わかりません

 『この問題がわかりますか?』『わかりません』『こら、こんな問題もわからないのか』
よく小さなころは、こんなことで叱られたものでした。何でもわかれば良い、わからないのはダ
メ、そんなふうに皆様も教育されたのではないでしょうか。確かに算数のように正確な答えが出
せるものもありますが、人生は決してそのような正確な答えはなかなか出てはこないのです。
どれほど私たちは、人生を『わかったつもり』となって誤りをおかしてきたことでしょう。
しかも今もまだ・・・・・どっかでボタンのかけ違いをしているように思えてなりません。
自由と平等は戦後の日本で圧倒的に支持された考え方でしょう。このことに反対でもしようもの
なら非難轟々でしょう。しかし平等ということをとってみましても、人間が造った不平等はもち
ろん解消されなければなりません。しかし自然のつくった不平等は改めることはできません。生
んだ親を選べませんし、みんな松島奈々子やキムタクのような顔にはなれないのです。もっとも
みんながこんな顔をしている世界は気持ちが悪いのですが・・・・そのようにどうしたって、自
然の不平等はあるわけです。『自由』と言うのもそうです。『自由』といったら反論の余地のな
いもののように思われています。しかし自由には相当に重い責任もつきまといますし、無限定な
自由は『勝手』な仕放題のようになってしまいます。しかし『自由、平等』というような反論で
きない美しい言葉は実現可能なような感じで一人歩きしているように思えるのです。しかし実際
にはなかなか実行は出来ないものですから、隠したり、偽善的になってきます。ある看護学校の
テキストに次のようにあります。『何よりも患者さんの痛みを知ること』『患者さんの身になる
こと』という言葉がありました。このことに反論はできません。しかし実際はどうでしょうか。
他者の痛みなんかなかなかわかりませんね。かわいい腹を痛めた我が子でも『痛いよう、痛いよ
う、死にたくないよ・・・』と言われたときに自分が我が子に代わって上げることは出来ないの
です。自分が痛くはなれないのです。もっと極論を言えば人の身になるなんてことは出来ないの
です。『出きっこない』というのを前提にして考えるのと『努力すれば出来る』と考えるのでは
ずいぶん違います。『患者さんの痛みは知りたくてもわからない、いやわかりっこがない』とい
う視点にたてば人間の哀しさ、自己の持っている欺瞞性などがくっきりと見えてくるように思え
ます。他者の身になれない哀しさ、寂しさをどっかで私たちはごまかしてきていたようです。
本当に他者の身になれたら殺し合う戦争とか、餓死していくのを平然と見送るようなことはでき
ないはずです。誤解されたくないのは、それだから『見捨てろ』ということではありません。人
間の他者の痛みへの共感などは、いつも欺瞞に満ちているということをどこかで押さえておかな
ければならないということです。『助けた、救った』何という傲慢な言葉でしょうか。
『何をしても出来きらない私・・・・お粗末この上ない私の根っこ・・・・』
仏法との出遇いはそんな私を知らされることなのです。