No.81

週末実家に帰って久しぶりに父親と長く話した。ここ暫く父親は写真に凝っているようだ。彼は学生の頃から結構なカメラで写真を撮っていたから写真は今に始まった事じゃない。でも変わったのは写真を引き伸ばし壁に飾るようになったことだ。絵の類なら昔からたくさん飾っていたが写真を飾っていた記憶は無い。彼は撮った写真をアルバムにまとめるのが常でそのアルバムは既に百冊以上ストックされ現在も増えつづけている。アルバムを開くと写真の他に和紙を千切って張ったタイトルがあったり、訪問した場所に付いての文章があったり、食事した場所の箸入れなどでスクラップされている。そこに貼られている写真は作り込んだものがあったり記念写真があったりと作品性とかスナップ写真とかの区別には拘っていないように見えた。

父親は数ヶ月前に「開眼して困った」と冗談を言いながら額縁に入れた写真を見せてくれた。それから実家には少しずつ写真の額縁が増えていった。そんな彼が昨日は「写真は難しい」と言った。曰く絵画なら画家がどれだけ駄作を描いてしまってもその作品は作家の手の内から零れ落ちる事はない。そこには出来不出来があるだけだ。おそらく音楽家もおなじだろうし、芸術とは本来そういうものではないのか。でも写真は違う。時に作家の狙いと全く違う写真が出来てしまう事がある。そこに作家の入り込む余地はあるのだろうかと・・・。もちろん写真家はシャッターを切る瞬間だけが仕事じゃない。被写体には色々な種類があり、撮影には適した準備があり、写真家はファインダーの中の映像を狙ったようなプリントに仕上げる技術がある。言うまでも無くそんな事は解った上での問いだった。

撮影し出来上がった写真を見る。狙い通りの写真が撮れてる時もあれば良くも悪くも自分の意志とは違う写真が撮れてしまう事もある。その偶然性も写真の楽しみの一つなのだが、思いもよらず良い写真が撮れてしまった時にこそ作家の足元が揺らいでしまうのかもしれない。

父親は陶芸を例に挙げた。陶芸家は釜から出てくるまで作品がどうなるか解らないと言う。そんなものが芸術といえるんだとうかと彼は言った。それは表現者と作品の関わりかたを問題にしたんであって、陶芸をバカにしてる訳じゃない。

作品ってなんなんだろう?それは人が意志を持って表現したカタチだ。芸術ってなんなんだろう?それは作品に対して第三者が付加した価値だ。だから湖に映る富士や霧の摩周湖がどれほど美しくてもそれらは芸術ではない。だが出来てしまった美しい壺は芸術になるし、撮れてしまった写真も芸術になりえる。

性格上絵画は画面を作り上げる作業だと思う。その作業は全てが眼前で行われ作業時間に制限がない為完成を決めるのはある意味妥協とも言える。それに対して写真は画面を切り取る作業なのかもしれない。フレームに切り抜く瞬間を時間は待ってくれないし、目の前に存在しないモノは永遠に写真にならない。

何かを作り上げることは困難だが、有るモノを壊す事は容易い。肯定することは難しいが否定する事は簡単だ。写真の場合被写体は絶えずレンズの前に有る。写真家が作品性に明確なオリジナリティーを求め、その作業がシンプルであればあるほど違いをスタイルに求めがちになる。カメラを使ったパフォーマーを別にしてスタイルが本意になってしまったら元も子もない。スタイルは生き方として作者を色濃く写すが作品の芸術性とは関係無い。作品よりも先に本人を思い出してしまうような芸術家というものはどんなものだろうか。

写真を撮ることは難しくない。撮影の為にどれだけ準備をしようと写真を撮る作業は一瞬で終わる。カメラとはそういう道具なんだ。それだからこそ撮影者はフレームと同時に時間を切り抜くことができる。切り取られた景色や瞬間に意味があろうが無かろうがそれらは二度と再現されることはない。それだけで写真は充分魅力的だ。だからこそ作者の介入が問題になる。写真という表現方法の難しさはそのへんにもあるのかもしれない。

写真を撮りつづけてる友人は「押せば写る」と言う。彼はレンズの先に光がある限りシャッターを押せば何かが写ると言うのだ。写ったモノは作品ではなく、その写真を見て誰が何処で何を写したかなんて解る必要もないと言う。ひょっとすると彼にしてみればカメラにフィルムが入ってる必要さえ無いのかもしれない。それをスタイルだと片付けることは容易いが、実践し続けることは楽しい事ばかりじゃないのかもしれないし、そこからしか始まらないものもあるのかもしれない。こんなこと言うと嫌がられるだろうけどそのスタイルには彼自身が如実に反映されているようにボクは思ってしまう。

jac amano

   jac Amano's eye より拝借

芸術は美しい。でも反面美しさの裏には常に犠牲が寄り添っている必要があるのかもしれない。そしてその犠牲の闇が深ければ深いほど芸術は崇高に輝くのかもしれない。芸術はこの国のように国民全てが中流意識の国には育ちにくい。奴隷制度が土台になり古代ギリシャに文化が開花したように芸術には差別、軋轢、弾圧、そして犯罪、戦争そんなエネルギーが力を与える。美は無料だが芸術には金がかかる。でも芸術が必要とするのは純粋に道楽に出費するパトロンの金であって投資家のファンドではない。投資家の金を使うと芸術はダメになる。残念な事に日本での芸術の意味は商売と同義かもしれない。

ゆえに犠牲を持ち合わせない者にはその程度のモノしか表現出来ないのかもしれない。母親に抱きつく子供の姿は美しいが芸術ではない。それは富士と同じだ。崇高な芸術は気高いがおそらく善ではない。否、そもそも崇高とは善ではありえない。そこに正義を持ち出せば全てが陳腐になる。芸術は陶酔であり狂気であり欲望だ。芸術とは人間そのものなのかもしれない。

芸術が無ければ生きていけないほど才能豊かな人は少ない。ひょっとすると芸術は溢れ出て止まらないもので、そんな人たちを救っているのかもしれない。だが芸術がある為に苦悩する人は多い。多くの表現者が芸術と呼ばれるが為にのたうちまわって苦しんでいる。

ゼロか百かの話じゃなくてどんな写真を撮ろうとどんな絵を描こうとその作品には間違いなく作家が映ってしまうとも言える。あるいは作品から作家の影を消す作業の方が難しいのかもしれない。それが芸術かどうかなんて問題にするから出来てない作品を想像したり、既存のイメージに似せようとしたりして自分の自然なスタイルを歪めてしまうのかもしれない。どんな絵を描こうがいつシャッターを押そうが出来たものに映っているのが自分自信の存在であることに間違い無い。ボクは芸術という「評価」がなければもっと素直に楽しい表現ができるんじゃないかなと思ってしまう。

「美はそれを見つめる瞳の中にある」ボクはこの美しい言葉を信じることにします。

そもそも趣味の写真の話なのに大げさな話になってしまった・・・

別の話になるけど先日写真家の旧友がこれまた女流写真家と結婚した。将来彼等も自分達の子供の運動会にカメラを持って出かけるんだろうか?想像するとなんだか楽しい気持ちになった。

05/05/22

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kuntan's note