技研

《戦略技術研究所》
SSL....Strategical Skill Laboratory....

『ニル・アドミラリ』
オンライン・ゴシップ&ウィット・マガジン
"Nil Adomirari"

《読切》創刊号終了
  ニルアド編集部 1999年 10月 14日 22時 04分 48秒
 長らくご愛顧頂いたオンライン・ゴシップマガジン『ニル・アドミラリ』は今回を持って終了となりました。ただいま編集部では、蓄積したノウハウを活かすべく、新企画を検討しています。そこそこに御期待下さい。管理者様、ライターの皆様、そして読者の皆様、またいつかお会いしましょう。……したらな!

《連載》ほのぼのコラム「見上げてごらん」T
「ヒトは社会性動物?」

 ヒトは多すぎる、そう思いませんか? 都市などに赴いたり、報道番組を見ていて特に強く感じるのですが、ヒトの数は哺乳動物のそれとはとても思えないのです。繁華街などを歩くと障害物は常にヒトです。都市をヒトの巣とすれば、そこにヒトが群れているのは当然のようでもあります。
 しかし仮に都市をナワバリとした場合は、あの密度は異常です。町の風景を見て私が真っ先に連想したのは、アリの巣でした。その数を含めて、人のさまざまな生態は他の哺乳動物よりも、アリに代表される社会性昆虫に近いような気がするのです。
 個体の能力以前に決められてしまう階級制度、全体の為に個体を切り捨てる選択を選び得る社会システム、階級制度に付随した厳密な役割分担。これで女王ヒトがいてそれのみが生殖を行うようになれば正にアリ、或いはハチですね。
 はたらきアリやはたらきバチはその生涯をはたらくことに費やし、システムのパーツであり続けます。はたらきアリには常に予備がいて、個体としては何の意味もなく、子孫すら残さないので生命とすら呼べず、アリ社会そのものが一つの生命であり、はたらきアリはその一器官・断片に過ぎません。そこに意思と呼ばれるものは存在せず、はたらきアリは正に歯車・機械に徹します。

 ヒト社会では人権なる言葉が存在します。人権を大雑把に定義すると、あるヒト個体に与えられた生存や行動選択に対する自由意志を指し、ヒト社会ではそれがあらゆる個体に対して保証され平等に与えられるべきである、ということになっています。ですがこれには但し書きがあります。法律や戒律の中でというもので、簡潔にいうなら、社会システムと他者の人権を脅かさない限りにおいて、です。
 例えば、毒ガスを撒き散らして無差別殺人を行い社会を恐怖に陥れた個体があった場合、その個体の人権は保障されません。彼(とします)はその人権を剥奪され、場合によっては生存を許されません。さて、これは当たり前ですか? もう一つたとえ話を。
 ナチスのような集団が政権を握り、彼らが劣等と定義する民族を根絶やしにしたとします。根絶やしにされた民族の総数がそれを劣等だと定義した人々よりも少なく、その社会の総意としてはその民族は劣等だった場合、それは正しいということになります。政権や社会は、その民族を不安因子や脅威だと感じている訳で、それを排することは即ちそれ以外の大多数の人権を救うことであり、だから正しいのです。さて、これは当たり前ですか?

 この二つの極端なたとえを当たり前、或いは正しいと感じた方は、立派なはたらきヒトとしてヒト社会に生存を許されるでしょう。極端に過ぎて考えるのも馬鹿馬鹿しいと感じた方は、大した楽観主義でしょうし、または盲目だとも呼べるでしょう。

 私見ですが、人権という考え方は支持します。しかしそれは各人が抱いて実践するべきで、他者やシステムが遂行すると少なからぬ矛盾が生じるような気がします。
 ですが、辺りを見回してみると明らかに不要で無意味な劣等個体が多く、システムはやはり必要です。劣等個体の劣等さは排除に値し、しかしその様な判断はヒトとして、下したくないのです。ですからシステムにそれを排して欲しいと願います。どれだけの数を排するかというと、システムが不用になる程度に、です。そうしてはじめて各人に人権というようなものが与えられるのかもしれません。

 健全な営みは、健全な数の下においてのみ行えるもの、これが私の考えです。だからこそ、ナチスのやりたかったことに、ある面においては理解を示せるのでしょう。昆虫的社会システムを取らざるを得ないほど追いつめられた、現在のヒトをそう捉えています。

  サルトル・サスケ(金融詩人) 1999年 10月 10日 15時 12分 29秒
《連載》執筆アドヴァイス『キーはペンより強し』第四回準備稿
「愚理夢メモ」※後日、再掲載

 とある創作小説サイトを覗いた。素人作家が集い、プロ作家になるにはどうしたら良いのかといったことについて意見交換を行っていた。文章技術、公募の一覧、投稿作品批評、至れり尽くせり。

 火事だ! 「火事だ!」と鐘を鳴らすだけでは意味がない。火事ならば、火を消さなければ! 小説を書くとは、火を消すことであり、鐘を鳴らすことではない。作家とは火を消せる人のことであり、鐘を鳴らすことは誰にでも出来るが、火を消すにはそれなりの技術と使命感が必要なのだ。
 そもそも作家とは職業分類ではなく「人種」の呼称であって、後天的に「なる」ものではなく、作家として誕生するものである。努力したって日本人はアメリカ人にはなれない。それと同じで、努力しても作家にはなれないのだ。努力してなれる作家は本当の作家ではなく、作家や作品は時代が生み出す、天才と芸術のことを指す。作家は言葉を「受け取る」或いは「産み出す」のであって、組み立てたり並べ替えたり、借りてくる訳でも決してない。そして、自らが天才かどうか解らない、それは即ち天才ではないということの証明であって、普通天才は自分が天才であることを本能的に知っているものなのだ。
 小説は誰にでも書けると勘違いしている人々が溢れている。模写の末獲得した自分の操る言葉と、本来の意味での作家のそれが同じだと頑なに信じる、その根拠は一体何処にあるのだろう。同じ文字、同じ日本語だから同じだというのは、視野の狭さ、認識の未熟さの表われであろう。
「文字」や「言葉」「文章」といったカテゴリーで括って「同じだ」という論法は、車と飛行機を「乗り物」と分類することと同じで、つまり間違いではないが無意味なのだ。同じ乗り物だからといって車と飛行機、果たしてどちらが「速い?」という設問は成り立たない。これと同じで、作家ではない人の発する言葉と、作家の放つ言葉は、言葉というカテゴリーにおいては同質でも、全く異なるものなのだ。両者のどちらがより「感動的か」「意義深いか」など、聞くこと自体が間違いなのだ。そして、その違いに気付くかどうか、それが作家たる資質の有無でもある。
 世の中には努力や時間では超えられない性質のものがあり、それに気付かなければ有限の時間を無駄に浪費するばかりである。作家に憧れて作家を目指す、これほど無駄なことはない。

 作家とは、発するべき言葉を持ち、それを発するもののことだと知るべきだろう。

 私のこの思い、どうすれば読者に通じるのでしょうか? どうすれば読者を楽しませることが出来ますか? 個性的で独創的なお話を作るにはどんなことを学べば良いですか? 作家になるにはどんな小説を書けば良いですか? そもそもどうやったら小説が書けますか? 断片で浮かぶ場面、どうすればそれを感動的な物語として綴れますか?
 答えは一つ、「それらが解らない貴方は、作家ではありません。おやめなさい」

  愚理夢(ネットサーファー) 1999年 10月 06日 02時 19分 05秒
《連載》執筆アドヴァイス『キーはペンより強し』第三回
「現実と虚構」

 民放で『世にも奇妙な物語』というオムニバス形式のミステリーを観ました。テレビを観賞すること自体が珍しい私ですが、案の定というか、この番組に対し余りに腹が立ち、怒りを通り越して脱力してしまいました。今回はこの番組に対する感想から、「現実と虚構」について語ろうと思います。その番組、『世にも奇妙な物語』の中の一つで、「逆男{さかお? ぎゃくおとこ?}」と表題のついていたものの粗筋を紹介し、それから分析に掛かります。

 コピー機の販売をするサラリーマン、彼はそれまでの人生での選択の機会において、尽く間違った方を選んでしまうという不幸を背負っていた。
 出社風景、駅の切符販売機に並ぶ二つの列。どちらも同じ程度の長さで、右を選ぶと彼の直前で「発売中止」の表示。オフィスのロビーで二つ並んだエレベータ、同時に到着した片方に乗ると後から後から人が押し寄せ、すし詰め状態。営業に行き、得意先の主人が甘党だと聞き菓子を持参しようと店に赴き、そこには和菓子と洋菓子の店がある。どちらにしようかと悩み和菓子を持参すれば「わしは和菓子は大嫌いなんだ!」、商談は決裂。別の商談、「君はどちらのファンかね?」と二つの野球チームの帽子を出され、選んだ途端「帰れ! 気分が悪い!」と怒鳴られる。常にこのような調子だった。
 そんなある日、彼の恋人が云った。「確実に悪い方を選べるのなら、思った方と逆にすればいいのよ」、そして、彼の人生は一変したのだった。
 再び営業、客がワイン好きだと聞き酒屋へ。赤と白を手に悩み「赤だ」と決め、そこで思いとどまり「……ということは、逆?」白ワインを持参し、営業は大成功。同僚から誘われた合コンではどう見ても劣る方の女性を選び、しかしその女性の父親が実は大会社の重役で「娘が久々に楽しい時間を過ごせたと大喜びだ、ありがとう。今度我が社でコピー機を取り替えようと思っているのだが、その千台、是非君にお願いしよう」終始そんな調子で、彼はとうとう副社長にまで上り詰める。
 忙しさの余り会えなくなっていた恋人と久しぶりに出会い、彼女は云った。「でもやっぱり、自分の気持ちに正直であるほうがいいのかもしれない」と。「でも、駄目なんだ」と彼。
 ある日彼にNY支店の社長ポストの話が訪れる。しかしそれには一つの条件があった。得意先の令嬢との結婚話だった。令嬢は容姿端麗、絶世の美女、悪い話どころかこれ以上の幸運はないくらいである。疎遠になっていた元の彼女を思い返しつつ、彼はチケットを手に空港へと車を走らせる。その道すがらラジオ放送で元の彼女が自動車事故に巻き込まれたことを知る。驚いた彼は車を止め、そして悩む。彼の目の前にはY字路があり、右は空港、左は彼女の運び込まれた病院へと続いている。
 彼は結論を出した。「小さな幸せでいいんだ。自分の気持ちに正直でいたいんだ」、車を病院に向けたのだった。場面は恋人の病室。男が駆け付け、その男に向け彼女は「本当に大事な人が誰だか、やっと気付いたわ」目を潤ませる。男は云う「結婚しよう」、しかしその男は、決断した彼ではなく、彼の昔の同僚だった。場面は再び走る車へ移り、彼は「待ってろよ」とハンドルを握っていた……フェードアウト。

 以上が粗筋です。いかがですか? 私はこれを観てとても情けない気分になったのです。といっても「そう、現実なんて所詮こんなものなのだよ」などでは決してありません。このお話の脚本家が一体どんなつもりで書いたのか、それに対して情けなく、悲しく思ったのです。
 仮に私がこの話を書いていたら、結末は、全てを棄てたつもりの選択が実は正しい、幸せな選択だった、というハッピーエンドにします。間違いなく。何より、このお話を観ていた時の私はそれを望んでいたし、きっとそうなるだろうと思っていました。そして全く逆だった結末に対して脱力したのです。
 あのお話の結末に対して皆さんならどんな感想を抱くでしょうか? ほぼ百パーセントが「そう、現実なんて所詮こんなものなのだよ」でしょう、断言します。何故か? それ以外の感想など一切考えられないからです。あのお話は「世にも奇妙な」物語と銘打っていますが、実は殺伐とした現実を描いている、極論すれば「ドキュメンタリー」です。
 私が望んだハッピーエンドは、もし現実で同じような状況に出くわした場合、まず有り得ません。「そう、現実なんて所詮こんなものなのだよ」ですから。だからこそハッピーエンドには価値があり、だからこそ「物語」なのではないでしょうか?

