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 う  そ

「折れたタバコのすいがらでぇ〜あなたのウソがわかるのよぉ〜」等と歌っていた頃が懐かしく又可愛らしく思えてくるほど今は世の中ウソがあふれています。食品偽装から薬害・公害はひた隠し、警察、マスメディア、そして宗教家、もうすっかり私達は嘘に慣らされ「又か」と思い怒りさえも感じなくなって来ているようで腹も立たなくなってきています。この慣れるというのも恐ろしいことですね。「嘘はつき続けると本当になる」等と言いますが、言った本人さえも本当と錯覚してしまいます。それほど本当のような嘘が溢れているのです。又嘘をつかれる方も、その嘘を放置する事により、嘘はより本当に近くなっていきます。 今は「嘘か本当か」というより「損か得か」で動いています。得であれば少々の嘘は「仕方がない」と言い訳するのです。いつからでしょうかこの「損か得か」が主流になってしまったのは・・・ 勿論、資本主義社会に置いては企業、会社は宿命的に「もうけ」なければなりません。それが政治、マスコミ、宗教の世界までもが悲しいながらこの論理に浸食されているようです。
 新聞・テレビは公平?とんでもない新聞はいつも新聞広告を掲載するところのスポンサーの悪口は一切書きません、いや書けないのです。決して新聞社の得にはならないからです。テレビ、これも視聴者よりもとにかくスポンサーの顔色伺いながらでしょう。ご機嫌を損ね、スポンサーを降りる等と言われたら大変なのです。結局本当の事を伝える番組はスポンサーのつきずらい、視聴率の低い深夜枠になってしまうのです。意外と深夜に良質の番組が放映されていることは、きっとこんなことなのでしょう。「テレビで言っていたから」「新聞に書いてあったから」、この事は一番大きな嘘なのかもしれません。いや嘘と言うより「真実」を伝えていないというのが正確なのかもしれません。一面を強調したり、一面を隠したり、これも嘘と言えないでしょうか。金のため、会社存続のため、ひいてはその事が自分を守るためという理由で・・・・
 しかもその事が日常化してしまい、前述したように何が本当か嘘かがわからなくなってしまったようです。日常化は無関心を生み嘘を助長させます。いつから私達は世の中の出来事に無関心になってきたのでしょう。世の中には情報があふれかえっているのに、関心を寄せなければならないことには「我、関せず」です。政治も政治そのものよりも、スキャンダルの暴き合いですし、テレビも酒井法子騒動の顛末を伝えるのです。しかしその事は難しい政治経済の話より、刺激的なのりぴー騒動、北朝鮮の危険度を煽った方を見たがるのです。殺人事件でも単なる殺し方では視聴者を満足させれないのです。人数を多く殺し、しかも残虐な方が視聴率は上がるのです。犯人に対して憎しみを増長させる方がみんな喜ぶのです。それが今の日本の姿なのです。オウムでも北朝鮮でも中国でも仮想の憎しみを煽るものを造るのです。そうしてその世界に安住していれば安心なのです。情けない悲しいことですね。仏教はそんな私に「本当」を知れと教えます。その本当とは他のことではなく、まず本当の「私」を知れと言うことです。 我が身びいきに、嘘の世界を喜び、残虐を喜び他の不幸さえも喜び他を裁くのが大好きな私なのです。その事に気づくことが人間として生きる出発点なのです。私の罪悪性を気づかされる事は私を再生させる道なのです。仏教は覚え、知る事ではなく、気づきなのです。