のある生き方なのでしょうか。働きすぎて過労死などということにならないように・・・・
 グローバル社会と数年前から言われますが、世界のグローバル化は世界の距離を縮めました。世界の出来事やお金も人もインフルエンザも瞬時に駆け巡ります。グローバルは格差社会を作ります。少数の金持ちを造り多くの貧困を生み出します。派遣村、貧困、格差。今の日本の姿そのものなのかもしれません。数字に使われるのはもう止めませんか。大金を持っても、一流企業に就職しても、体をボロボロになるまで酷使し、家族の交流を失っても数字を上げていかねばならない、そんな強迫観念に陥ってはいませんか。数字という魔力に負け、本当の自分を見失うことは悲しいことです。いつでもいいのです。本当の自分を取り戻しませんか。仏教はそんなあなたへの励ましを与えてくれます。一人一人が光りかがやく世界を歩めたらと思います。金子みすゞは謳います。「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」と。