印刷はこちらからどうぞ

 
                    
               
            
う  め  き  
 
八月に、皆様は何を思われますか。お盆、夏休み、暑さ、戦争、広島、長崎、様々な事を思われる事でしょう。私は戦後生まれですので、直接には戦争を知りません。ただ、幼い頃に進駐軍や、米軍のMP等を見たことがありまして、まだ戦争の残り火がくすぶっていたようです。父や兄弟を失ったり、目の前で肉親が焼死したり、戦争は本当に大きな悲しみだったことなのでしょう。もし、今自分の家族が同じようなことになったら・・・と思いますと気が狂ってしまうかもしれません。口では言い表せないような悲しみだったのでしょう。昭和の時代が好きで昭和の語り部のような俳優の小沢昭一さんが先日テレビで昭和の人たちの貧乏だけど優しかったこと等今と違い昭和の良さを語っておりましたが、戦争の話になりますと厳しい顔で「どんな事があっても戦争だけはいけないよ。戦争が始まったらだれにも止められない、いや戦争が始まるようなことに向かっていっても同じようにとめられないよ」、と語っていたのが印象に残りました。悲しい辛い体験を戦争でされたのでしょう。同じような思いは戦争の時代を生き抜かれた方も同じではないでしょうか。おそらく目の前の肉親をも助けられない自分の情けなさに涙をされた方もおられましょう。悲しいことがどれだけこの日本にあったことでしょう。この「かなし」という言葉の語源は「・・・しかねる」と同じ意と説明されています。「しかねる」は「とてもそのようなことは出来ない」「力が及ばない」という事です。「自分の力ではどうしようもない切なさ、辛さ」が「かなし」と 言うことなのです。今でも家族との死別、特に子どもとの離別などは時代が変わっても悲しみの最大のものでしょう。「お金がない」とか「仕事のつらさ」は、ある程度は自分の頑張りなどによって克服できるかもしれませんが、自分の頑張りも、お金も何の役にも立たないことが一番「かなしい」ことですね。言い換えれば自分の無力を実感するということです。「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」(歎異抄)と、親鸞聖人も自力ではどうしようもない悲しみに、悩まれたのです。いかに他に慈悲の心をかけようとも、助けようと思っても、すべてを救えない事を悲しまれたのです。テレビで紛争地帯や、又飢餓に苦しむ世界の人々を見ながら飽食の日本を満喫し、「かわいそうに、私は日本に生まれて良かった」等とは決して言ってはならないことではないでしょうか。先ずはそんなことを思う私を悲しむべきでしょう。又「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたき」、と言います。自己の力及ばざる事の自覚であります。親鸞聖人を敬慕して止まなかった評論家亀井勝一郎氏は「慰めの言葉とは何か。一種の傲慢ありますまいか。悲痛のどん底に沈んでいる人間に向かって、何を発言したところで何になるのか。その人間の勇気を奮い立たせ、心を暖めると言いますが、この予想の中に傲慢があるのです。粗い神経が見られるのです。我々は自覚することなく人を傷つけやすい、人の悲哀を詮索し、その悲哀を「慰めの言葉」によって弄ぶ」。厳しい言葉ですね。
 仏教で「悲」とはインドの言葉で(カルナー)と言い、ため息、呻き声の事です。私達は本当に呻いているのか、どうしようもない自分を悲しんでいるのか、これが浄土真宗の出発点です