編制

2000/11/08(1999/07/18)
『本格ファンタジー宣言』
〜裏コード・閉鎖文学論〜(改訂)

《目次》

はじめに
参考資料
カテゴリー
幻想文学とは?
裏コード
終わりに
付記 裏コード作家の読解力
付記2 「ファンタジー」という呼称について(2000/11/08)


はじめに

 現在の文壇内外のファンタジー小説事情は、あまりに酷すぎて目も当てられない情勢につき、幻想文学、つまりファンタジー全般についての私なりの研究成果を示す。
 具体例の題材に素人作品を持ち出すのはあらゆる意味で危険であるので、手元にあったソニー・プレイステーションの体験版ゲーム二本、「グランストリーム伝紀」と「レガイア伝説」とするが、以下の文章は自称ファンタジー作家、ファンタジー作家を目指す俗な素人、ファンタジーを好んで読むが真の意味でのファンタジーを理解していない読者諸氏に対して向けられた、私からの「宣戦布告」である。
 御自分の作品がファンタジーだと勘違いしている皆さん、是非御一読を。そして幸運にも勘違いだと言う自覚が芽生えた暁には、我々の前から奇麗さっぱり消え去って欲しい。そのような輩の所業は不愉快で迷惑なのだ。


参考資料

 具体例、まず「グランストリーム伝紀」から。人類は賢者が支える四つの浮遊大陸に住んでいる。その賢者達が行方不明になり、大陸は墜落目前。主人公の青年リューンは数々の仲間と共にそれを阻止しようと各地を冒険する。魔道器〈セプター〉なるものを身に付けており魔法が使えるリューン。〈セプター〉は謎に包まれた道具だがその恩恵は得る事が出来るという、まことに不思議な存在である。
 冒頭に意味深い台詞が幾つか。要約すると、現実は一冊の本のようであり、それは神様が綴った物語である。本が完結しているかどうかは誰にも解らない。巻末の頁から邪悪なものが出現した。以上。
 次に「レガイア伝説」。不思議な生物〈獣(セル)〉による文明の栄えるレガイアは〈霧〉に包まれている。〈霧〉の中で〈獣〉は人間達を襲うようになる。〈霧〉に包まれたある村で、主人公の青年ヴァンは〈聖獣(ラ・セル)〉の導きを受ける。〈聖獣〉により力を得たヴァンは仲間と共に世界の〈霧〉を晴らすべく、冒険へと旅立った。
 冒頭の長い前振り、人間を襲う<獣>とそれ以前の〈獣〉により栄えていた情景が映し出されていた。

 懸命な方ならお気付きだとは思うが……二つとも全く同じなのだ。人類は今にも滅びそうになっている。その原因は争いばかりを繰り返す愚かな$l類の定めであり、罰を受けるらしい。キリスト教だろうか? その他数多くの争いを続ける生物達が、どうやって神様だか運命だかの目を逃れているのかは不明である。
 そして大胆にも人類を救おうと立ち上がるのは、性格だけは@ヌい少年少女達。彼らはふとしたきっかけ、或いは生まれて間もなくに正体不明の摩訶不思議な魔法(悪魔の技、ではなくマジック)≠使えるようになる。魔法そのもの、或いは魔法の宿る腕輪や首輪、剣などを身に付け、闊歩する怪物をなぎ倒して行く。


カテゴリー

 周知のように、文学・小説にはカテゴリーが存在する。いわゆる「ジャンル」と呼ばれるものである。大別すれば、フィクションとノンフィクション。フィクションは更にSF、ファンタジー、メルヘン、ミステリーなどに別れ、ノンフィクションであれば史実、ドキュメンタリー、エッセイ、自伝など。
 書き手はそれぞれ得意とするジャンルを持ち、誤解を承知で云えば、そのジャンルを大きく外れることはない。また読者は著書を選定する際に、必ずジャンルを決め、それから個々の作品を見定める。これらは専門分野に身を委ねない一般諸氏にとってさえ、書籍全般に関する常識である。
 書店に赴く。うず高く積み上げられた無数の著書は、前述したジャンルにより整然と並べられ、頁をめくられる日を静かに待ち続けている。

 もう一つ、文学における常識が存在するのだが、こちらはその重要性にも関わらず完全に忘れ去られている。それは常識であるので、極単純な一言で云い表せる。「表現・主張する事象によりジャンルが決まる」である。誤認している輩(日本国内に多い)は決まってこう云う「ジャンルによって得意とする表現がある」と。誤認に付いての指摘は後述する。

 近年、日本において爆発的にその勢力を広めたジャンルに「ファンタジー(そう呼ぶべきかどうかへの疑問は後程)」がある。家庭用ゲーム機の普及と、それらのソフトウェア(ゲームソフト)が題材とした神話世界や中世騎士は、日本人に好まれ支持された。各メディアへの進出のめざましいゲームはそのソフトウェアから、TV番組(主にアニメーション)、映画、漫画、ノベライゼーションなどを産み出し、又逆に、それらのメディアからゲーム化されることも多々。
 一連の活動に従事することがある種の憧れとなり、ファンタジーを題材にした絵(漫画なども含み)や文字(小説・シナリオ・脚本)を志す若者で溢れたことは当然とも云える。ネットワーク・オンライン上で執筆を行う素人が無数に存在するが、そこではファンタジー小説(作家)と自称する者が一番のシェアを占めている。


幻想文学とは?