「夢は必ず叶うんだ!」そう強く訴えているお話があるとしましょう。その結末が「いいえ、現実はそんなに甘くないのです」というものだったとします。私はそれに対してこう思うでしょう。「甘くない? そんなことは貴方に云われなくても知っています」と。ある決断を迫られ、主人公が「信じた道を行くんだ!」と一方を選び、そして最悪の事態を迎え、幕。そこにある主題、著者や製作者からのメッセージは「現実は夢物語じゃあないんだよ。不幸だったり悲惨だったりなのだよ」でしかありません。
 でも、それを読んだり観たりする人々は全員が「そんなことは知っている」筈です。誰もが知り得る事実を語る物語、こんなものに価値などあるのでしょうか? 少なくとも私には見出せません。そんなものは、わざわざ作り話を観なくても、我々の日常や報道で繰り返し現れており、そして誰もが嫌というほど思い知っています。

 この不可思議な現象の正体はしかし単純です。前述したような「不毛な」お話を綴る人(以下、暫く著者と記述します)はこう考えているのです。
 世間一般の人々は「夢は叶うんだ」「誰もが幸せになれるんだ」「正義は必ず勝つんだ」と楽観的である。著者はそれに対して「現実はもっと暗くて厳しい、決して夢物語なんかじゃあないんだ」と嘆き、それを痛烈に訴える為に「不毛な」お話を綴る。「こうなればいいのに」という局面は著者の考える「厳しい現実」となり、その殆どはバットエンドとなるのです。夢に向かって突き進む青年は挫折し、正義の闘いに赴いた勇者は雑兵に打たれ、深く愛した二人は二度と会えず、……全て「現実的」なお話となります。
 最近接したこのような作品は、アニメーションの『劇場版エヴァンゲリオン』、プレイステーションの『ムーンライトシンドローム』などでした。両作品の後味の悪さ最早芸術です。

 さて、前述について何処に「歪み」があるのか皆さんは解りましたか? 著者は「ハッピーエンドなんて所詮はありえない、それが現実なのです」と、哲学者か何かのつもりです。彼の綴ったお話は彼の考える「現実」であり、それが例え架空世界を描いたファンタジーであろうと未来世界を描いたSFであろうと、「現実」なのです。普通、現実というものは我々のすぐ隣にあるものですが、著者はそんな「どこにでもあるもの」をわざわざ作り出しているのです。私を含む人々にとってその著者の手による作品は、「現実」と同じく「どこにでもあるもの」であって、価値は一切ありません。だって、すぐ隣に幾らでもあるのですから。
 もし、執筆や創作によって「現実」を描きたい方がいらしたら、私はジャーナリストになることをお勧めします。例えば「人間の愚かさ」を、魔法と妖精を使って訴えることは全く無意味です。人間が愚かだということはある視点に立てば紛れも無い現実であって、報道番組や新聞などに接すればすぐに知ることが出来ます。それをわざわざ架空物語に変換することは無意味です。
 いうまでも無く、「現実には有り得ない」からこそ「創作」であり「物語」なのです。ハッピーエンドは、それが「現実では有り得ない」からこそ価値があり、また楽しいのではないでしょうか? それに対して「楽天的」「甘い」と怒り出す著者は、どうにも狭い視野の持ち主なのでしょう。強迫観念の持ち主か、分裂症か、といった具合です。

 蛇足ながら、そうやって「私は知的なリアリストなのです」「私の両目は真実のみを見ているのです」と主張されると、見ている方が恥ずかしいので遠慮してもらいたいものです。

 存在価値の無い人類、極まる環境破壊、繰り返される悲惨な戦争、醜い深層心理、正義の愚かさ、痴情のもつれの果ての猟奇殺人などを題材に「フィクションを」創作されている方へ。もう一度自作を読み返してみて、もしそれが単なる「日記」だとしたら、またはバットエンドに「リアリティ」があったとしたら、私小説作家か報道記者への転向をお勧めします。
「現実に有り得ないこと」を創造できるかどうか、それが幻想(フィクション)作家に欠かせない資質の一つであることは間違いありませんからね。実在することを書く、誰にでも出来ますよ、そんな簡単なことは(笑)。

  愚理夢(楽天家) 1999年 09月 28日 01時 09分 44秒
《連載》『執筆アドヴァイス『キーはペンより強し』第二回』
「クランク・イン」

 どうも、愚理夢です。第一回では執筆に対する姿勢などを論じてみましたが、第二回では具体的な話題を扱うことにします。
 という訳で今回は「執筆の取り掛かり」についてです。書こうとするのに何故か筆が進まない、そんな経験はありませんか? それを打破する実用的技術をご紹介します。が、あくまで一例ですので余り過信なさらないように。以下を読み進める際「プロット」と「設定資料」と「小道具」といった言葉を使い分けると明確になります。

 物語にもよりますが、私はプロットは大まかで起承転結のみ、時にはオチだけということもあります。ちなみに短篇だと顕著です。これぞというオチを思い付き、しかし最初の一行をなかなか書けない、良くあります。そんな時どうすればいいのか?
 幾つか手法はありますが、風景、情景描写から入ると上手く行くようです。実は「映像」がこの手法を常套手段としており、というより映像では当たり前かもしれません。ロングからズームする、或いはパンする。まずはそこがどこなのか、時間や季節、時代をその景色で受け手に印象づける(説明する)ということです。
 執筆でも同じ手法が使えます。これは受け手の都合、理解補助という側面もありますが、実は著者にとっても凄く都合が良いのです。

 小説を書くに当たり設定資料やプロットを練ることはしますが、カット割までする方はまずいないでしょう。そうすると、どうなるのか? 名場面は幾らでも「想像」できますが、それをどうやって「見せる」かが決まらず、結果、筆が一向に進まないのです。流れに乗ればあとは粗筋やプロットに従い書き進められる筈なのに、そこに辿り着けない。
 それもそのはず、カメラワークや大道具・小道具、俳優、エキストラや照明がきちんと決まらずに「撮影する」ことなど出来る訳が無いのです。執筆を撮影に喩えると良く解ります。脚本だけで映画が出来るのなら誰も苦労はしないでしょう。
 大まかなプロットの場合、細かなパーツを決めないのは普通ですが、執筆に最も必要なのはその細かなパーツです。登場人物を動かすのにその人物の背格好やら服装が決まっていなければ、当然ながら会話もままなりません。何も決めずに会話を描けるのは、会話だけで構成されている場合や、叙述トリックなどに限られます。
 それをわざわざ設定として起こすのも手ですが、いきなり構築してみてはいかがでしょう。という訳で、書き出しを情景描写にするのです。

 主人公はどんな奴か、そいつは今どこにいるのか、そういったことを「簡潔に」描写する。物語の進行にとっては些細な部分なので、プロットの段階ではそんなことは考えないでしょう。しかし「絶対に」必要なのです。筆が進まない理由を思い返してみれば納得するのではないでしょうか。科白や出来事は手に取るように分かっているのに、何故か書けない。理由は、物語に必要なものはそろっていても、一見大したことの無い、その実欠かせない「衣装」や「背景」「エキストラ」「照明」「音響」など、「撮影」に必要な部分が揃っていないからです。それをいきなり構築する為に、冒頭を情景描写にするのです。
 いかがでしょうか? これを知っているのといないのとでは、こなせる量が全く違います。短篇に威力を発揮しますが、長篇においても役立ちます。新たな展開の冒頭は難しいのですが、難なく乗り切れるでしょう。

 意味ありげな冒頭は、それが手元にある時にだけ使って、後はセオリー通りにやった方が読者の為にもなりますから、お勧めです。また、情景描写「でもある」記述だと、益々書き易くなります。最初の数行で主人公がどんな奴でどこにいてその世界がどこなのか、全て解るようにするのです。冒頭で「撮影材料」の殆どを決め、後は物語の進行(脚本)に専念するのです。

 そしてこれも大切なポイントですが、綴った情景描写部分が気に入らなくても、取り敢えずはそのままにしておくことです。そうやって生まれた「撮影の為の小道具」を使って話をどんどん進め、矛盾や不満が出てくるたびに情景描写部分に「修正」をかけるほうが、健康的です。なんといっても撮影の基本は「沢山撮って、削る」ですからね。

  愚理夢(夢見る暴れん坊) 1999年 09月 23日 18時 32分 52秒
《連載》『執筆アドヴァイス『キーはペンより強し』第一回』
「欠片に宿る勇者の魂『作家』」

 漸く連載開始、愚理夢です。さて、「キーペン(ニルアド編集長命名の愛称)」の記念すべき第一回は、ファンタジーやSFといった架空・幻想小説へ取り組む方々に向けた「執筆姿勢」です。これから執筆するにあたり、どのような心構えを持つのが最良なのか、私なりに論じてみようと思います。

 ある物語を書き終え賞に応募し、めでたく受賞。程無くその受賞作品が連載を開始する。中高生に向けたファンタジー系小説で見掛ける現象です。が、この中で気になる部分があります。それは「受賞作品が」という個所です。
 そもそも、受賞作品の続きが「書けること」が私にはピンとこないのです。例えば「スレイヤーズ!(1)」、あれならすぐにでも続き、或いはアナザーストーリーを産み出せるでしょう、納得です。ですが何故、続きが書ける程度の「小ぶり」な作品が、こともあろうに受賞(同作品は準入選)してしまうのでしょう。小ぶりという言葉にピンとこない方もいらっしゃるでしょうから、以下に記してみます。

 ファンタジー(以下FT)やSFの、他ジャンルより抜きんでた強みは「足枷の無い創造力」だと考えます。そしてFTやSFを書くのであれば、そこにこそ力を注ぐべきであり、またそこを審査するべきだとも考えます。創造力を結集してある架空世界を創造し、そこで「現代劇では語れない」物語を紡ぐのです。
 論理的帰結、或いは直感的に、その物語は、創造された世界の成り立ちそのものに深く根差したものとなり、そこは単なる舞台以上の意味を持つことが容易に見出せます。いや、執筆する対象としてFTやSFを選んだのならばそうでなければならず、単なる器としての世界や出来事に留まる限りは同人やマニア、猿まねの域を脱していないとさえ思います。

 整理しましょう。
 ある日、一編の言葉や瞬間の映像、新たな価値観や思想が頭に浮かぶ。それはとても印象的で意義深く、誰かに伝えたいという欲求は日々つのる。一編の言葉を解り易く伝える為、それを織り込んだ物語を組み立てる。そのまま発したのでは難解で受け入れ難いので「たとえ話」を展開するのです。しかしその言葉を具現化するには、現代は余りに狭くて小汚い。自らの立つ世界、今まで見聞きした世界は、突飛なたとえ話には致命的に適さない。
 そこで、その言葉の真の意味を的確に表す出来事を「起こせる」世界を「創造」する。ここがFTやSFの入り口であり、そしてこれこそが、欠片に宿る勇者の魂『作家』の力ではないでしょうか。

 FT、妖精が飛び交い魑魅魍魎の闊歩する剣と魔法の世界。「妖精」や「魔法」といった世界の構成要素は、その物語を「語る為に」産み出されたものであり、つまり、あらゆる存在に何がしかの意味がある筈です。不可思議な現象を擬人化したものを妖精と呼ぶ、抗うことの許されぬ不幸を具現化した怪物、人の手による奇蹟の象徴たる魔法、などなど。副産物は有り得ますが、しかし、「何となく」生まれてきたような世界など、そもそもFTやSFではないでしょう。
 SF、発達した技術により再生医療の発達した世界は、不老不死や生命倫理などを扱う小道具として産み出される世界であり、その物語を語る為に作られた世界なのです。

 FT、SF、一編の物語。そこに広がる世界は、その一編を語る為に産み出されたものです。主題が変われば、その道具立てたる世界も変わるのではないでしょうか。
 ……続き? どういう了見なのでしょう。前作と同じことを繰り返し語る、或いは別の角度から語る、ということでしょうか。前作での道具立てが融通の利くものだった場合とも考えられます。そもそも繰り返しは悪いことではありません。ただ、それを綴るものの思慮の浅さ、偏狭が見えることを覗いて、ではありますが。

 数は少ないですが海外のSFを好んで良く読みます。それらの多くは文庫本のページ数で完全に「完結」しています。例えば、サミュエル・レイ・ディレーニイの『バベル−17』『アインシュタイン交叉点』『ノヴァ』
 この三作は、それぞれの世界や文明があり、ある人間の活躍(?)を描いていますが、それぞれの世界は当然ながら全く違うものです。舞台は、数十世紀後の地球だったり文明の破綻した世界だったり宇宙の果てだったり。
 ディレーニイの七作目である『バベル−17』(ネビュラ賞)は人類文化圏を襲う宇宙人と、言語学の権威で元暗号解析員の美麗詩人リドラ・ウォンの物語。様々な事故の際送られてくる暗号電波「バベル−17」の謎を解明すべく、一癖も二癖もある仲間達と共に宇宙船ランボー号にて宇宙を駆け巡るスペースオペラで、人間の言葉やコミュニケーションに関する鋭い洞察を交えた、読み応えのある物語です。ちなみに発表は1966年に発表され、かの有名な『アルジャーノンに花束を』と共にネビュラを受賞したそうです。
 好きな作品なので繰り返し繰り返し読んでいるのですが、どう考えても、これの続きは想定できないですし、その意味も無いでしょう。「バベル−17」事件は解決しており、その途中で織り交ぜられた主題も語り尽くされています。つまり、リドラ・ウォンやランボー号の役目は既に終わり、仮に続きと称して彼女達の活躍を綴ったとしても、それは当然『バベル−17』では有り得ない、別の物語となるでしょう。

