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             匿 名
 
「個人情報保護法」、「プライバシー裁判」、人権として個人の秘密は守らなければなりません。
 しかし電話帳への掲載拒否、表札も出さない、卒業アルバムに住所も載せない。プライバシーの名の下に、何か息苦しくはなっていませんか。お参りをしていて家を探していて、郵便屋さんがちょうど通りかかりましたので、尋ねますと、「個人の情報ですので教えられない」ということでした。それだけ個人情報が守られているかと申しますと、決してそうではありません。
 勧誘のダイレクトメールや、おかしな電話、お金がらみのトラブルがよく発生しています。
 どこで調べたのか、わかりませんが、誘惑の案内は本当に多いと思います。
 個人情報は実は守られていないのです。裏の世界では情報が良い仕事になるようです。
 個人情報の保護も大切ですが、発信する方も匿名が今の時代です。インターネットの時代と共に匿名で言いたい放題、やりたい放題が、あちらこちらで見受けられるのです。匿名性の高さは快適なのでしょう。何せ責任を取らなくても良いのです。顔が見えませんから自由自在です。
 又、そうした志向を煽るように、通信会社からは匿名性の高いサービスが、提供されます。
 自分とわからなくするような、非通知設定や、プリペイド式電話など、利用者が匿名で済む環境を与えてくれます。2CH等の下品この上ない書き込みも平気で為されます。
 今、ブログと呼ばれるインターネット上の日記が流行していますが、これも責任を取らない(私の気持ちをわかってよ)ような書き込みが見受けられます。噂や、憶測、差別、中傷の言葉が平然と並んでいます。見て恥ずかしくなるような記述が見受けられるのです。そのようなものが一人歩きをして、多くの被害者が出ている現実を私達はもっと知るべきでしょう。
 書き込みによって、自殺をした子供、犯罪に走る人々、何か、発信する側も受け取る側も、生身の人間ではなく、透明人間になっていくような恐ろしさを感じます。神戸の児童連続殺傷事件の「酒鬼薔薇聖斗」が自らを「透明な存在」と言いましたが、今や日本国中透明人間だらけです。匿名でものを言うのは、確かに本音の部分なのかもしれません。企業や官庁での偽装や汚職はほとんどが匿名での内部告発だと言われています。以前は退職覚悟の行為であったのが、匿名性の高さからか、平気で内部のことが暴露されるようになりました。匿名性の高さと共に、私達が自由にモノが言える時代が来たのかもしれません。しかし、それはいとも簡単に情報を発信できる手段を手に入れた勝手な欲望を満足させる姿なのかもしれません。
 何ら責任を負うこともなく「気持ちがスーッ」となられたら、たまりませんね。それを「自由にモノが言えるようになった」というのは少々乱暴です。匿名は功罪、様々でしょう。
 私達の人間同士の信頼は決して匿名からは生まれてきません。名を名乗らない方をあなたは信頼できますか。先ずは名告りから信頼が結ばれるのではありませんか。名を名乗らなければ真面目に話は聞きません。匿名と言うのは、そんなに深い関係にならないことを意味します。 名告りの大切さを思います。「自分探し」とか「自分を求めて」は先ずは名告りから出発するのです。一度の人生を「私」が「私」の人生を歩まなければ人と生まれた値打ちをも捨てていることになるのです。仏法の世界はまさに、「かけがえのないあなたの人生」を歩んで欲しい願いなのです。私が私のいのちに対する責任を思います。