「表現・主張する事象によりジャンルが決まる」と記した。恐るべきは前述の、ゲームから派生した小説に、この常識が一切当てはまらないのである。
 文学におけるファンタジーとは何か? 知っているものが聞いたら当たり前すぎて笑い出すかもしれないが、それは「メタファー(暗喩)」である(直喩の場合はフィクション・ドキュメンタリーに属する)。
 メタファーとは、その時代ごとの大衆・文化・政治・科学(時代ごとの最新技術)など、現実世界における様々な事象を、他のものに置き換え語ることである。置き換えたうえでそれを嘲笑したり弾劾したりすることは云うまでも無く、そうしてゆく過程こそがファンタジー作品の「筋書き」そのものとなる。
「剣と魔法のファンタジー」といったお題目を目にしたことがあると思う。このお題目を文字通り受取ると「剣と魔法によって現実世界の何事かを語った物語」となる。が、実際は「剣と魔法が登場するだけ≠フ物語」という最早詐欺に近い代物であったりするから驚きだ。それらを産み出した恥ずべき輩の行動原理とは、こうである。

「憧れのファンタジー世界を書くような作家(脚本家)になりたい。ならばファンタジーを書こう。世界観や主人公、必殺技はこれでよし、……さて、どんな話にしよう……」

 冗談にしては性質{たち}が悪い。彼等が程なく息詰まるのは、最早自然の摂理である。付き合わされる読者の身にもなって欲しいものだ。

 こういった場合もある。中学生、高校生など、自覚も責任も、選挙権さえも無い若輩者が日々の鬱憤を「固有名詞を変えた上で」ぶちまける手段として綴った日記を「ファンタジー」と呼称し、恥ずかしげもなく公開する。やはり読まされる方はたまったものではないのだが、若くて未熟な彼(彼女)にそれが解かろうはずもない。物語のモチーフとして「天使」「羽」「自由」などが好んで用いられる。虐げられていると誤解している彼等にとって前述のモチーフは願望そのものであり、当然これは文学などではない。


また、自己顕示欲の具体的手段としてのファンタジー執筆など。「皆さん、小説を書く能力を有するワタシを誉めて下さい」を文章化したものが作品と呼ばれ公開されているのだ。彼(彼女)がそのジャンルにファンタジーを選ぶ理由は、その浅はかな知識による。彼等にとってファンタジーとは、深い知識や洞察が無くとも取り組める「好きなように書ける」ジャンルという認識があるのだ。社会・文化・学問・技術などを思い付くままに創造でき、それゆえ特別な研究や調査が不要だと勘違いしているのだ。
 深呼吸の一つでもすれば明白なのだが、現世界の技術を理解していないものが、架空の技術を創造できる道理はない。それはつまり想像の想像であって、混乱を加速させているだけなのだ。
 こうして書かれた文章は読むに耐えないものとなり、当初の目的である「私を誉めて」はほぼ正反対の効果を発揮することになる。


裏コード

「ファンタジー・裏コード七則+一」
1:魔法(マジック)かそれに準ずるもの(未知の鉱物や機関)で構成される滑稽な文明は、邪悪なる意思や天罰により今にも滅びそうでなければならず、救世主は村≠フ理想的少年少女でなければならず、少数の若造に命運を握られる間抜けな人類には力は一切無い。滅びる為に産み出された世界。

2:彼奴ら少年少女は愚か≠フ象徴、天罰の対象である様々な力で別の種を滅ぼさん勢いで進軍、その過程を物語の粗筋としなければならない。正義の名の元に繰り返される虐殺の数々。

3:魔法やそれに準ずる力は必ず音声発動システムとし、さらに発音はすべてカタカナ表記としなければならない。理想は「ファイア・ボール」のように英語をベースとした発音の単語の採用である。異世界は実は英語圏。

4:主人公達人間は生身では戦えないので出所不明な古代超強力兵器で武装し、だが古代文明の産物は炎や雷、氷や風といった牧歌的で可愛らしい能力でなければならず、しかし威力だけは桁外れに凄くなければならない。技術の無駄遣い。

5:自分達さえ助かるのであれば手段は選ばない、利己的な人類を助太刀する心の広い精霊や魔族といった人類そっくりさんを必ず登場させなければならない。呼び方の異なるだけの人類とも言える

6:その世界には実体としての神様が存在しなければならず、その神は人類を嘆きつつも同じ人類である村の若者に望みを託さなければならない。論理矛盾な絶対者。

7:宿敵である邪悪の頂点と平和の定義についての議論・説得が可能でなければならない。同士討ちとも言える状況。

8(2000/11/08):登場する固有名詞は「サ行」「ラ行」を中心にした、覚え辛いものでなければならない。単語の原点が神話をアレンジしたものであれば更に素晴らしい。言語本来の意味と全く食い違うのは、それ自体、読者サービスである。