 中高生に向けたファンタジー系受賞作品。高まる人気に答えるべく続編を出すのは出版社の意向なのでしょうが、ふと考えます。続きが出るとは即ち、受賞した作品は語り尽くされていない「不完全な」物語だったのだろうか、と。或いは、著者は何事かを伝えるべく執筆したのではなく、「連載作家になる為に」執筆し、それが受賞したのだろうか、と。勿論、卓越した世界観が続編を許容するほど高度だったとも考えられますが、見渡す限りは、どうにも楽観的に過ぎるようです。

 若年層に向けたものが「アンチ文学」とイコールだとは考えていませんし、商業主義の直中においても文学的な姿勢は維持できると考えています。その良い例も数々目にします。
 そもそも、出版社が新人に求めているものが利潤だけだとは決して思っていません。文学的意義や質をも欲し、それが利潤を生めば尚更ありがたい、その程度なのではとさえ思っています。何しろ、適度に書けて適度に利益を生む作家や作家予備軍など腐るほどいるのです。インターネットなどを漁ればそれこそ大漁です。それをわざわざ応募してくる新人に求めるほど、出版社は無粋ではないのではないでしょうか。

 建前として「感性」やら「若い力」やらが掲げられている新人賞。あれは建前ではなく、紛れも無い本心なのかもしれません。そう考えた上で本気で取り組めば、FTやSFに限らず、素人や新人の手による作品の質は更に高まるのでないでしょうか。

  愚理夢(復活したハード・メルヘン作家) 1999年 09月 23日 18時 06分 43秒
《連載》『シリーズ・民族論 ジャポン編「ナイス・トーキング!」』
 ここ最近、僕と知人はとても長い「会話」をしている。会話はどんなに短くても三時間、長ければ五時間くらいで、それは週末ごとに繰り広げられている。主な流れは僕の考えの披露とそれに対する知人の考えの披露、知人の抱く疑問への僕からの解答、である。
 題材は様々で思い出せる限りに書くと――

・日本での子供への教育の間違いの指摘と正解
・知人に自党への投票を迫る会社連中の抱く政治観の間違いの指摘と正解
・日本人の抱える自慢とへりくだりの歪さと諸外国に見る健全さの例
・友達や知人の定義の日本と諸外国と僕の相違点
・経済行為としての労働と背負った使命の明確な差
・人間の本能と知性の違いと本能により行動する人々の悲しさ
・科学技術・天文技術に対する疑問点の解消

 今週昇った話題は「コミュニケーションの在り方」で、「会話」とはそもそも何なのかというものだった。僕は知人に対し「自分は会話と弁舌に長けている」と繰り返しており、知人もそれを実感している。冗談で知人は「貴方は公演を開くべき」と云っているが、他でもない僕もそう考えている。
 さて、コミュニケーションについて僕の披露した考えとは、「会話」とはある意見を相手に伝え「それに対する」相手側の意見を聞き、それを繰り返すことでそれぞれの意見をより「正解」「理解」に近づけること、である。お互いの知識を与え合う、ともいえる。
 知人や僕の周囲で繰り広げられる「会話に見えるのも」を何故お互い苦痛だと、或いは無意味だと感じるのか、その答えを僕は持っていたので知人に教えてあげた。

 それらは全て会話ではなく単なる「報告」なのである。これを見た・読んだ、何かを買った、結婚した、子供が産まれた、こんな仕事をした、友達がこうした、この番組が面白かった……どれもある出来事を紹介しているだけである。挨拶でもある「最近、調子はどお?」はこの報告をこちらに迫っているものである。仮に「とうとう子供がうまれたの」と云われ、それに対してこちらは何を云えば良い?
 答えは、相手は返答など求めていない、である。それはその人の意見や考え、思想などではなく、だからこそこちらは返答など不可能なのだ。仮に「子供が産まれたの。私は子供をこうやって育てようと思っているのだけど、貴方なら自分の子供はどんな風に育って欲しい?」だったら、それに対しこちらの考えを述べることは可能だ。しかし誰も彼も皆、ある出来事に対し考えなどを一切持たず、だからそれを述べることなど出来ないのだ。
「以前見たこの番組はとても面白かった。筋書きはだいたいこんな感じなのだが、私はそれのこの部分をとても面白いと思ったのだけど、貴方はどお?」――会話である。
「昨日見たあの番組、凄く面白かった。主人公がこうして相手がああしたの。どお? 貴方も面白いと思うでしょ?」――面白かったという報告である。

 言葉とは具現化された思想であり、思想の交流を「会話」と呼ぶ。出来事を綴った文字は「記録」と呼ばれ、それを第三者に提供することは「報告」と呼べるだろう。一般向けに砕いて云うなら、言葉とは会話の道具でもあり、或いは言葉の無い会話は有り得ない。会話は「交わす」ものであり、言葉、つまり文字だけで行われる会話を一般に「手紙」と呼ぶ。文字によって形を伴った思想を「交わす」手段を手紙と呼ぶ。
 近年の技術は言葉や手紙をデジタル情報に変換し瞬時に送信する技術を我々に与えた。それは「携帯電話」「電子メール」と呼ばれ普及した……かに見えた。

 ここで一旦話題が変わり、関連のある論述を平行して進める。
 ある人を評価する時に使われる「カッコイイ」という言葉がある。その定義は各人各様なのだが、実は日本ではかなりコード化・規格化されているのだ。例えばアメリカのハイスクールなどを舞台にしたドラマで繰り返される「クール」という言葉。これは日本での「カッコイイ」と似ているのだが、実は本質は全く異なるのだ。
 日本人のカッコイイとは、外見的特徴がまず最優先する。最たるもの、知的に「見せる」ことに執着し、その具体的手段としてある言葉の使用を硬く禁じた。「解らない」或いは「知らない」である。どれほど複雑な経緯があったのか、ある知識を自らが知らないことが「無知」とイコールで結ばれているのだ。日本人の全てが同じ本を読み同じテレビを見ているというのならいざ知らず、ある個人の知識が完璧に重なることなど有り得る訳が無い。つまり知っていることと知らないことは絶対に存在するのだ。しかし「知らない」が「無知」であり「カッコ悪い」日本人は、コミュニケーションの場において驚くべき手段に出た。
 何を目にしても決して「知らない」と云わないのだ。知らないのにそれを明かさずにコミュニケーションが成り立つ訳が無い。結果、日本人は「会話」を捨て去った。しかしそれでも表面上はコミュニケーションが成立しているように見えるのは、実は日本人は会話ではなく「報告」を繰り返しているからである。
 さあ、歪みは加速する。報告を用いて自らをカッコ良く、知的に見せるには? 答えは「相手の知らないことを喋り続ける」である。高度な学術論文などが好都合。この歪みの利点は、たとえその高度な話題について真に理解していなくても良いということである。何せこれは「報告」の為の話題であり、例えばある学術的仮説について「自らの考え」など披露する必要など無く、だいいち相手とてそんなこと聞くような無粋な真似はしない。
 どこからか拾ってきた言葉をさも自らのものであるように放ち、相手がぐうとでも云えばそこでその者は「知的」という栄誉を勝ち取れるのだ。

 僕は前述した知人やそれ以外に対し、それらが知らない言葉を多用する。悪い癖だ。僕が彼、彼女たちとは異なる書籍やテレビ番組と接しているのが主な原因なのだが、会話が成立している数少ない知人は僕に対し「それはどういう意味?」と聞いてくる。
 当然だ。会話とは相手に伝わらなければ成立せず、それが阻害されそうならばたとえ遠回りであろうとも補完しなければならない。繰り返す、当然だ。僕は一般ではない単語(学術用語が多い)について解説し、それを相手が理解したことを確認してから本題に戻り、会話は続く。
 前述した「カッコイイ」の定義について、世間一般と僕には少なくはない開きがある。私見と断るが、僕は「普段は三枚目、いざとうときに本領発揮」をカッコイイと思っている。いつもにやにや、へらへらした人が、困難に陥った時に見せる素晴らしい機転、それを行う人はカッコイイ。俗な具体例で恐縮だが、映画『ダイ・ハード(1)』の主人公などだろうか。妻に別居されるほど冴えない中年刑事がテログループと対等に渡り合う、観ていて気持ち良かった。現実世界でも同じではなかろうか。
 そして、二枚目を演じることはそれほど難しくないのに対し、三枚目は最早「資質」の域である。三枚目を「劣等」「格下」だと勘違いしている日本人は、間抜けぶり・無知ぶりを用い道化に徹するのだが、悲しいかな間違いどころではない。彼、彼女らの言動は痴呆の如き、お悔やみ申し上げます。

 二つの論述を同時展開したゆえ主題がぼやけてしまった。結論を記す。
「電子メール・携帯電話に限らず、人間であるのなら、言葉を用いるのなら、会話を心掛けるべきである」
「知的さを気取るのも良いが、勘違いは逆効果で、カッコ悪い」

 ……陳腐? 失礼しました(笑)。

  留歩雷太(るぽ・らいた) 1999年 09月 23日 17時 42分 03秒
《連載》『シリーズ・民族論 ジャポン編「あたしゃ神様だ(笑)」』
 他人との関係に「主従」や「上下」を付けたがる、犬の様な農民日本人思想の根本の一部を僕なりに考えてみた。前述の歪な価値観が存在しないアメリカ合衆国との対比で解説する。
 アメリカ人には絶対の存在「神=キリスト」が全ての人間の頂点に鎮座している。神の下では誰もが平等である。一方日本の頂点は「神=天皇」であり、そう言う名前の「実在の人物」である。

 天皇とキリストとの相違は、天皇がどの時代でも常に生きて存在する事である。実在するのでそれに対する「礼儀」や「言葉」が必要になる。何せ相手は同じ人間なのだから。それに比べキリストは一種の「概念」であり、「概念」とは言葉を交わしたり頭を下げたりする必要は信仰儀式以外で有り得ない。
 日本人は自分の上に、実際に接する必要を迫られる形を取る「神」を置き、アメリカ人はその様な「概念」のみを持つ。日本人は目上の存在の視線を意識し、神罰を受けぬ様見た目や言動をとても注意する必要に迫られるが、アメリカ人はそんな必要が無い事を知っているので「紳士的」にのみ行動すれば良く、頭を無意味に下げる必要が無く、愛想笑いをする必要が無い。
 日本人の「媚び諂う」民族意識は「天皇=神=目上=社長=親=金持ち=見ず知らずの人=お客様」と言った馬鹿げた公式を産んだと思われる。

 アメリカ人が「友達」を重要視するのは、彼らの頭上には「キリスト=神=絶対の存在=上位」が「既に」実在するので、その庇護下では競い合い蔑み合う必要が無く、其れ故他人だろうが何だろうが信頼し合うだけで事足りるからだろうか。

  留歩雷太(るぽ・らいた) 1999年 09月 23日 17時 41分 05秒
《寄稿》自殺本能説(論文)
 プログラム細胞死をご存知だろうか。或いはアポトーシス。死は数ある機能の一つで、生物に(細胞に)予め備わった「能力」だという仮説。劣勢個体を消滅させる為の仕組みである。これを飛躍させてみた。
 人間の「自殺」は「劣勢個体」による繁殖を防ぐ為の「ヒト」に備わった「機能(私の言葉なら安全装置)」なのではなかろうか。自殺するような個体はヒトにとって邪魔、不安因子だと遺伝子が判断したのではなかろうか。

『自殺本能説』
「本能と理性の分離」「ヒトと人間の区別」
 まず本能とは、生物としての「ヒト」が個体生命を維持する為の「法則」であり、その最優先かつ唯一の目的は「遺伝情報の複製・継承」である。遺伝による進化・優生形質の獲得は、複製・継承を円滑にする為の手段・副産物でしかない。これらは科学の範疇。
 次に理性とは、生物「ヒト」の見せる情動、脳活動のうち、前述の本能領域「以外」の部分であり、これは個体生命の維持とは「一切」無関係である。知性と呼ばれるものがこれにあたるのだが、知性の定義は致命的に誤認されており、ここを確定させることが論述の出発点かつ終着でもある。こちらは哲学・宗教の範疇。

※劣勢や優勢とはあくまで「ヒト」にとっての価値観で、「人間」の価値観とは異なる場合がほとんどである。また、形質の発現は発生時のみであり、後天的に劣勢となることはない。新たな形質は次の世代でのみ現われる。

 理性は、本能の構成要素の一つだが、互いの支配関係には大きな固体差があり、私は理性こそ「人間」の本質と位置づけるべきだと考えている。また「本能と理性の分離」を否定する人間は、その瞬間に存在意義を失うことになる。

 自殺についての私の閃きを簡潔に記述するとこうなる。
「理性判断の結果だと認識されている自殺は、実は本能に属する行為なのではなかろうか」
 苦悩の末の自殺、こう説明されれば恐らく大多数は「考えた」挙げ句、彼(彼女)は命を絶ったと判断するに違いない。それは、睡眠、生殖、摂取などの本能とは全く無縁の、詩的・哲学的・学問的価値観の産物なのだろう、と。だからこそ自殺せんとする彼に対して、周囲は「説得」を、言語による介在を行うのだろう。

