うらぎり

古今東西、裏切りの無かった時代はないようであります。政界では『永遠の友もいな 
ければ、永遠の敵もいない』と言うそうです。そう言われますと、『なるほど』と頷かざ
るをえません。
昨日まであれほど意見が対立し、憎しみ丸出しでののしり合っていたものが、
今日は並んで談笑している光景を目のあたりにしますと、信頼とか、自分への誇り
などはどこに言ってしまったのでしょうね。利用出来る間は精一杯使いつつ、使い
古されれば、平然と捨て去られる、これはモノではなく、人間がそのような扱いを
受けているようです。会社の生き残りのために、『肩たたき」と称して、退職を迫り、
リストラの憂き身にあってしまう。本来、会社は、人間のために存在したはずなの
に、会社と人間を比べ会社をとる、とは本末転倒でないかとおもうのですが・・・
太平洋戦争末期、沖縄戦で民間人を日本の兵士が殺害した記録、満州で、
朝鮮で、置き去りにされた人々、日本のために死んでいった英霊と奉りますが、
日本のせいで死んでいったと言えば言い過ぎなのでしょうか。そのような事を
考えますと、人間の持つ業といえるものの深さを感じることであります。裏切り
は、『卑怯』そのものでありましょう。信じきっていたものからの裏切りは、
物理的なものばかりでなく、精神的にも大きな傷を残します。しかもその信じ方が
大きければ大きいほど心に穴を開けてしまうことでしょう。友人、同僚、仲間、人間
関係での裏切りは皆様も一度や二度は、経験されていることでしょう。
しかも、これら他人ばかりでなく、私たちは肉親さえも裏切りがあります。
兄弟、親子などの裏切りは、他人とは異なり深い『近親憎悪』の形さえとります。
他人は許せても、肉親への憎しみは許すことが出来ないようであります。
期待をしていた子供の裏切り、愛し合って結婚したはずの夫婦の裏切り、兄弟の財産
争い、このようなことは日常あちらこちらで目にいたします。
『我が思い』が何らかの理由で異なった時に裏切りと感じるのでしょう。
しかしよく考えますと『我が思い』と『他の思い』とは最初から異なっていたと
いうことでないかと思うのです。それぞれの『我が思い』というものの違いを
認めることさえ出来れば裏切りとは感じないことでしょう。信頼していたと思う
『我が思い』が強ければ強いほど《裏切り》と感じることが大きいのです。
しかし『裏切られた』と称している自分が『裏切り者』にどこかでなっているかもしれ
ませんよ。私の最大の裏切り者は『我が肉体』かもしれません。
己の思いとは別に、老いたくないのに衰える肉体、病気はしたくないのに、病気の
問屋の体の私、そして最後には『死にたくない』という私の切実な願いも虚しく、
肉体が滅んでいってしまいます。裏切らないものはないのでしょうか。親鸞聖人は
『よろずのことみなもてそらごとたわごとまことあることなきに 念仏のみぞまこと』と
お示しくださいました。無常のこの娑婆世界を念仏をまこととして歩まれたのです。