手段と目的
 
人はみな多かれ少なかれ目的とか夢、希望などを持って生きています。『末は博士か大臣か』はもう昔の事ですね。『夢もチボウもない』などと流行したこともありました。今ではそれも多様化しまして何がなんだかわからない時代のようであります。 ところで目的や夢はなぜもつのでしょうか。それは人間は『しあわせ』になりたいからだと思います。『幸福論』は昔から様々に言われてきましたが、『しあわせ』になるために、人は努力をしてきたのではないでしょうか。どんな苦労にも耐え抜き、『しあわせ』を夢見てきたようであります。『あなたの生きている目的は』と聞かれたら何とあなたは答えるでしょうか。いろいろ答えはあるでしょうが究極的には『しあわせ』になりたいと言うことになるようです。『お金持ちになりたい』、『会社で出世がしたい』、『いい大学に入りたい』、『他人のために尽くしたい』『社会の役に立ちたい』とか〜したいことは山ほどありますね。でもなぜ〜したいのでしょうか。そこに人間の『しあわせ』を見ているからなのです。人間の『しあわせ』になる手段は一人一人みんな違っています。年齢、職業、性別、それぞれ、その立場に応じて『しあわせ』を求めているのです。ところがいつのまにか、『しあわせ』になる手段が目的となっているように思えるのです。お金を儲けることが目的であったり、出世が目的であったり、またそれを助長するような《お金儲けをするために》《人生成功術》のようなノウハウの本がもてはやされたりいたします。ひどいのになりますと、宗教さえもそれの手助けをするようなものまで出てきます。『信ずればお金が儲かります』『病気をしません』『長生きできます』結構なことではありますがこれらは、成功術でありまして人生の目的とは違っているとは思いませんか。今の日本ではこの手段と目的がごちゃまぜになっているようです。政治家の目的はよい国を作る事が目的であるのにもかかわらず選挙の当選が目的であったり(選挙民にも問題がありますが)、立派な人間になるための学問が、偏差値の高い大学へ入るのが目的にかわってしまったり、お寺においても、仏教のみ教えを伝えるためのお寺が、権威の象徴のようになり、金集め寺と噂されるようになったり、手段であったはずのものが目的化していませんでしょうか。(近ごろの、宗教界の胡散臭さに私達ももっと敏感になってもいいと思っています。)このように手段を目的としてしまうことは真実からどんどん遠ざかっていくことです。いつのまにやら目的はなんだったのかもわからなくなってしまいます。『目的のためには手段を選ばない』のはまだましです。『手段のためには手段を選ばない』のが現在のようです。仏教はいつも呼びかけます。あなたの真実は、あなたの人生の真実は、何のために生きていますか、いつでも原点に立ち返る勇気がたいせつであります。『真実のしあわせ』は何だったのか『人間として生まれた意義』は何だったのか仏教にたずねてみていただきたいと思います。