 お気づきだとは思うが、私の閃きはNewtonが与えたものだ。そこにはこう書かれていた。
「大腸菌などの無性(オス、メスの区別がない)生殖生物は、栄養の枯渇などが無い限り無限に増殖でき、基本的に死は存在しない。死とは、有性生殖を行う多細胞生物が獲得した「能力」である」

 まず「ヒト」側からのアプローチを。
 無性生殖では、新個体の遺伝子は親個体の遺伝子の完全複製であり、クローンともいえる。無性生殖の利点はすばやい増殖であり、欠点は環境変化に対応しにくいこと。
 有性生殖では、遺伝子の組み替えが起こり、新個体は親個体とは違った遺伝子・形質を獲得できる「可能性」がある。利点は環境変化などに対応できる「可能性」を持つことであり、欠点は(無性生殖に比べて)繁殖に時間と労力が掛かること。

 有性生殖生物の死とは、その生物の数ある能力の一つである。死の能力(恩恵)とは、ある組み合わせの遺伝子を一定時間経過度に消去することで、古い遺伝子による発生形質・能力の「重複」を回避し、全く新しい組み合わせを生み出せること。もう一つは、劣勢遺伝子の繁殖前の抹消(致死遺伝病など)と、劣勢形質にも関わらず生存しつづける遺伝子の組み合わせが出現した場合の、それの広がりの回避。
 遺伝子レベルでは、寿命などによりたとえ優性形質を失う恐れがあっても、劣性形質の継承よりは遥かに「有利」なのであろう。劣性形質の継承は、種そのものを失う恐れがある。
 以上、私見も含まれるが、一般生物学的な死の定義である。

 自殺について。自殺とは、個体・遺伝情報を消滅させる「死」のバリエーションの一つに過ぎず、老衰や流産と同義なのではないだろうか。これにいたる思考経過を示す。

「死は消滅の為の生物的能力である」
「これは遺伝情報の器たるヒトの機能(本能)に属する」
「自殺はすなわち個体(遺伝情報)の死(消滅)である」
「ならば自殺は本能の産物であり」
「死のうち早期消滅の対象は必ず劣勢形質であるので」
「劣勢であるからこそ、自殺する」
「または、役割を負えての死」

 死は選択肢でも終着でもない。遺伝子が複製を完了していれば、情報は既に次の段階に推移しているのであり、死はただの「事後処理」である。「死」「自殺」という単語に含まれる響きが認識を阻害しているのではなかろうか。そこには神秘的な意味が込められている。字面に惑わされること無く、本質を見極めよ。自殺は消滅である。

 尚、大前提として「繁殖を終えた個体」には生物としての存在意義はなく、繁殖期を終えた個体が自殺しようが踊ろうが、本件とは一切無関係である。彼(彼女)は、ただの抜け殻でありゴミである。以前示唆したが、遺伝情報の複製・継承を行えない、または行わない個体には価値はない。……「ヒト」としては。

 予想以上に長くなったので「人間側」のアプローチは簡単に。
「人間」の活動の全ては(脳が)生きているうちにしか行えず、また、生存期間にのみ意味を成す。ゆえに、人間にとって「死」は範疇外の無意味な「現象」であり、それが選択肢になることは有り得ず、考えた末の自殺といった認識は単なる勘違いである。
 自殺を選択したという輩に問いたい。その結論は正しかったのか? と。自殺の結果を確認できるような器用な人間がどこかにいるのだろうか。私は知らない。自殺はヒトの側に属し、人間には無関係である。また自殺を解説する生存者の意見の「正否」は誰が判断出来る? 出来ないのだ。自殺の、死の解釈は「ヒト」の側、つまり「継承された遺伝子」の視点でしか論じ得ないのではなかろうか。

 ひとまず結論を。人間であろうとする私にとって、死は関心の対象外である。関心を示すのは本能支配を抗えない動物だけである。

  マッハ 1999年 09月 23日 00時 37分 58秒
《寄稿》『本格ファンタジー宣言』に関して
『オンライン作家、ではなく作家として』

 この度、『本格ファンタジー宣言』をじっくりと読み返してみた。意に反したいざこざが発生したこともあり、或いは言い過ぎた部分があったような気がしたからだ。しかし、あの論文での主張は間違い無く当方のそれであるようだ。
 いざこざに関し結果として謝罪したことはあの場合正しいと今でも思う。しかしその謝罪は論文の内容とは無関係な発言に対してであり、論文との因果関係は一切ない。そのことは関係者当人が一番理解していると思いたい。ご存知の方がいた場合それだけは踏まえて頂き、決してそのことと論文を結びつけて欲しくないと切に願う。先入観とは即ち邪念であり、冷静な判断にとって邪魔となる。
 また謝罪に関する発言は今後一切行わないので、そうした質問・意見などは関係者か否かに関わらずご遠慮願いたく、また当方としてもそれらには一切応えないことを表明しておく。以後発言は行わないものの、当方としては関係者との前向きな関係を願う次第である。


 さて論文だが、予想通り幾つかの反論を頂いた。以下がそれに対する解答となるだろう。多加木氏著『本格ファンタジー宣言によせて』の末尾、

> 最後に、小説というものは文学であり、読者がそれに求めるものは、『ゲーム』や『作者との親近感』などでは決してなく、唯一『物語』であることを付記しておく。

 反論の全てに共通なのが、こういった認識の致命的欠如である。その原因の一つは、「作家」や「小説」の頭に「オンライン」「インターネット」「デジタル」などという珍妙な単語を被せるからだと考える。
 現時点のオンライン環境には、小説の意義や質を見定め、読者に対し良質な作品を提供するという重要な役割を担う「文壇」と呼ばれるような存在が欠如しており、だからこそ「オンライン作家」や「オンライン小説」には単に「デジタル環境にて執筆する」「作品がデジタル化されている」程度の意味しか成さないと当方は考える。当然、現時点では、と断った上である。
「作家」と「オンライン作家」は本質的に同じであり、共に出版環境下での語意を冠するべき呼称なのだ。「オンライン文壇」とでも呼べるほど、オンライン環境は成熟していない。それは現時点においては、出版での文壇の延長という程度である。
 しかしこれは決してオンラインのみで活動しておられる方々に対する批判や、間違っても格下扱いなどではない。未成熟とは、オンラインという環境には文壇や、出版での編集者などに類する、作品の質を「最低限」保証するような第三者が存在せず、唯一作家の「モラル」のみに頼っていることに起因する。文壇が存在しない、とはそういう意味である。
 局所的にそういった活動をしている方々は確実に存在する。そしてそれらこそが後の「オンライン文壇」となることを当方は願っているのだが、現時点ではまだ不十分だと云わざるを得ない。

『本格ファンタジー宣言』は「文壇」「作家」「読者」を論じたものである。「オンライン」という要素は、判断材料に含むまでには成長しておらず、オンラインとしての事情などを考慮する必要はない、そう結論が出た。故にオンラインで発表されている作品群に接する時、「オンラインだから」という考慮はせず、純粋に「文学」「作品」或いは「商品」としてのみ語るべきなのだ。
「出版されなければ価値が無いのか?」とは明らかに故意の曲解でしかないので、あしからず。印刷技術や原稿枚数、文字数や書体についても同じくである。当方はある作品の「内容」を語っているのであって、オンラインではそういった表現方法が有り得ることは承知してはいても、今回は無関係である。それはいわば「メディア論」の範疇であろう。

 その様な訳で、『本格ファンタジー宣言』への反論として「オンラインでは事情が違う」という意見が出た場合、当方とは全く無縁である。

  マッハ 1999年 09月 01日 16時 15分 38秒
《告知》ニル・アドミラリ編集部からのお知らせ
 前回は突然の休刊により皆様にご迷惑お掛けいたしました。実はニルアド編集部が小包爆弾による爆破テロを受け業務が滞っておりました。漸く復興です。
 粗悪な火薬を使っていたようで、被害はそれほど大きくなかったのです。小包爆弾だけに「つまらないもの」だったのでしょう……。さ、遠慮せず笑って下さいな(笑)。

>そろそろ、創刊号も終わりですね。
 新装版はただいま急ピッチで作業を急いでおります。……もう少し待って下さい(笑)

  ニル・アドミラリ編集部 1999年 08月 31日 21時 36分 46秒
《投書》質問ですが
そろそろ、創刊号も終わりですね。次号は何時頃から始まるんですか?

  百済 1999年 08月 30日 03時 06分 27秒
《連載》『今週の星占い』
『デネブのあなた』
 あなたは魔法使いかもしれません。かぼちゃは好きですか?
『べガのあなた』
 テレビかもしれません。表面が薄くなります。
『アルタイルのあなた』
 牽牛が仕事ですか? 影は薄いですね。

  保志 宇良祢 1999年 08月 30日 03時 04分 39秒
《寄稿》『新・ガイア論』

 ビデオテープを漁ってたら『ウルトラマンガイア』漬けになって目頭熱くて仕方が無い。四回くらい見たが、新型ファイター登場の回は良い! 乱橋チーフがイカすのなんのって! しかしラスト直前になってリンブンとタバタさんがぐっとかっこよくなって、嬉しい限りです。タバタさんの演技は劇団臭くて時たま鼻に付くけど、リンブンの方はどうして? ってくらい自然で、見るたびに溜め息が出ます。
 キャスティングには命賭けてるとサントラのライナーノーツで書いていたが、納得です。円谷が総力をかけるととんでもないものが出来るのだなぁ。やっぱ老舗は違う。何といっても技術の蓄積が半端じゃあない。時たま子役が出てきて妙な演技してるけど、それすら子供っぽい仕草に見えてしまうから不思議不思議(心が広いのさ)。

 ガイアを今現在ライブで観ている幼稚園児・小学生とかは、一体どんな風に思うのかな? 意味解らなくて、ただ単にガイアやフォトン・エッジではしゃぐだけだろうが、ポイントはその彼らがしかるべき年齢になった時です。ふと「そういえば……」といった感じでガイアを思い出した時、彼らはそれを見ていなかった子供たちよりも、奥行きのある人間になるのではないだろうか?
 そこそこの年齢だと、もう外部からの刺激に対するパターン認識的処理が確定しているので、よほどのことが無い限り価値観が揺らぐようなことはない。しかし成長にまだ幅のある幼年期だったら……。ちなみに私は凝り固まった思想を持ってはいるが、同時に半端じゃあない融通性があり、質の高いものや意思の込められたものは意外と素直に受け取ることが出来る。でなきゃあいい年した大人がファイターで涙ぐんだり、「ガイアー!」の雄叫びで鳥肌立ったりはしません。子供っぽい? 確かにそう、でも良いのだ。

 ガイアの良さは単純な理屈なんだけど、気付いてるかな? ガイアは、私のようなミリタリーフリークにも耐え得るような緻密な設定や、同じく私のような偽科学者も唸ってしまうような高度な学術的裏付け、そしてまたまた私のような素人哲人でさえ納得してしまうような一貫した価値観をその根底に据えており、そして! それにも関わらず「幼稚園児も観れる」お話なのだ!

 物凄く深いのに、それでも子供と大人が一緒に観れる、これは強力です。どんなに崇高な理屈をこねようと、それが伝わらなければ「全く」価値はない。名作と呼ばれる作品(メディアを問わず)には、一部のマニアにしか理解できないものが多くある。
 ファンタジーで「エルフ」や「グリフィン」の姿形や生態を、予め予備知識として求められるようなものがそれ。そういったものを使うのは一向に構わないのだが、仮にそれを知らないものが観ても(読んでも)、主題が伝わるように手筈を整えなければ最早紙屑です。ですから、全年齢をその守備範囲に収めて尚、深いお話を保つガイアは強力なのだ!

 ガイアで頻繁に出てくる量子力学などの難しい話題や設定。あれを子供が知っている訳がなく、しかしガイアというお話を理解する上では全然問題が無い。また根底に流れる「宇宙における人間とは?」「生態系の中での人の位置付け」といった哲学(?)も恐らく子供にはピンと来ないだろうが、しかしそれでも全く破綻が生じないのだ。
 何故か?(子供向けではないと勘違いしていた……やっとこさっとこ気付いたよ) それは、ウルトラマンとは、ガイアとは「困難に立ち向かう」お話であり、傷つきながら戦うXIG隊員や、ライフゲージを点滅させるガイアやアグルを観た子供は、それを理解できなくとも「感じる」ことが出来るからだ。大人の胸を打つのも当然である。困難に年齢制限はない。状況やその度合いは違っていても、あらゆる年齢の人々は多かれ少なかれ困難に立ち向かうことを経験する筈である。
 そしてガイアを観た子供は、困難に立ち向かうことの意味を、幼いながら考えるのではないだろうか。勿論、深い理解はすぐでなくても良い。「そういえば、あの時ガイアは……」と将来思い出させるお話、ガイアにはそれくらいの力を感じるのだ。思わず「ウルトラマンが欲しいっ!」とか叫んでみたりね。

 笑わせたり泣かせたり楽しませたり驚かせたり……娯楽作品を作り出すことは別段難しい作業ではない。しかし! ある誰かをその能力の限界に挑ませるほど「奮い立たせる」ことは困難の極みであり、そしてそれを成し遂げた時、そのお話は間違い無く「感動」を呼ぶだろう。

 執筆だって、そういうものだよね?(凄いまとめ方だ……) 現在執筆中の物語を、果たしてそこまで昇華できるかどうかは正直自信が無い。しかし、そうなるように血反吐ぶちまけてやってやるぜ!

