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透明人間
 
子供の頃のあこがれに、「一度で良いから透明人間になりたい」というのがありました。
 透明人間になれれば何でも好きなことが出来る、それも他人にも、親にも見られず思うがままになれる、というような無邪気な好奇心や願望を持ったものでした。皆様はどうだったでしょうか。今は地域や家庭の崩壊と共に、他人の目は以前ほどでもなくなっていますが、その代わりに監視カメラなどというものが他人の目となって見張り番をしているのかもしれませんね。 それにもかかわらず今は、インターネットの普及と共に透明人間が増加の一方のようです。 ネットでの殺人予告、悪口雑言のいじめ、見るもおぞましい言葉が並びます。匿名性の名の下に言いたい放題、やりたい放題です。人間の醜さがむき出しになっています。以前の匿名というのは、会社の不当性や、公害の告発とか投書というようなやむにやまれず悲しみや、怒りを伴ったものでした。しかしネット社会は匿名の意味をすっかり変えてしまいました。
 人間が匿名になったときに人格が普段とは別人になってしまうようです。 
 相手の目や表情を見て会話するのではなくボタンで情報を発信します。それは会話というような両方向ではなく一方的です。電子メールなどもこれの一種なのかもしれませんね。自分の姿を見られずどこにでも入っていける、他人のプライバシーにも土足で平気で侵入します。自分の気に入らない相手に対し社会に向かい、あることないことを発信します。
 その事で風聞が広がり自殺者まで出ています。そんな人権侵害がどんどん増えています。
 昔の便所の落書きも同じようなところがありましたが、ネット社会は誰でも無数の人が見ることが出来るのですから被害にあった人の傷の大きさは何十倍になっています。
 ネットでの匿名は発信者が責任をとらないばかりか自らは傷一つ負わないのです。 
 しかしそれはネット社会ばかりでなく一部の雑誌やテレビでも見られます。犯罪の加害者・ 被害者のプライバシーばかりか家族の私生活までもが暴き出され売り物にされます。
 なぜ暴くのか、ただ人々の好奇心を煽るのが販売部数や、視聴率に跳ね返り金銭化されるからなのです。その事は隠され逆に「正義」「人の知る権利」の名の下に正当化しようとさえするのです。人々は生きていくために難問を抱え、必死に生きています。そんなことさえも売り物にしたり、暴かれてしまうのです。守りたいものも守れない人権侵害が起こっているのです。
 発信者はほくそ笑み被害者はただ耐えるしかないのでしょうか。「個人情報保護法」などでは解決できません。それは人間の品位より経済を選んだ私たちのこの国の姿だと思います。
「他者の過ちや為したこと、為すべきことを為さなかったのを見るのではなく、自己の為したこと為すべきを為さなかったことを観よ」(法句経)という言葉がありますが私自身を観る難しさを思います。人間が本当の人間になる教えが仏教です。噂とか大きな力の前に振り回され流されがちな私たちですが本当の私の人生を送っていないのです。
 仏教は損得とか、楽な道を教えているわけではないのです。それどころか逆なことを示しているのかもしれません。 
 しかしそれこそが「本当の人間の道」を歩んでほしい仏の願いなのです。