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                      つ ら 

 お釈迦さまは「人生は苦」と説かれました。人生は辛いですね。悩みや苦しみのない方はまずおられないことです。人生がいつまでも老いず、病もせず、変わらずあれば良いのですが無常の道理からは誰も逃れることが出来ません。苦しみから逃れる手立てがあれば良いのでしょうが、どうしても避けきれない苦しみはあるのです。本屋さんに行きますと、「こうすれば幸せになれます」「苦しみが、なくなります」等の本が山積みされています。自己啓発というのか、前向きな積極的な本がたくさん出ています。しかし前を向きたくても向けない時もあるのです。 つらさを克服しようと思ってもどうしても出来ないこともあるのです。真剣に真面目に辛さと向き合おうとすればするほど辛くなることもあるのです。自己啓発の本の通り出来れば良いのでしょうが、出来ない方がほとんどなのです。本に書いてあることは正論でしょう。しかし「前向きに生きろ」「辛さを乗り越えて」と言われても、そのようになれないのです。わかっていても出来ないのです。又、趣味とか、旅行で辛さを克服しようとしても、一時その事を忘れる効果があっても、我に帰ると、そんな自分が惨めになり、前にも増して辛くなってしまう事が多いのです。そんな自分を責めて逆に二重三重の辛さを生み出してしまいます。「辛さを忘れよう」とか、「乗り越える」事の出来ない人々が今の日本にはあまりにも多いと思うのです。自死三万人が十年以上も続くのは、ただ事ではありません。しかしこれを「人間が弱くなった」「前向きに」「死ぬ気になれば何でも・・・」と言うのは簡単です。「死んだ方が楽」「死んだ方がマシ」、そんな気持ちになるほど辛いことはあるのです。乗り越えられるほど強ければ良いのでしょうが、なかなか強くもなれません。「頑張った」「乗り越えた」は、尊敬いたしますが、そのような人にもなれないのです。逆に「この辛さは乗り越えられない、しかし私はこれを受け止めていくしかない」と自覚し、事実は事実として受け入れる方がよいのかもしれません。生きるのは辛いことなのです。辛いのが当たり前なのです。 その辛さを乗り越えるのは素晴らしいと思います。しかし多くの人々はそのようにはいかないのです。乗り越えることも、現実も受け入れられない、そんな辛さに悩んでいる方に「耐えろ」「努力」といのはかえって辛くなってしまいます。なぜならそれまで本人は「耐え」「努力」してきているのです。浄土真宗はそんな「どうにもならない私こそ」を摂め取る教えです。 「自分では解決できない」「乗り越えられない」私のための教えです。この辛さを「煩悩」と置き換えてもいいと思います。「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く いかり はらだち そねみ ねたむ心多く ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず きえず たえず」でありまして、辛さも同じでありましょう。宗祖親鸞聖人も生涯人生苦に悩まれました。幼いときの両親との死別、捨てようと思っても捨てきれない愛憎、煩悩、八十歳を過ぎての長子善鸞の義絶、残していく家族への思いなど、どこに私達と違いがありましょう。しかし聖人は辛さを辛さとして、自らが引き受けられたのです。しかしそれは一人ではなく「阿弥陀」という仏様がともに引き受けて下されたのです。大いなるいのちの中に「生かされている自己」を見いだされたのです。つらくても、悲しくても大いなるいのちの海に自分は生かされ、そして死んでいく、大きなみ手の中に・・