  マッハ 1999年 08月 27日 21時 15分 10秒
《連載》『気分はピーチパイ♪』夏休み特別号
こんにちわ! 鳩羽深弓でぇす! 今日はお姉ちゃんに替わってあたしがお話しますね。みなさんは宇宙人様とコンタクトをとった事はありますか? お姉ちゃんは相変わらず週に一度の宇宙人様からのコールを待ち続けていますが、あたしは何と! 宇宙人様にこちらからコンタクトすることに成功したのです!! これからその時の様子を再現しますね!

「さあ、今日からあたしもネットできるゾ! え〜と、パスワードを入れて……と。これでよし」
プポパペプポピ――ぴ〜ぷ〜ぴぷぽぴぷ――ガ、ゴザ〜〜〜〜
「あ!? 宇宙人様だぁぁ〜〜〜」

ね?

  鳩羽深弓(はとばみく) 1999年 08月 11日 16時 01分 35秒
《読切》『精密射撃』
 腕利きの女スパイは云いました。
「あたしゃナターシャ」

  ヒットマン(ナチス) 1999年 08月 06日 20時 40分 01秒
《連載》『今日から学ぶ! すぐに役立つ哲学講座』第三回
『難解で複雑なことを単純明快な一言で説明出来るのが天才であり、凡人は単純なことを物凄く複雑で分かり難い言葉で説明しようとし、常にそれは失敗に終わる』

『秀才を産み出すのは1%の才能と99%の努力である。一方、天才は、99%の使命と1%のユーモアによって構成されている。そして、それ以外の人々は100%の性欲により、わいてでる』

『知識と教養により秀才は作られる。その知識と教養を作り出すのは天才であり、天才は神の意志が作り出す。凡人はどうかって? そんなことは、あなたの両親にでも聞いてみてみると良い。』

『天才は自分が天才であることを知っているが、凡人は自分が凡人であることを良く忘れる。』

『天才の言葉が凡人には理解出来ない様に、凡人の言葉もまた天才には理解できない。余りに酷くて。』

『凡人からそっぽを向いた勝利の女神は秀才に微笑み、天才は勝利の女神に微笑みかける。』

『天才と凡人を見分ける術だって? 鏡を見てごらんなさい。そこに映っていない種類の人間が、あなたの探すものだ。』

『凡人は秀才にはなり得るが、決して天才にはなれない。残念ながら、あらゆる生物は種の壁を越えられないのだ。』

  哲人28歳(リモートコントロール) 1999年 08月 05日 22時 09分 13秒
《連載》初めてのコンサート『足は耳よりも正直』第百回
「本格クラシック宣言U〜コンパウンドヴィーナス論」

 クラシックを語る上で忘れてはいけないのは、「作者」又は「作曲者」がいて、初めて成り立つ音楽であるということである。
「そんなものはどれでも同じだ」と言われる方をおいでだろう。
 しかし、である。
 では、果たしてアフリカやら南米やら、その他地方に何千年の昔から伝わる民族音楽に、はっきりとした作者、作曲者がいるのであろうか? 答えは否、だろう。
 それは、彼ら(彼女ら)の体に刻み込まれているリズムを教えられる事無く、現したものだからではないだろうか?
 クラシックでは、作者が「作品」として提示したものが重要視される。例え、かのベートーベンが即興で、素晴らしい音楽を披露したとしても、それを彼が「作品」だと言わなければ、それは後世に伝わる事はないのである。
 しかし、それら「作品」の中には、譜面についたインク染みを音符と間違えられたものや、間違えて楽譜を逆さまに置いたまま演奏されてしまったが為にそれが作品となってしまったものなど、「作品」として定義するのが難しい一面をもっている。

 今は昔、「好きな音楽はクラシックです」と言ったら変人扱いされた時代があった。かく言う私も、好きな音楽は「弦楽四重奏」なのだが、それを自覚するには多大な時間が必要だった。
 中学時代、クラスメイトに「好きな歌手は?」と聞かれ、つい「TMN」と言ってみたり。もちろん、TMNも好きなのだが。
「弦楽四重奏(カルテット)」別名「弦楽始終相談」とも言う。
 西洋では昔から「友達を失いたくば、カルテットをすればよい」と言われている。つまり、それほどに弦楽四重奏というのは完成されているのである。
 音楽上の意見というのはどうしても譲れないものである。それが、同じ弦楽奏者ともなれば尚更だろう。練習中に、ひとつの音を、長めにひくか短めにひくか程度のやりとりで、すでに殺意すら芽生えていることも少なくない。
 しかもその理由が、自分が愛聴しているレコードがそうひいているから、などという脱力の理由なのだから、最早お笑いの世界である。

 クラシックのジャンルには「声楽」「絶対音楽」「シンフォニー」やら「コンチェルト」「カルテット」や「オペラ」、「ワルツ」に「フーガ」「エチュード」「アリア」など多数の分類がされている。「バロック」やら「ロマン派」やら多数の様式もある。
 しかし、先程私が述べてきたように、そんなことは関係ないのだ。要は「楽しめるか」「楽しめないか」の二つである。
「ヴァイオリンの音が好きだから」「フルートが可愛いから」理由は何でも良い。
 一度、頭を空にしてクラシックを聴いてみては如何だろうか?

  朱卯琶屡徒(シューベルト(ヴァイオリン好き)) 1999年 07月 16日 23時 07分 23秒
《連載》『今週の占い』特別編
☆第16代なあなた    ☆第34代なあなた
 奴隷解放でしょう。   戦艦の名前でしょう。
☆第40代なあなた    ☆初代なあなた
 映画俳優でしょう。   桜の枝を折るでしょう。
☆第41代なあなた    ☆第39代なあなた
 CIA長官でしょう。  地味でしょう。

☆ギリシア神話なあなた
 クロノスになれますが、ゼウスに敗れてタルタロスに幽閉されます、気を付けて。でもローマ神話では農耕神です。
☆ローマ神話なあなた
 アイネイアスになれるかも? ローマ建国の始祖になれますが、ギリシア神話にも同じ人がいます。
☆北欧神話のあなた
 オーディンになれます。でも、続けてグンニクルを出すと嫌われるので注意。

  保志 宇良祢(神話好き) 1999年 07月 09日 23時 23分 46秒
《投書》ルパン三世
うわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわきうわき

  係長代理(妻はフィンランド人) 1999年 07月 08日 23時 53分 40秒
《連載》『今週の星占い』
☆オリオン座のあなた
 落とし物に注意。あなたの半身である大事なものを落としたら、あなたがあなたじゃあなくなります。
 ラッキーアイテムは棍棒。ラッキー元素はNe
☆かみのけ座のあなた
 長年大事にしてきた髪の毛もちょっと疎ましく思う週。思い切ってショートカットにしてみてわ?
 ラッキーアイテムはハサミ。ラッキー元素はK
☆ペガサス座のあなた
 幼い頃から大事に思っている人にピンチが。何もかもを捨ててでも助ける勇気が必要です。
 ラッキーアイテムは鎧。ラッキー元素はC

  保志 宇良祢(ほし うらない) 1999年 07月 05日 20時 24分 14秒
《連載》執筆アドヴァイス『キーはペンより強し』第零回
 やあ皆さん、お久しぶり、愚理夢です。さて、次回からの新連載を前に、このコーナーでの基礎知識を掲載しておきます。参考にして下さい。ここでのモットーは―― 
「キーはペンより強し!」
 それではまた。


『文章作成の戒め、記号凡例』

・『名詞』商標、史実名、事件名、著書名など、第三者選定の固有名詞
・『表題』物語の表題は広域流布を想定しているので、同じく。物語以外での文章強調
・「科白」会話、科白、それらの引用。物語以外での文章強調
・《項目》部・章・節・項題、リンク等の機能付与項目、見出し
・〈強調〉強調固有名詞、物語固有の呼称
・強調&カ章中の意味強調(縦書き対応。” ”や’ ‘は横のみ)
・(補足)補足、心象など

 選定基準。読者の容易な理解の為、種類を極力減らし、かつ、入力レスポンスを考慮した。入力は「 」の変換及び( )< >の変換となる。但し強調≠フみ単語登録などが必要となる。縦書き対応記号のみの採用。全角は対応不能となる(アプリケーション依存か?)。
 記号使用方法を徹底すると、ファイル単位での一括置換や検索機能が大幅に向上し、労力を軽減できる。


  愚理夢(メルヘンチック作家) 1999年 07月 03日 19時 44分 47秒
《読切》『彼女の憂鬱』
 川向こうでは何連発かの花火が盛大に打ち上げられていた。月はその姿を隠し、眼下のそれに闇の主役を譲っている。煌びやかな露店の明かりに子供たちが群がっていた。
「初めてだね、君と二人っきりで歩くのは……」
空に放たれた明かりに顔を染めて彼女は、僕に話し掛ける。
 何も言わない僕に少し膨れっ面をしながらも殊更怒るでもなく、彼女の目線は再び夜空の花火に向けられた。「綺麗だね」そう言う彼女の横顔は、これまでの僕達の関係に別れを告げている様でもあった。
 彼女には僕とは違う男がいた。裏切られ、傷ついた彼女は僕に助けを求めた。今迄彼女と遊ぶ時は必ず奴がいた、彼女を捨てたあいつが。もしかすると僕は卑怯な男なのかも知れない。彼女が傷ついた所を狙っていたと云われても返す言葉は無い。確かにその通りなのだ。僕はこの時を待っていたし、こうなることを望んでいた。それにはあいつが邪魔だったし、別れてくれと彼女に言った事もある。その時彼女は聞く耳を持たなかったが、結果、僕が待ち望んだ関係に僕らはなれた。
 最後の花火がその雫をゆっくりと闇の中に消していくと、それに呼応すかの様に彼女は立ち上がり、僕の方をじっと見た。こういう時どうすれば彼女を僕の元に何時までも置いていけるのか? その答えは幾ら頭を回転させても浮かばなかった。
「さあ、帰ろうか?」彼女は何処か寂しそうな表情を見せたが、直ぐにそれを隠して笑ってみせた。ああ、彼女はまだ前の恋を引きずっているのか。そう思って僕は愕然とした。僕に彼女の悲しみを消す事は出来ないのだろうか? 僕はどうすればいい……
「家に帰ろう、タマ」

  香木 感光(こうぼく かんこう) 1999年 07月 01日 20時 09分 01秒
《読切》『ちょっと微妙な噺』第11回
 雨が降りしきる金曜の深夜、一台の車が田舎のあぜ道を猛スピードで駆け抜けた。
バゴン!
「兄貴、今の音なんだろう?」
車は急停車した。
「ああ、嫌な音がしたな」
「まさか人をひいたんじゃ……」
「だからどうしたって言うんだ! お、俺達は銀行強盗してきたんだぞ、今更人一人はねたところでどうなるでもないだろう」
「でも、強盗ならまだしも人を殺したってなると、捕まった時酷いことになるんじゃ……」
「まったくお前は心配性だな、それに捕まるわけにゃあいかねえんだよ」
「でも……」
「ち、仕様がねえなあ。解かった。そんなに言うんならこうしよう。ひいたのが『カエル』だったらこのまま逃げる。それ以外だったら自首する。どうだ?」
「『カエル』だったらこのまま逃げる……。うん、じゃあそうしよう」
二人は車を降りて、後ろに回ると濡れた地面を見た。

『ウシガエル』
「兄貴、ウシガエルだよ」
「ウシガエルだな……」
ファンファンファン
サイレンの音が聞こえた。

  江戸屋小犬(噺家歴 30年) 1999年 06月 30日 18時 37分 52秒
《特集》『密室のゲーム業界』
『最終回 崩すことの出来ない任天堂の牙城』

 みなさんこんにちわ、梶川誠です。好評を頂いておりましたこの特集も今回でめでたく最後を迎えることが出来ました。これもひとえにみなさんの声援の賜物です。誠にありがとう御座います。さて今回はゲーム業界の雄、任天堂のお話です。
 みなさんは任天堂と聞いて何を思い出すでしょう。やはり看板キャラクター『マリオ』でしょうか? それとも『ゼルダ』でしょうか。
 私自身が思い出すのは何と言っても『花札・トランプ』です。ご存知でしょうか? 現在の任天堂の前身の会社名を? 『任天堂骨牌』花札やトランプなどを作っていた会社なのです。もちろん今だって作っていますよ。お持ちのカードを一度見て下さい。カードの端の方に、若しくは箱の裏に任天堂という名前がありませんか?
 任天堂は業務の大半をゲームに移した今でも、カードゲームのおよそ八割の市場をその手に収めているのです。
 これが、ソニーに日本のゲーム市場を奪われても未だにその牙城を崩せない任天堂の強みなのです。
                                   終わり

