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食   卓

「親の小言と茄子の花は千にひとつの無駄もない」とは昔からよく言われたことでした。
 しかしこのような言葉も死語になりつつあるようです。親と子供のコミュケーションがとれない、会話が乏しい、このようなことが言われて久しくなります。
小言を言おうにもその場がなかったり、時間がなかったり、そんな時代です。その原因の一つには食卓がなくなつたことがあるのではないかと思います。「もったいないから、ご飯を残すな、おかずもきれいに食べなさい、肘をつくな、こぼしたら拾ってでも食べなさい」このようなことを言われて育つている子供が、今少なくなっているのではないでしょうか。
 立派な食卓テーテーブルはあっても家族が団欒しながら食卓を囲む風景が乏しくなってきてはいませんか。夕方、どこの家庭からも聞かれた家族そろつての笑いながらの食卓風景が今は想像できにくくなっています。テレビが家庭に入り鎮座してから会話は少なくなり、家庭での個室化が進みますと、テレビでの共通の話題もなくなり、電話でさえも個々が持つようになりますと家族であってもしっかりとプライバシーの名のもとに、言い換えれば勝手気ままが許されるようになりました。食卓もおのおのが勝手に出来合いのモノを買ってきて自分の好きなものを食べられるようになりました。家族がバラバラに食べられるようになったのです。
そこに家族が共通のものを食べ、時間を共有しなくてすむようになっています。いつもペットボトルを持ち歩き、歩きながらファストフードの食べ物を食べ、ところかまわず飲み食いしている現代っ子たちは家庭でどんな食卓を囲んでいるのでしょうか。夕方に学習塾に通い、母親はパート労働で夕食も作れず、ファミレスで深夜に家族そろっての食事も珍しいことではありませんね。父親は必死に会社にしがみついていなければならないような時代でもあります。
 現実には家族そろつてということが難しいことなのかもしれません。逆に健康食品に凝り、手間ひまかけて食事を作り、頭が良くなる野菜などを必死に作られる親もいますが、きっと子供にとっては息苦しく「気の毒になぁ」などと想像してしまいます。(まぁいらんお節介なのかもしれませんが・・・)。二十四時間子供の時からいつでも食べられる食習慣を憶えさせられ、大人と同じ外食の濃い味を覚えさせられた子供が言う言葉は「疲れた」「眠い」「だるい」、大人と同じ言葉が小学生の子供から出てくるのです。何か大事なものを失ってきているのかもしれませんね。そういえばお仏壇も家庭から姿を消しつつあります。
 家族そろって仏壇に手を合わせ、朝に礼拝夕べに感謝なども見あたらなくなりました。他人様から何か頂いたときには必ずお仏壇に供え、仏様のおさがりものとして頂いたものでした。
「バカバカしい」と言われそうですが、このようなことが今の私たちにこそ大切なことでないかと思います。親と子供の境界線が怪しくなってきています。親と子供が同じモノを着たり食べたり、同じ携帯電話を持ち、子供も大人と同じような権利を主張しちょつと気味が悪くなってしまいます。しかし親が小言を自分のためでなく子供のことのみを真剣に思うときに子供はいつか必ずわかってくれると思うのですが・・・・・・・