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                               善 財 童 子

三月になりますと、北国に住む私達は、寒さ、そして雪からの解放なのか、心が弾んでまいります。又年度始まりということもあり、新たな気持ちになりますね。何か、第二の正月のように思えます。この季節をよく旅立ちと言います。新社会人、新入生の姿も初々しく、まぶしく見えます。「可愛い子には旅をさせよ」と言う言葉があります。旅は人生の試練でもあり、新たな出会いであり、そして、自分を鍛え上げる貴重な経験であります。それは空間的な旅というよりも、「こころの旅」と言った方が良いのかもしれません。お釈迦さまも、芭蕉も、西行も、そして宗祖親鸞聖人も、生涯、求道の旅を続けられた方であります。旅が与えてくれるものの大きさを思います。【昔、インドに善財童子という子供がおりました。大金持ちの長者の子供でしたので何不自由なく暮らしており、毎日遊んでばかりおりました。そんなことですから、人には馬鹿にされておりました。ある時「これでは良くない」と一念を起こし、文殊菩薩の教えに従い、求道の旅に出ました。「多くの人から、出来るだけ教えを受け、自分の心をみがき、人に笑われないようになりたい」との思いから「どんなにつまらない人も、何か一つは立派なものを持っているものだ」と五十三人の人々から様々な経験や、智慧を学んでいき、立派な人になった】(華厳経)ということであります。東海道五十三次もこの五十三の数字が下敷きになって宿場が造られそうです。昔の旅は困難を極めました。親鸞聖人が京都より越後に流罪の旅の途中に詠まれた「越路なるあらちの山にゆきつかれ 足も血潮に染しばかりぞ」は命がけの旅の厳しさをあらわしていますし、又、関東におられた門徒の方々が京都に帰られた聖人を訪ね、「オノオノ十余ケ国ノサカヒヲコエテ 身命カエリミスシテタツネキタラシメタマフ」(歎異抄」と、求道の旅がどれほどのものであったのかを、物語っています。今は東海道五十三次も新幹線で三時間ほどでしょうか。便利さが私達の考える場、本当の学ぶべき場を奪ったのかもしれませんね。 この善財童子の話は現在の子供と似てはいないでしょうか。不自由のないモノに溢れた生活、そして、ヘンにアタマが良いところも似ているように思えます。ただ一つの違いは「こんなことではよくない、何とかしなければ・・・」という自覚に立ったことです。私の不完全を知らされること、これが、仏教の眼目だと思います。しかし今は子供ばかりか大人まで、「もっと豊かに、もっとお金を」ばかりです。いや大人がその中心をなしているかもしれません。昨年は「品格」が流行語にもなりましたが、こんなところが真実の品格だと思うのですが。ところでこの善財童子は日本では孫悟空の「西遊記」にも出てきます。牛魔王と羅刹女の間に生まれたとされ、名前は紅孩児、最初は三蔵法師に悪さをいたしますが、やがて改心して観世音菩薩に導かれ、善財童子になつたというのが西遊記版です(豆知識)。「人間の心」そして「ふるさと」を求める旅をしてみませんか。『かわいい娘にゃ旅をさせ、殿よ、憂いも辛いも旅で知る』という謡がありますが、世間の表裏も、機微も学ぶ尊いほんとうの旅ごころを探る旅が復活してほしいものです。人生に行き詰まったり、悲しいことうれしいこと、様々な打開を求めてあなたも人生の旅で学んでみませんか。たまには多くの仲間とではなく、たった一人での新鮮な、孤独の旅も、多くのことを教えてくれると思いますが・・・・・淋しいかな