次回 最新映画界の表側 お楽しみに

  梶川 誠(週刊パトス ライター) 1999年 06月 29日 23時 50分 21秒
《寄稿》『生命の終着と、物語の発端(仮)』
 ヒトは生命維持手段に遺伝という複雑なシステムを用いることにより様々な生物的特性を得て、激変する環境に適応し生存してきた。遺伝システムは地球・地域環境変化に迅速に対応し、個体の生物的特性である形質を分化・変化・特化させてきた。個体記憶・遺伝情報を伝える手段の能力補強である進化は形質に多種多様な変貌を与えた。
 生命とは、遺伝情報を後世に伝えるプロセスそのものを指す。だが、現在地球上にはヒトほどに複雑な機構を持たず生存し続ける生物が多数存在する。それらは遺伝というシステムを用いずに個体を存続させ続ける。細胞分裂を繰り返す原核生物。また昆虫などは遺伝システムを採用するもヒトよりも遥かに簡潔な行動様式をとる。何故ヒトやそれらに酷似する種の生命活動・行動様式はこれほどに複雑で、回りくどいのだろうか。他種はきちんと環境に適応し、生存し続けているにも関わらず。

 ヒトによる学問、娯楽、知的欲求などは個体の生命維持、遺伝情報継承とは無縁の活動である。現在、学問、娯楽などはヒトの「おまけ」「ゆとり」「余剰」として位置付けられている。発達した情報処理器官である脳のゆとりがもたらす副産物として。遺伝システムに代表される生命活動は隅々まで緻密で周到であり公式めいているのに対し、ヒトの脳の行うこれらの余剰は、明らかに異質で場違いである。その活動において余り、ゆとりが発生するということは、ヒトは最早それ以上形質を発達させる必要の無い、種としての終着を迎えた究極の存在なのだろうか。或いは滅びを待つ息詰まった存在なのだろうか。

 何故ヒトは数式を駆使し図形を描くのか。何故ヒトは有りもしない架空の世界を旅するのか。何故ヒトは地球の年齢に興味をもつのか。何故ヒトは宇宙になど目をむけるのか。何故ヒトは住めもしない惑星に降り立とうとするのか。
 それらにより生命維持が保証されたり遺伝がスムーズに行われるとは到底思えない。生命活動である遺伝システムと無関係である行動をとるヒトは、残念ながら不要な機能を持った不完全な生物なのだろうか。
 次に環境の激変が地球を襲った時、不完全なヒトは残らず淘汰されてしまうのだろうか……。


  マッハ(光臨間近!) 1999年 06月 29日 20時 38分 10秒
《連載》『今週の星占い』
みなさん、いかがお過ごしですか? 今週も星占いの時間です。

『カシオペア座のあなた』
   何をやっても上手く行かない週です。行動は控えめに! ラッキーカラーは黄色
『おおぐま座のあなた』
   金運に恵まれています。ちょっとした副収入があるかも? ラッキーカラーは青
『こと座のあなた』
   意識している異性と上手く行くかも!? ラッキーカラーは群青色
『白鳥座のあなた』
   尊敬している上司と衝突する暗示  ラッキーカラーは黄土色

  浦畑鈴(登別の母) 1999年 06月 28日 21時 46分 27秒
《連載》『気分はピーチパイ♪』梅雨号
「ファースト・コンタクト!」
 皆さんは宇宙人の存在についてどう考えますか? わたくし鳩羽美咲はと云うと、全面的に信じてます。何故かって? ふっふっふ〜、何と! 我がオフィスには宇宙人様から「メッセージ」が届くのです! 残念ながら銀河語の知識が乏しいので、内容までには踏み込めませんが、だいたい週に一度くらい、定期的にコンタクトを試みてくるのですよ! でわ、再現フィルム!

りるりるりる〜(電話呼び出し)、がちゃこん!(受話器を上げる音)
「はい、オフィスみさきです」
「……」
「もしもし?」
「……ぴ〜〜ひるるるるる〜、が〜ぴぎ〜ぶ〜〜ひが〜〜」
「!? う……宇宙人様だぁ!」

 ね?
(お便りをお待ちしております。いえ、宇宙人様じゃなく読者様のを……)

  鳩羽美咲(はとば・みさき ライダー) 1999年 06月 28日 20時 24分 10秒
《連載》『嗚呼、憧れのゲイムクリエイター』第18回
 ――ゲーム業界制作現場の常套句
「売れるゲームを作らなければならないので、素晴らしいゲームか否かは二の次である。我々は営利目的で活動している」
 使い古された黴臭い言い回しであるが、未だに根強く生き残っているらしい。今回はこれについて私自身の過去の経験を踏まえ、再考してみることにする。

「素晴らしい・売れる」
 まず、ゲームなどが「売れる」とはどういう状態か。販売数が多い、出荷台数が多い、それがその製品が「売れた」ということである。
 次に「素晴らしい」とはどういうことか。それはゲームなら、ゲームという「分野・媒体」に接する人々を感動(喜怒哀楽すべて)させること。ゲームを通して、人々が多様な考えや未知の世界の知識を得ること。またその分野の技術的限界に挑戦したり、新たな可能性や今まで不可能だった表現方法を開拓したりすることであろう。

 さて「売れる」と「素晴らしい」は相反するものであろうか?
 最低限の利益は確保しなければならない、と彼等は主張する。我々はビジネスで活動しているのであって趣味ではないのだからと。それゆえ確実に売れると解っている、過去にある程度の販売数を確保した、他社作品を強襲することはやむを得ないと言う。それにより最低限の販売数を確保し、それを大量に作ることで利益を上げるのだと。
 そしてその様な活動は素晴らしい作品など生み出さないとも。それゆえ「売れる」と「素晴らしい」は基本的に両立しない。確かに論理的である……のか?

「パッケージ」
 私が気になったのは、あるゲームが何を持って「素晴らしい」作品と評されるか、ではない。彼らの主張する「最低限の利益」を確保する方法、そこに重大な問題が隠れている気がしたのだ。
 何処かのメーカーが膨大な時間と投資で大ヒットRPGを作ったとする。もしくは奇抜なアイディアのゲームを。弱小メーカーは活動持続の為、会社存続の為にそれらのゲームを模倣し、つぎはぎだらけの作品を急ごしらえで、矢継ぎ早に市場に投入する。質では適(かな)わないので数で、下手な鉄砲数撃ちゃ、である。
 この方法を否定はしないし、どちらかと言えば肯定する立場に私はある。営利団体が利益を追求することは絶対に正しい。営利団体とは、その為に存在する集団なのだから。彼らにはゲームが素晴らしいかどうか、面白いかどうかなど全く関係が無い。売れる為なら犯罪以外なんでもするであろう。勿論悪い噂が立つような無茶はしないだろうが、二流仕事による評判低下くらいは許容しているようである。

 そうして出来たゲームはパッケージ(イラストのタッチなどの見せ掛け部分)だけ豪華にしておけば、一見大ヒットゲームと同じに素晴らしく見え、故に少なくとも一定の販売数を確保することが出来る。その程度でもプレイするユーザーはかなりの数存在するので。女の子が登場すれば屑でも、かすでも買う、その様な頭のいかれた連中は大事なお客様であり、またカモである。

「大前提」
 私は過去に、とあるソフト会社の面接を受けた経験がある。そのときに参考作品として持参したのは、イラストや短編小説ではなく「素晴らしい」ゲームの「原案の断片」、つまり「企画書」だった。なお、私が自らの作品を「素晴らしい」と言い切るのは、私がナルシストであったり自己中心的であることとは全く関係が無い。それは冷静な判断分析の結果である。
 話をスムーズにする為、蛇足ながら簡単に解説する。
 私の作った原案は私が是非プレイしてみたいゲームの原案である。私は十数年もの長きに渡ってゲームを「ユーザー」としてプレイしてきた。それにより、どういったゲームが「素晴らしい」という最高の賛辞を与えられるか、与えるに値するかを直感、或いは販売実績により知っている。それらの作品の少なくとも半数は雑誌などで大々的に取り上げられたもので、ミリオンセラーとなっている。残りは私の個人的好みに合致する、埋もれた、偏ったものであるが、それとて一定の販売数は確保している。
 要するに「素晴らしくて」しかも「売れた」ゲームである。また、全く駄目なゲームも何度かプレイしたこともあるので「売れない」ゲームがどういったものかも解る。

 さて、最も重要で、にもかかわらず見落とされがちなことだが、あるゲームが「素晴らしい=面白い」かどうか判断することを許されるのは、そのゲームを購入した「ユーザーのみ」であり、決してそれを作ったプログラマーやグラフィッカーやライターなどのソフト会社側や、批評を掲載しているゲーム雑誌ではない。
 またある種の賞を与える業界団体でもない。映画や小説の世界を見るまでもなく「受賞作品=面白い」はほぼ成立しない。
 だからこそゲーム制作はある種「賭け」である、などという意見が出てくるのであろう。

 ユーザーの好みは千差万別で捉えることは難しい。受賞作やミリオンヒットが実は内容的に下らないのは、そう言った違って当たり前の部分、異なる価値観が発生しない「表面的な」部分のみを満足させているからであり、ヘビーユーザーには不満以外与えない。それでも営利団体である以上「数」を優先させる。そしてこれはゲーム業界に限った事では無い。
 以上のような不健康状態は業界の「常識」とも呼ばれている。

 私の持ち込んだ企画に対し相手は「これでは最低限売れるゲームは作れない」と判断した。そして「我々は売れるゲームを作れる“人材”を欲している」と言った。その能力を持たない私を雇うことは出来ないと。特に価値の無いゲームに、豪華なパッケージを付けることの出来る「豪華なパッケージを作れる」人間ではないと。それは奇麗なイラストであり達者な文章である。指摘の通り私にはまだその能力は無いし恐らく永遠に身につかないであろうし、そもそも身に付けるつもりもない。
 そのソフト会社の打った求人は、あちらに最低限売れるゲームの計画のみがあり、それに付ける豪華なイラストや豪華な文章を書ける「人材」を募集していたのである。そして私が提出したものは「計画」そのものと、それらを具体的な形にした文章や漫画、つまり「企画書」である。相手は作業員を求めていただけなのでその事を責める訳にもいかない。私側の勘違いである、残念。

「疑問」
 だが、ここで大きな疑問が生じた。彼らの計画通りゲームが完成したとして、それは本当に一定の販売数を確保できるのであろうか。

 内容はオフレコだと言って教えてはくれなかったが、相手の現在の計画の一つは、可愛い女の子の登場するフルボイスアドベンチャー、ソニーの「やるドラ」シリーズの模倣ではなかろうかと想像する。「ギャルゲー」なる意味不明な単語(その様なジャンルは存在しない)がたびたび登場し、使える「シナリオ」がどうとか言っていたので恐らく。
 その為に、流行の可愛い女の子イラストやその背景などを書ける人材、それに似合う三文小説風な大量文章を卒無くこなす人材を募集しているのであろう。そしてそれらの技術が無い私を雇うことはしないのだ。当然と言えば当然である。私はアニメーターや小説家崩れではない。
 たしかにこういったゲームであれば確実に売れる。そこは私にも納得できる。だが、「それ以外では売れないのか?」。

「誤解」
 ヒット作を持たない中小メーカーが、繋ぎの為にのみ作成してるゲームなど絶対に買わないユーザーが存在する。たとえば私のような。彼らは見せ掛けの絵などではない質の高いゲームを求めている。そして彼らは確実に存在するが、その数は非常に少ない。しかし、彼らの満足するようなゲームでは販売数を確保できず「売れない」と、メーカー「自身」が判断しているのではないだろうか。
 更に、それは過去の経験による学習、では「ない」のではないだろうか。つまり「素晴らしい」と思って作ってみたが売れなかった経験が、果たして彼らにあるのだろうか? また仮にその経験があったとしても、過去に作ったゲームが本当に「素晴らしかった」のかを誰か第三者(ユーザー)がきちんと評価したのか?

