忘 れ も の

 『日本人は、花鳥風月を愛し自然と共に季節のうつろいにも心を寄せて生きてきた』と言われています。川のせせらぎを聞き、自然と共に生きることに喜びを見いだしてきた民族だと思われていました。しかし今日、山や川、海などにおいて進行中の現実を見て日本人の本質がそのようなものだとは、とても思えなくなっています。すべてのものが役に立つか役に立たないかの視点であり、合理的であるかないか、経済的か不経済か、このような感覚でしか見られなくなってきているようです。先日ある著名な建築家が『皆さんこの地図を見てください。肝腎の東京湾の真ん中がポカッとあいています。こんな無駄なことはないのです』と言われたのです。東京湾を海ではなく、空き地と見る感覚です。海さえも経済効率の一環としてとらえられていきます。共通なのは人間にどのような便利さをあたえるのかということだけです。しかしそのような事が何を生み出していったことでしょうか。自然が壊され、農薬漬けの野菜を食べ、食物への感謝も忘れ、そればかりか人間関係さえも大きなひび割れ症状のように思えるのです。他者への心配りは人間だけとは限りません熊本・水俣病裁判でチッソ工場より補償金が獲得出来た事を報告する集会で一人の参加者が次のように発言いたしました。『人間に対する補償はとれたとしても、あの海に再び住めなくなった魚たちに対してはどんな補償があったのか』。この質問にだれも黙ってしまったということです。すっかり今日私たちが忘れてしまったものの重大さを思い知らされます。
あるところで次のようなことを聞きました。
【昔あって今いなくなってしまった人生の五人の指導者,
         一、祖父母、一、兄弟、一、ガキ大将、一、自然、一、貧乏】
核家族が進み祖父母が同居されている家庭は少なくなり、伝統とか、聞き伝えが少なくなってきています。兄弟も子供が少なく一人っ子が多く兄弟で競い合ったりすることがなくなってきています。ガキ大将は面倒見の良い地域の人というように受け取ってください。地域社会の崩壊が今も続いているようです。そのようなところからなかなかこのような方は生まれてきません。自然、これも都会においてはほとんど学ぶことができません。
包丁まな板のない家庭があり、米さえも研がずに炊いてしまう便利さ、システムがおかしくなってきているようです。貧乏も感じられにくくなってきています。
そのことが逆に分限を知らず『金さえあれば』になっているようです。
『何か忘れていませんか』、効率を追っかけているうちに忘れたものの大きさを思います。この五人の指導者の共通項はいのちのつながりを教えているようです。仏法の教えもまさにこのいのちの連帯性に他なりません。『私という存在はただそれだけでは成り立たない、いのちのつながりの中でこそ人間といえる』(縁起)のです。
忘れものを探し求めて歩みませんか。それはきっと自分探しにもなると思いますが・・・