《編制》 |
2001/10/14
『鍵』
{かぎ}
Key
for
"Heaven's House"
これといった理由は、今となっては思い出せない。
不満や憎悪、空虚が塵のように降り積もった結果なのかもしれないし、口にしているアルコールによる単なる勢いなのかもしれない。だが、この際、理由はどうでもいい。目の前のテーブルに居並ぶ飲み慣れない酒と、医者に不眠症だと偽って溜め込んだ、充分な量の睡眠薬。そして、馬鹿馬鹿しくも思えたが、部屋は出来るだけ整頓し、日記や手紙、携帯電話やパソコンの私的なデータも全て処分した。
遺書を書くかどうかは、少し悩んだがやめた。動機などは周囲が勝手に作り上げてくれるだろうし、そんなものでも家族や知人には事足りるだろう。だが、あいつには伝えておきたいことがあるような気がする。手紙でも書くか? いや、何をどう書くか、それを考えるのも面倒だし、第一、今更考えをまとめ、書き記すなんて真似も出来そうにない。
電話、それがいい。だが、どんな返事が返ってくるだろうか? お定まりに「やめろ」というだろうか? 普通ならそうだろうが、おそらく、いや、間違いなく違う科白が聞けるだろう。手にしたグラスを置き、錠剤の山を押しのけ、受話器を握り短縮ボタンを押す。かなり長い間コール音が響き、漸く繋がる。
「……何? こんな……夜中に」
明らかに寝起きの声。午前2時だ、それはそうだろう。声のトーンを少し落とす。
「ああ、ごめん。ちょっと話があって。起こして悪いけど、今、いい?」
と、知らず口元が緩む。ここまできて、我ながら奇妙な心境だ。そういえば、あいつと喋る時は電話でも面と向かっても、いつもそうだった。
常に先を見透かされていて、にもかかわらず下らない雑談や雑用に付き合ってくれる。寛大なのか暇なのかはともかく、こちらにとってはそれが心地良く、いつも笑みが漏れるのだ。
「ふぁ、やっぱ凄く眠い。駄目っていいたいけど、ちょっとなら、たぶん大丈夫だと思う。手短にお願い」
「あのさ、今から……し……」
詰まる言葉に心底驚いた。もう決めていたし、それが揺らぐことなどない筈だった。それが受話器の声を聞いた途端、この動揺。躊躇だろうか? 動揺しているのは、皆には沈着冷静で通っている自分の、あいつ以外、誰一人として知らないもう一つの顔だ。
「今から? 何?」
「え? ああ、手短に、ごめん。そう、手短に……」
そこで一拍置いてみたが、深刻な訳でもないので、その下らない演出に我ながら呆れた。安眠を邪魔しているのだ、手短にやろう。
「……今から死ぬ。薬と酒で」
暫しの沈黙は予想外に短かった。そして返ってきた言葉も、また予想外だった。
「ふぅん、そっか。いっつもそうだったけど、お互い、考えることは一緒なんだ。しかもさ、小道具まで……くくっ!」
語尾の小さな笑いは、ひどく枯れた、冷たいものだった。
「……一緒?」
「ふぅ、眠い。ああ、もう限界かな? んじゃ、お先に失礼――」
ガチャリと無愛想な音を立て、電話は切れた。
真っ白になった頭にツーツーという音が延々とこだまする。耳から引き剥がすようにして受話器を置き、テーブルにあるあれやこれやを眺めていると、また知らずに口元が緩み、とうとう小さな笑い声が漏れ出した。
「一緒?」
声にしてみたが、いつもと変わらない。視線の先にある薬とグラスを暫く眺め思案し、新たに便箋とボールペン、電話機と鍵の束を並べた。
「あいつ、遺書を残すタイプじゃないし、家族に別れを告げるような洒落者でもない」
唐突に湧いた子供のものに似た対抗意識が、眼前のあれこれから一つを選ぶ。
「よし、久々に意表をついてやる」
――ゆっくりと開く瞳に映るのは、何もかもが真っ白な、一点の汚れもない世界。
「これから死のうって人間を止めたことなんて、一度もないだろ?」
今度の笑みは、真っ白なベッドに横たわるあいつに向けて放つ、勝利の微笑み。
「……うん、ない。……はは、参った」
おわり