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「沈黙の春」

アメリカのレイチェル・カーソン女史が環境の問題をを世に問いかけた「沈黙の春」が出版されましたのは四十五年前の一九六二年の事でした。カーソン女史の今年は丁度生誕百年になります。最初の頃は海の生物学者として研究しておりまして「地上のすべての生命がたがいに関連しあっていること、おのおのの種は他のものと固有の結びつきをもっていること、そしてすべてが地球と関連しあっている」と自分のテーマを述べています。そうしてやがて「沈黙の春」を書き上げます。「自然は沈黙した。薄気味悪い。鳥たちはどこへ行ってしまったのか。春が来たが沈黙の春だった。いつもだったらコマドリやハト、カケス、ツグミその他いろいろな鳥の鳴き声で春は明ける。だがいまはもの音一つしない。野原、森、沼地みな黙りこくっている」。 地球が出来てからの長い間生物と自然環境は互いに関連し合いながら上手に付き合いをしてきました。特に百年くらい前までは生物が環境を変える力はごく小さなものだったのです。
 ところが二十世紀からというわずかな期間の間に人間という種族が恐るべき力でもって自然環境を支配しようと考えました。宇宙の天文学的な時間からしますと、一瞬と言える間に人間は自然を汚染し、破壊しまくっているようです。人間は自然を自由に変えられると思っているかもしれません。私たちの人間世界以外では食べたり食べられたりの世界です。捕食者であったり被食者であったりするのです。いのちのサイクルと言い換えてもいいでしょう。人間の勝手で都合の悪い生き物を処分すればどっかでバランスが崩れ、その被食者であった生物が爆発的に増えると言われます。人間が万物の霊長であり一番偉いという思いを捨てなければならないのかもしれません。自然環境そのものの中に自然を生かす道があるのです。ある虫が爆発的に増えることは自然に任せればないのです。きちっと自然はバランスをとるのです。人間がいじくり回すことによっておかしくなってきたと言うことです。これは人間に対する自然の逆襲ともいえます。日本でも、水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病等、人間に対して自然からの復讐なのかもしれません。カーソン女史は「私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない」が長年の研究結果でありました。この本を読みまして私は、これは「仏教」そのものでありお釈迦様がもう二千五百年前に説かれたことと重なってみえたのです。すべてのものが関連しあうのは縁起の世界であります。人間のいのち、動物のいのち、植物のいのち、すべてのいのちの平等性、これも仏教で繰り返し説かれています。お釈迦様の涅槃図の横たわっておられる傍らには、人間に混じってリスや象や狐や、様々な動物が泣いている絵が多く描かれています。又、沙羅双樹の葉が嘆き真っ白になったとも言い伝えられています。仏教の特色がよく現れています。西と東、時代を超えてカーソン女史も、お釈迦様もいのちに対する優しさを感じます。カーソン女史の死後出版されました「センス・オブ・ワンダー」(神秘さや不思議さに目をみはる感性)の大切さを思います。人間にとって「知る」ことよりも「感じる」ことの方がどれだけ大事なことか。美しいものを美しいと感じる感覚さえ養えば、知識は自然と豊(ゆた)かになっていくというのです。どこかで私たちは間違ってしまっているようですね。