 前述のような判断は恐らく業界の「常識」として認知されている、誰かが実証した訳でもない「伝説」なのであろう。大昔に誰かが失敗した、など。もしそうであれば、それは下らない番組を作り続けている民放各社が「視聴者が望むから」と言っているのと同じ理屈である。視聴者は「望んでいる」訳ではなく「それ以外に無い」からその俗悪番組を見ているのである。基本的に選択肢は存在しないのだ。
 にもかかわらずメーカーは自らが市場調査をしている訳でも無さそうである。「どんなゲームなら買いますか?」「どんなゲームをプレイしたいですか?」などとユーザーに聞くメーカーなど存在しないし、私は聞かれたことが無い。購入者葉書アンケートなどはその様な活動とはみなせない。葉書を出さずに良質ゲームを求める私のようなユーザーの方が圧倒的に多いのだから。

「勘違い」
 私が提出した原案は、今迄の既成のゲームとは全てにおいて少々だが方向性が違っていた。ただし特別奇抜な特許的アイディア(絵・文・世界・システム全て)を盛り込んだ訳ではないので、面接の相手が「このジャンルの」ゲームは売りにくい、と言いたい気持ちも分かる。彼らには私の提出した原案が、過去のゲームのどれかと似ているように見えたのであろう。
 残念なことに、微妙な雰囲気の違いなどは感性の鋭い人間にしか分からない。微妙な違いで作品は良くも悪くもなると言うのに。きっと彼らには「ファイナルファンタジーシリーズ」が同じゲームに、「ガンダム」と「Zガンダム」と「ZZガンダム」と「ガンダムW」と「Vガンダム」と「ガンダムX」が全て同じアニメーションに見えるのであろう。スクウェアや富野由悠季氏や、それらのファンが聞いたら驚きの余り気絶するかもしれない。だが、業界内でもその様な「自称」事情通の厚顔無恥は、かなりの数存在する。
 提出原案は、私自身がどのジャンルに分類されるか決め兼ねているくらいであった。それを、流して読んだ程度で判断出来る筈が無い。書いた本人に分からないことが第三者に解るとは想像しがたい。繰り返しになるが、そうして分類したい気持ちは分からない訳ではない。但し、無駄な努力である。

「さて」
 中小メーカーのその様な恥ずべき現状を打破する方法を考案した。彼らに素晴らしいゲーム原案を提出した所で「売れないかもしれないから」と尻込みするに決まっている。
 日本人の「事勿れ主義」はこんな所でも悪影響を与えている。が、それを責めることは止めよう。本質を捉えられない者に何を言っても仕方が無く、時間が勿体無い。しかし一般的に、業界を憧れる素人がどうにか自らの作品を具体化するには、彼らのような存在の助けが必要である。そこで考えた。それは一種の「注文生産」システムである。

 メーカーにはゲームが素晴らしいかどうかは一切関係なく、それがどういうものなのかの判断を半ば放棄している。理想では食っていけないのだ、といった所か。もし判断出来てもそれを作る能力を有していない場合がある。
 メーカーが危惧しているのは、利益が生じず損害を被ること、只それだけである。ならば一定の利益が生じれば良いのである。実に簡単な理屈だ。

「注文生産とは」
 以下はあくまで仮定の話である。
 まず「制作予定ゲームの概要」を作りユーザーの目に触れる場所で一般公開する。あくまで「予定」段階での公開である。作らなければ市場調査費用以外の損害は発生しない。
 そしてユーザーからの評判や「これなら買うかも」などといった具体的・抽象的意見を「開発着手前」に収集する。この段階にくれば、それが「売れる」ゲーム企画かどうか判断可能である。開発期間は必要時間確保する。注文書ではないので急ぐ必要も無い。
 もし「予定」が全く相手にされなければ、それは「売れない」と判断すれば良い。前述のこれらは当然ゲーム雑誌に広告として掲載する。
 一般の広告との違いは「開発を始めていない」段階での大掛かりな発表である点。それゆえグラフィックなどを公開するのは不可能。画像やシステムなどを売りにしているゲームは当然向かない。

 前述の「やるドラ」などの物語やドラマ性(脚本)を重要視したゲームが最も向くかもしれない。仮に「やるドラ」を弱小メーカーが計画したとして、しかもソニーによる前例が無かったと仮定する。
 彼らは最低限の販売本数を確保しなければならない。しかし特別流行してる前例が無いので、女の子が数多く登場するアドベンチャーで無難に行きたい所。そこで物語を重視した、たとえばサスペンスや本格ミステリーを誰かが持ち込むとする。シナリオに絶対の自信を持って。
 残念ながらメーカーとしては、それが特別凄いシナリオには見えない。世の中にはサスペンスや本格ミステリーというだけで購入する消費者が驚くほど存在し、彼らが重要視するのは物語のみで、パッケージングは二の次である。
 そこで、そのシナリオの概要を雑誌広告として公開する。当然、本筋のイメージがおぼろげに分かる程度だが。持ち込まれたシナリオがどれほどの販売数を確保できるかが、それに対する反応で解る。芳しくなければ中止すれば良いし、掘り出し物かもしれない。

 以上が「注文生産」の概要である。最も、その為の広告費や先行投資を惜しむようであれば最早救いようがないのだが…。 尚、盗作などは堂々たる態度で迎え撃つ。やれるものならやるが良い、恥知らずの屑どもが! といった強気姿勢である。先に計画公開で著作権が発生するかもしれないし、秘密にしたがる姿勢そのものが私には良く解らない。
 断っておくが、この「注文生産」が現実的かどうかが問題ではなく、旧態依然とした価値観を見直す機会も必要だと、そういうことである。

「終わりに」
 何故外野である私などが、このような回りくどいことを提案するのか。それは私が中小メーカーの、ゲーム品質に関する「判断力」を全く信用していないからである。彼らの出すゲームの中に僅かでも素晴らしいものが混じっているのであればともかく、ユーザーとしてプレイしてみたいゲームが大手以外では殆ど存在せず、中小だから出来る、ユーザーをうならせるマニアックな作りのゲームが出てこないからである。どれもこれも卒無く無難、記憶に残りもしない。
 無ければ作るしかない。だが、私がゲームクリエイターなどという眉唾物の職業に憧れている訳ではない。そんな日本語表記も出来ないような職業など。連載当初から繰り返しているように、一人のユーザーとして楽しくプレイしたい、唯それだけである。これからゲーム業界を目指す諸君に、私は期待している。

  天草五郎(日刊ゲームワーカー ライター、流しの落ちゲーマー) 1999年 06月 24日 22時 02分 23秒
《連載》『密室のゲーム業界』
「第三回・そんなにソニー機は優秀なのか?」

 みなさんこんにちわ、梶川誠です。
 さて、今回は前回までのセガのライバル、と言って良いものなのか迷いますが、ソニーの「プレイステーション」(以下PS)の話題をお届けしようと思います。
 ソニーがゲーム業界にその名を現わしたのは91年頃。その時点でゲームハードの実に八割のシェアを持っていた任天堂との業務提携という形でした。任天堂が当時のゲーム機、「スーパーファミコン」(以下SF)の拡張ハードとして、CD−ROM媒体のハード開発をするにあたって、ソニーと提携を結ぶというものでした。そのハードの開発コード名が「プレイステーション」だったのです。
 それから時が経ち、任天堂がCD−ROM媒体を捨てた所から、ソニー独自のゲーム機開発が始まりました。
 94年のPS発売当初、同じ時期に発売されたセガの「セガサターン」(以下SS)と比較され、これは互角に渡り合えたとしても今のような市場を独占する形になるようなことは無いと、誰もが思っていました。ハード発売時の牽引ソフトはSSが「バーチャファイター(セガ)」、PSは「リッジレーサー(ナムコ)」でした。3D格闘ゲームとレースゲームだったのです。しかも、SSの方では同じくレースゲームの「デイトナUSA」が既にアナウンスされていました。その頃の流行である格闘ゲームと人気のレースゲームタイトルが発表されているSSの方が消費者には魅力的に見えたのです。
 問題は他にもありました。それはゲーム内容を記録する装置が、SSには内部にPSには外部についてありました。長時間を費やすゲームにとってこれは致命的です。外部にあるということは、その装置を別に買わなければならないということであり、一部の消費者に敬遠されていました。
 この問題点を打破したのが、ソニーが放つ広告であり、流通改革だったのです。
 ソニー、PSのTVCMは画期的でした。普段ゲームをしない消費者が、CMの面白さにひかれ、ハードを買っていく。そんな光景が多々見られました。そして、それをフォローするべく流通も迅速に行なわれたのです。欲しい時に欲しいものが手に入る。これこそがソニーハードの強さなのです。
 しかし、逆にこんな声も聞こえます。
「確かに今迄よりは(任天堂が主体の頃よりは)商品が早く届くが、それでも発注してから二日、最悪三日かかる。その間に他のお店にお客を取られちゃうよ。都心じゃ早ければ次の日らしいからね」
(某フランチャイズTVゲームショップ・店長)
このように地域差を感じさせることも少なくないようです。これからもソニーの時代が続くのであれば、この問題をどう対処するのか? それが課題となるのではないでしょうか。

  梶川誠 (週間パトス ライター) 1999年 06月 21日 16時 15分 29秒
《連載》『密室のゲーム業界』
「第二回・ナムコ参入を巡るブラックマネー」

 みなさんこんにちわ、梶川誠です。
 さて、前回はドリームキャスト(以下DC)で発売された「セガラリー2」が度重なる発売延期を余儀なくされたことをお話しましたが、今回はDCに今迄ソニー陣営の中核を担っていたナムコが、参入した経緯などを赤裸々にレポートしようと思います。
 前出のナムコですが、実はDCの前身、セガサターンにも参入はしていました。しかし、ソフトを発表することなくセガサターンはDCにその座を明け渡したのです。今回もまた表明だけかと誰もが考えました。ですが、ナムコはアーケードで人気の「ソウルキャリバー」の開発を発表したのです。この裏には何があったのでしょう。それには30年前まで溯ります。
 当時の通産省大臣、武石昇(現衆議院議員)とセガ会長、大鳥浩一郎は幼少時からの旧知の仲、中村製作所から株式会社ナムコへと変わろうとしていたナムコへ、セガ会長からの援助金として、武石昇議員から30億の金が流れたと憶測されます。これを象徴するように、任天堂にソフトを供給していたナムコが、セガのメガドライブに鞍替えしたことからも安易に想像できます。
 そして、ソニーの右腕として活躍していたナムコが、突然のDC参入発表からソフト発売へと続いていくのです。
 では、また次回。

  梶川誠 (週間パトス ライター) 1999年 06月 20日 00時 31分 25秒
《連載》『メディア批評「プロパガンダラ」』第6回
 バリー・ゾーゴンです。

 さて、今回も過去の話題で恐縮ですが、NHK教育「糸井重里のインターネット・トーク」という番組です。コピーライターとしては終わった人(自分で言っていた)がネット(WWW=ワールドワイド・ウエッブ=世界規模の情報通信網)という新たな媒体によりメディアの可能性について語る、そういった構成でした。氏は聡明で理路整然としており不快感はありませんでした。ですが……。

 ちなみに「(インター)ネットをする」は「情報通信網をする」となり日本語として意味を成さず、「電話」は「掛ける」ものであり「電話をする」は電話器のコスプレでもするのですかね。

 番組中の糸井氏の主張は、ただの個人が発している情報が凄いパワーを秘めていて、今迄のメディア(主に書籍)の持つ字数や枚数や話題などの制限がネットには一切無く可能性に満ちている、といった無意味なもので、とても残念でした。

 番組は、個人のホームページが持つ力と銘打って、オリジナルのジーンズを作った愚かな暇人四人のメールやり取りの経過や、サッカー場でゴミ袋(!)でマスゲーム的なことをファン達にさせた犯罪者を取り上げていました。「W杯会場が青一色で染まった」。
 あるいは日常の些細なことを徹底的に論じている糸井氏の主催するページの一コーナーの紹介。「ちっぽけな個人でも凄いことをやれるのだ」。

 この番組を見ている最中、僕はこう思いました。
「僕もホームページを立ち上げて、たとえ誰が聞いてくれなくとも発言していこう。もしかしたら一人くらいは耳を傾ける人がいるかもしれないじゃないか。共に世界を救おうと、呼びかけよう」とね(直訳アメリカンジョーク風)。
 でも、止めました。知人のノートパソコンでネットサーフィンに興じてみたのです。そこに無数に点在していた有名無名の個人のホームページ(日本国内のみ)や今回の番組で紹介された各人の活動への僕の感想は、「みんな、一体何やってんだ?」でした。

 WWW上にホームページをアップロードする、それは個人が“世界”に向けて自らの意見や思想を第三者の介在無しに発信することです。“世界”とは、地球上に存在するあらゆる国家のうちPC(パーソナルコンピュータ、ここではマイコン、スパコンなどをも含む)で結ばれた範囲を示し、それは今や地上の主要な国家をほぼ網羅する膨大な広さです。

 海底深く、ファイバーケーブルの遥か先には、内戦中の小国や飢餓で苦しむ国の政府、迫害差別経済格差などを打破せんとする組織やカルト宗教団体、最先端の医療・科学技術を扱う研究室や培われた伝統芸能を後世に伝えようと模索する職人、思想・哲学・宗教の研究者や営利目的団体・営利目的一般個人とその顧客となり得る民衆、考え得る全ての種類の人間が存在しています。
 それら物理的・距離的・時間的に隔離された個人を繋ぎ、情報を交換することで各界の状況や意見をスムーズに且つ有効に使う、その為の情報網がWWWなのです。発祥は、アメリカ主体で軍事や対災害利用を目的として誕生した広域情報網。

 わたしの飼っている猫の“ポテ”はとても可愛らしく…。気ままな日記紹介…。ボツになった創作小説の供養です…。オールゲーム・アイテムリスト…。先日パリに行った時にデジタルカメラで…。………。

 人間とは脆弱な一本の葦だそうですね。でも、それは“考える葦”なのです。……皆さん、少しは考えたらどうです?

