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 ゆ と り

「ゆとり教育」と叫ばれて何年たつことでしょう。今再び教育水準の低下が言われ、ゆとり教育も見直されているようです。詰め込み教育の反省から、ゆとり教育は誤りではなかったのでしょうが、方向が違っていたのかもしれません。しかし今ゆとり教育が実践されたのにもかかわらずゆとりある方向に私たちは向かっていったでしょうか。それどころかギスギスした人間関係、人と人との関係性が絶たれ、ゆとりどころか息が詰まる思いが加速しているように思えるのです。情報化時代の今日、私たちは何でも知って当たり前、知らせてもらうのも当たり前、知らせないのはそちらが悪い、情報公開当たり前になっています。ところが自分のことはプライバシーと称して「知られない」のが当たり前、漏れたりしたら侵害されたと大騒ぎ、権利、保証はとなってしまいます。極端に言えば「他人のことは何でも知る権利」、「自分のことは知られない権利」となってしまいます。これでは大局的に見る余裕がなくなり、自分の思い通りにいかないのは他の責任になってしまいます。又、うまくいかない理由を他に求めます。 その理由が見つかるまで、私たちは安心できないのです。その理由がどんなに理不尽であっても探し続けるのです。どうもゆとりとか、余裕とか、のんびりとは遠いところにいるようですね。 時間がないのも今の日本の特徴でしょうか。いや時間があっても時間がない生き方をしているのです。無理にスケジュールを詰め込み隙間の時間をなくしてしまい、それでなければ安心ができなくなるような生き方です。便利さは本来私たちに時間と余裕を与えてくれるものでしょう。それなのに昔にも増して多忙に生きているのです。何か変ですね。洗濯機のない時代女性は一日の半分の時間は洗濯に費やしていたと思います。ボタン一つで掃除も洗濯も料理も出来、その余った時間を何に使っているのでしょうか。お寺の月参り等も、日時がきっちりしていないとならないのです。年回法要ならともかく、毎月のお参りもいつもと三十分遅くなれば苦情です。前なら一日中、月一回ということで待っていただいたものでした。それは待つ方ばかりでなく行く側もあくせくしているのでしょう。お互いが、全くゆとりが感じられません。 子供も時間に縛られています。塾の時間、テレビを見る時間、勉強する時間、時間を忘れて体中を使って遊ぶことがなくなっています。テレビゲームでは時間を忘れますが・・・
 仏教に「柔軟心」という言葉があります。他に対しても、どんな状況に陥っても忘れてはならないことだと思います。この心は他に対する気持ちと言うよりも自分に対する厳しさがなければなりません。他の過ちを咎めず笑って見ていける余裕がなければなりません。
 それは自分も同じ過ちを犯しうる人間という自覚がなければなりません。良寛さんも一休さんもその優しさに秘められた自己に対する厳しさを感じるのです。もちろん宗祖親鸞聖人にもどんな過ちを犯してもそっと寄り添って下さる暖かさを感じるのです。
 そのことが、ゆとりとか、懐の大きさを思うのです。自分のみを正当化するところからは決してこのようなことにはなりません。今、東北の被災者に寄り添うとは、どれだけ自分に厳しくなれるかが問われている言葉なのです。
 口で言うのは簡単ですが寄り添うということが、どれだけ大変なことか・・・・