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             体   質
 
近頃、盛んに体質ということが言われます。個人の体質ばかりでなく、企業体質とか、役人体質とか、日本人の体質とか、様々であります。体質とは、からだの性質、又組織団体などに深く染みこんでいる性質(広辞苑)とあります。問題が起こりますと、まずこの体質ということが取り上げられます。先日の尼崎での、JR西日本の列車事故でも、運転士、置き石、様々な原因の結果、結論は会社の体質ということになっています。百名の死者を越す大惨事、原因の究明、そして二度と起こってはならないことなのは言うまでもありません。もちろん会社の体質にその一因があったのは確かです。しかしその会社の体質とはいったい何なのでしょうか。そのような体質になったのはなぜなのでしょうか。マニュアル化された現代は不均等より均等が求められ、効率と、正確さ、そしてスピードが要求されます。都会化されればされるほど、その傾向は強くなっていきます。あの列車事故でも、報道は毎日のように流されていますが、その報道に誰もが引っ張られているように思えてなりません。誰かに、何かに責任をとらせようと、その犯人探しに、やっきになっているようなのです。案の定それがあの運転士の家族の家までもテレビカメラが押し寄せ、親や家族は避難を余儀なくされています。謙虚さも何もあったものではありません。あの事故現場を撮っているテレビカメラマンや、レポーターは怪我人を運ぶ手伝いをしたのでしょうか。昭和三十七年、東京都荒川区の国鉄(現JR)常磐線三河島駅ー南千住駅間で貨物線を走っていた下り蒸気機関車が脱線し、そこに上野駅発取手行きの下り電車が機関車に衝突して上り線路内に脱線しました。更に、南千住駅を発車した上野行き上り電車が、脱線した下り電車に衝突するという、列車多重衝突事故となり、死傷者約五百三十名という事故になりました。この事故の後、遺体を何体も集団で安置しておりました場所に肉親が安否を訪ねて探しに来ます。そこにもテレビカメラが入っています。ある家族が自分の肉親を捜し当てて遺体に取りすがって泣き始めた時、カメラマンは、何体もの遺体をまたぎ、飛び越して、その家族の泣く姿を撮り始めたのです。こんなことが、きっと今でも日常的に行われているのでしょうね。最初に考えるべきなのは自分の体質のような気がしてならないのです。乗客の一人の方がこんな意見を言われていたのが印象に残っています。『こんな事故を起こしたのは、私たちの勝手さが一因なのかもしれないなぁ』と。あの過密ダイヤにしたのは誰だったのか、一分でも早く到着を願ったのは誰だったのか、正確な時間に列車が到着しないとすぐに怒り出したのは誰だったのか。あの責任の所在の中にこの『私』がすっぽりと抜け落ちているようです。すべて私が望んだことだったのではないでしょうか。このような事故の背景の根本原因はこの『私』の体質にあると思うのです。新幹線が三十分速くなったからと大騒ぎをし、電車が遅れると文句を言い、安く、速く、正確に効率ばかりを望み、それを結果的には会社に押しつけてきたツケが回ったような事故のような気がしてならないのです。見直すべきはこの『私』の体質を仏法に訊ね、私の本当を知ることがこのような事故の教訓の出発点でありましょう。この世の中のあらゆる事は、縁起の法則でつながっているのですから・・私を見つめて。