  バリー・ゾーゴン(コンゴに左遷された) 1999年 06月 18日 23時 59分 38秒
《読切》『一撃必殺!』
 スティーブ・スピルバン監督による冒険浪漫『インディー・ジョーンズ』シリーズ最新作! 『インディ500』

  兎耳フリーク(犯罪者予備軍) 1999年 06月 18日 23時 30分 16秒
《連載》『密室のゲーム業界』
「第一回・セガは倒れたままなのか?」

 みなさんこんにちわ、梶川誠です。今回からの特集シリーズは、みなさんもよくご存知のコンピュータ、特にTVゲームの世界を少しばかり覗いてみようと思います。不況知らずのゲーム業界と言われますが、現在の業界はそれほど好調ではないようです。それは何が原因なのでしょう? あの大作ソフト(注1)「ファイナルファンタジー」シリーズでおなじみの「株式会社スクウェア」でさえ、同最新作「[」の発売が平成10年度でなかったならば、赤字転落は確実でした。何がゲーム業界に起こったのか? 今回のシリーズではそこに注目してみたいと思います。

 みなさんは「セガ」という会社をご存知でしょうか。昨年の11月新世代ゲーム機(注2)「ドリームキャスト」(以下DC)を発売したゲーム業界最大手のハードメーカーです。そのセガが6月1日、業界を揺るがす発表がありました。そう、DCの販売価格を9900円値下げして、1万9900円にするというのです。すでにご存知の方も多いとは思いますが、発売から(注3)7ヶ月、出荷台数も100万台を超えたというアナウンスもされていましたからこのことに疑義を唱えない人もいるでしょう。しかし、考えて見て下さい。果たしてセガにそんな余力はあるのでしょうか?
 5月のDC発表当時、ソフトのアナウンスはありませんでした。必ずやあるであろう(注4)「バーチャファイター」の名前すらなかったのです。誰もが目を疑いました。発売予定はその年の秋の予定。半年のリミットしかないのに、ソフトの発表は一切ありませんでした。
 最初に発表された自社ソフトは(注5)「ソニックアドベンチャー」でした。確かにこれも強力な(注6)キラーソフトです。しかしこれが発表されたのは8月末。一般の層に浸透するには時間が足りません。そして、発売直前に発覚した(注7)チップ不足。これでDCの出足は完全に躓きました。相次ぐソフトの発売延期。年末発売予定だった「セガラリー2」は販売店に一週間ごとに発売延期をアナウンスしていました。次の週に延期、また次の週に延期と。

 今回はここまでにしておきましょう。ではまた次回。梶川誠でした。

(注1)「ドラクエ」シリーズと肩を並べる和製RPGシリーズ。最新作は350万本以上のセールスを記録している。
(注2)昨年11月27日にセガが発売したTVゲーム機。2万9800円。
(注3)ちなみにソニーのプレイステーションも発売から7ヶ月で、1万円の値下げを行なった。
(注4)セガの人気3D格闘ゲーム。主人公のアキラやパイが拳法を使って戦う。
(注5)セガの人気キャラクター、ソニックが主人公のアクションゲーム。ソニックは海外ではディズニー並みの人気。
(注6)ハード(ゲーム機)の販売を牽引するだけの力を持つソフト。
(注7)NEC熊本工場で製造していたグラフィックチップ。

  梶川 誠 1999年 06月 18日 23時 19分 11秒
《連載》『メディア批評「プロパガンダラ」』
 日本の皆さん、はじめまして。僕はバリー・ゾーゴン、エッセイストです。管理者さんのご厚意により、日本におけるマスメディアに関するエッセイを連載することになりましたので、以後お見知りおきを。感想などはこちらに書いて頂いてください。

 さて、随分前の話で恐縮なのですが、NHK教育で、息子が苦悩の末自殺したと言う自称作家が、中学生達に説教するといった主旨の番組が放映されていました。それについて少々。
 何よりも、そのシチュエーションだけでもお笑いなのですが、その自殺息子の詩(笑)が番組中何度か紹介されており、予想通り笑えました。文面は忘れてしまいましたが「周りの人間が信用できない」とか「僕は一人孤独だ」とか「僕は死ぬが、決して死なない」とか、要するに悩みの単なる「途中経過」なのです。
 理解力と分析能力、基本的な知識などが致命的に不足しており、最終的な回答を出す能力が決定的に足りず、「死ぬしかない」なんて感動的(笑)選択肢を選んだ、恥ずかしい息子だったそうです。
 この息子にしてこの親、とでも言えば良いのでしょうか。説教の内容は以下のような感じでした。
「貴方は決してちっぽけな存在ではありません。貴方の食べるお米や歩く道路はそれを作った人が居て始めて貴方の元に届きます。
 貴方は社会に恩返しをしていかなければなりません。貴方は決して一人きりではなくいろいろな人間と助け合いながら生きてきたしこれからもそうしていくのです。」
 はてさて、僕の頭にはクエスチョンマークで一杯です。このような説教(思想とも呼べない)を日本ではうんざりするほどいろいろな所で耳にします。正しいとか正しくないとか以前に論理的ではなく、その事がとても不思議でしたが、この胡散臭い説教の出所をようやく見つけました。これは典型的な日本的思想「村意識」ですね。

「個人」ではなく「全体」「世間」「共同体」を最重視し、皆のおかげで君が生きていけるのだから「君も皆の為に働け」、それが出来ないのなら「村八分」だ、と脅しを掛け働き蟻である事を強制し、それが美徳だと洗脳している、あの「村意識」です。
「幽霊の正体見たり」てな感じ。相手がはっきりすれば対処は簡単、ほっと一安心。言わずもがな、個人が一番尊重すべき存在であります「村」なんてモノは元々単なる「状態」で、そんなモノを重要視するから歪みが生じるのです。

 それでは皆さん、また次回にお会いしましょう。

  バリー・ゾーゴン(在日シチリア人、マスコミ評論家) 1999年 06月 18日 00時 03分 26秒
《寄稿》『理論』
 時間について。楽しいことしてる時は時間が進むのが早く、辛い時はゆっくりだっていうじゃあないか。あれから、とんでもない理論を発見した。いや、正確には発見しつつある。まだ朧で全容が見えないのだが。こんな感じ。時間の流れは不変ではなく「思考の速度により」変化する! どうだ! いきさつはこう。
 Newtonを読んでたら相対論(一般・特殊とも)の特集をしていた。何気なく読んでいたら「光速度普遍の法則」とあった。ウラシマ効果を生み出す有名なあれである。その流れで、巨大な重力場は時空(空間)を歪ませ、そこでは光すら直進できない、とあった。ここまでは常識。そのあとに続く一節に釘付けになった。
「と、云うよりは、曲がった光の軌跡こそがその(歪んだ)時空での〈直線〉に他ならない」
 ニュートン力学での絶対基準である時間と空間が相対論では、相対的に変化する、決して普遍ではないものとして扱われている。その相対論での唯一の基準、絶対存在が「光速」、つまり電磁波の推進速度である。ウラシマ効果では時間の遅延が起こるが、相対論ではそもそも時間は不変でも一定でもない。光速度に対してどういった位置付けになるかにより時間も空間も相対的に変化する。だが、光速度は決して変わらない。
 時間の遅延に付いては、観測者の状態による変化である。つまり、観測しているものが静止しているか加速しているかにより事象は変化し、それぞれは同一ではない。地球を旅立った光速宇宙船による双子のパラドックス。地球と宇宙船に双子がそれぞれ乗り込み、宇宙船が光速で宇宙を往復し、地球に戻ってくると、地球側の双子の片割れは歳を取っている。地球から見れば宇宙船が動いているが、宇宙船から見れば地球が動いており、一体どっちが歳を取るのか。つまり、どちらの時間が遅れるのか。これは宇宙船が「加速度運動」をしており、地球側と決して同一条件ではないことから解かれた。

 さて、時間の話である。我々の頭の中、思考を一つの宇宙と考える。そして! そこに唯一存在する「絶対系」を「時間」ではなく、「思考速度」と定義すると、前述の「楽しいこと云々」が説明できる。つまり、夢中になっているときの思考速度と、そうでない時のそれは決して同一ではなく、夢中になっている時の方が圧倒的に早い。本を読んでいる時と、景色を見ている時では思考速度が異なる。
 ここからが本題。日常我々が普遍と考える時間の流れ、つまり、地球公転周期を12等分し、それを更に細分化したアレを「流動的」と考え、加速したと感じた思考速度を基準にしてみる。これは、全てを人間を中心に考える「人間原理(詳しくは私も知らないが)」に近いのかもしれない。思考速度が増すとはつまり、単位時間あたりの時間処理能力、情報処理と云い換えても良い、が増加するということであるが、ここで、与えられる刺激の感覚、単位時間あたりの入力数を一定とは考えず、増したであろう思考速度を一定とする。なぜこれが必要かというと、各個人により時間に対する感覚が異なり、同じ事象に対する判断が一様ではないから。
 結論に近いが、要するに、思考速度を絶対系と仮定し、しかしそれが各個人で異なることは許容するのである。具体例。同じTV番組を二人の人間が観るとする。雑誌などではなく番組にしたのは、一定時間に一定情報が平等に二人に与えられる媒体だからである。一方が「夢中であっという間だった」と感じ、他方が「退屈だった」と感じたとする。これを従来の時間基準で捉えると、その番組、つまり情報への評価が事実上不可能となる。それを観た個人の感じ方に幅があり、番組自体は不変だと言うことになるから。しかし、思考速度を、人間側を基準にすれば、番組は正否の両端へ幅を持つ流動的なものとして扱える。

 ……取り敢えずこんな感じ。最初に断ったように、まだ素案の状態なので、以降は後々に構築していく。

 さらに、もう一つ理論を提唱したい(ファン感謝デー)。現地球における絶滅生物種についてである。惑星の形成過程を追って行くと、最初にアステロイドやガス雲があり、それらが重力により徐々に収束し、やがて惑星や恒星を形作る。人間は云うに及ばず、生物とて星間物質に他ならないのなら、宇宙空間における秩序を当てはめることも可能ではなかろうか。
 結論を。雑多な種はその数を徐々に減らし、やがて一つの生物へと統合されるのではないだろうか。これは私が以前から考えていた進化論である「円環進化論(仮)」を飛躍させ、天文学を考慮して構築した最新理論である。
 一般にダーウィンの進化論は樹系図で表される。樹木の根っこを起源としそこに単細胞生物を置く。枝の部分に爬虫類や哺乳類などのカテゴリーを当てはめ、先端が現存種となる。私はある時これを見て不思議に思った。余りにも無秩序ではなかろうかと。これを自分なりに消化したのが「円環進化論」である。

 紙に幾つでも良いが同心円を書く。そして同心円の外輪にアミノ酸を置き、その円より一つ内側の円を描く線上に、原生単細胞生物を置く。さらにその内側に多細胞生物、そのずっと内側に光合成を行う複雑な細胞、さらに……と続ける。同心円の内側に行くほどに複雑化する。中ほどには哺乳類などの高等生物がいることになる。重要な点は、この同心円は、内側に行くほどその周長が短くなり、結果、その上に設定できる個体数が減って行くことである。複雑になればなるほどに個体そのものの生存力は強まり、無数の繁殖数がなくとも生存して行けるから、これは直感的に理解し易かった。この同心円の中心には「神」が居座る。神は宗教的な意味ではなく、繁殖不要の完全生物であり、唯一無二かつ脅かされることがなく、さらに、あらゆる生物は、ここに到達すべく日々生存し繁殖している。
 ダーウィン進化論を無秩序だと感じたのは、枝葉の先端が日の光に向け成長しているのでもなく、ただ伸びているだけであること。何事にも法則や秩序があり得る筈なのに、こと生物進化に関してのこのダーウィン仮説はそれが見事に欠落している。あれは観察に頼るだけの、いわば統計学である。

 あらゆる生物、いや惑星や無機物をも含む物質とは、一つの終着へむけ推移している「過程」ではなかろうか、これが「円環進化論」である。

  マッハ 1999年 06月 17日 21時 41分 04秒
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