 言及するまでもなく、この裏コードを「満たしていないこと」が、真のファンタジーの充分条件である。濫造される自称ファンタジー小説は、そうではない物語も少しはあるのだが、殆どは前述の裏コードを満たしている。固有名詞が違うだけで全く同じと言っても良い。これらをまとめて「裏コード・ファンタジー」と、それらを吐き出し続ける輩を「裏コード作家」呼称することにする。裏コード作家は、本格ミステリでの「新本各」に該当する、主に若い世代の駄文書きである。裏コード・ファンタジーの悪影響は小説のみならず、ゲームや漫画にまで及んでいる。
 強い力や戦闘、自己犠牲や死が見せ場になるとは言え、人類を追いつめなくったっていいだろうに。さらに、訴える事といえば「人類は愚か」で「争いは良くない」ときた。それらを神様やそれに準ずる立場に言わせ、そこの住人が自ら気付く事は決してない。正しくない結論に辿り着く訳が無いのは真実味があってよろしいが、神様や創造主の聖人君主ぶりは如何にも人間¥Lく、それだけで大前提(神という概念)が破綻している有り様である。
 当然「人類は愚か」「争いは良くない」ことの「論理的解説」は無く、それゆえ裏コード・ファンタジーは思想や哲学になり得ない。前述の理屈は一種の「信仰」として裏コード作家に植え込まれている、裏コード・ファンタジー読者と共有している価値観である。

 主人公は若くて美形、これは許そう。彼らが何だか凄い能力を持っているのも、許容範囲である。能力の出所は、魔法や失われた文明でなければ及第点か。が、揃いも揃って理想の高校生≠ネのは最早犯罪である。清く正しく美しく、勤勉で真面目で控えめ、弱きを助け強きを挫き、純粋にして熱血……。
 そんな意味不明な若者に神様が力を貸すとはつまり、その若者こそその世界での理想の人間であり「それではそこは高等学校ですか?」となる。また、その物語の製作意図≠ェプレイヤーを理想の高校生にする為の洗脳なのは、議論の余地は無い。
 全てが意識的な結果ならば罪は軽いが、大半は無意識なのだろう。彼ら凡人の想像する桃源郷や究極の人間像、哲学や真理、血湧き肉踊る冒険は所詮、釈迦の掌の上の猿、世間や政治の輪の中なのだ。それらが如何に下らないかは二・三冊の独創的海外小説を読めば明らかである。そして、受け手とて彼らと同じく凡人であり、経済的商業的民主主義は凡人の為の仕組みなのである。売れる物語が前述の裏コードを踏襲しているのが何よりの証拠だろう。


終わりに

 出版業界は苦境らしい。書店から版元へ返品される本の割合は、驚くべき事だが、四割を越えているそうだ。一日に出版される新本は、なんと! 二百五十作品以上。ちなみに、初版はおよそ八千部だとか。殆どは一ヶ月程度書店に置かれると版元に送り返される。新本が多すぎて、僅か一日しか棚に並ばない本もあるとか。版元、つまり出版社の倉庫は返本で溢れ、大半は再販される事も無く、ダンボールへと姿を変える。愚か者の極み、間抜け集団共倒れ、といった感じか。
 その物量は、編集者に内容が良いか悪いかなどの判断を不可能にさせた。それが可能なのは、当然その数で溺れる読者ではなく、唯一、作者当人だけであろう。高名な作家や売り出し直後の新人には、量産を強いられる周囲の状況などにより恐らく不可能で、地上に残された最後の希望は、そう、飛び立つ直前の素人だけである。

 経済理論や流行、第三者の好みや出版社の傾向に縛られる事無く、自由気まま好き放題やりたい放題の素人だけなのだ。

 さて、結論を。真面目に取り組んでいる方への妨害になるので、書く事そのものを楽しんでいるような暇人、裏コード作家諸氏はコミケにでも列席して、決して文壇や高名な小説公開サイトには近付かないで欲しい。素人とは思えないほどの素晴らしい作品の多くは、それ以外の下らない文字列や自慰行為独白日記に埋もれ、それを求める私のような読者に届き難くなってしまっている。圧倒的物量を誇る雑音、チャフ、妨害電波、自分がそうだと気付いたのなら、人間として誇り高き言動を実践することをお勧めする。何事も引き際が肝心、非を認めて立ち去ることは、恥を晒して生き延びるよりは余程健康的である。


付記 裏コード作家の読解力

 裏コード・ファンタジーは、それを産み出す者とそれを欲するものが同一人物の自己完結作品、自慰行為である。自らで書き自らで読む、閉鎖文学である。裏コード作家が時として「他者」の物語に対して発言する機会がある。一般に「感想」と呼ばれる社交辞令を、その作者に送り付けるのだ。まるでダイレクトメールのように。さて、感想とは何なのか、いかにあるべきか……。

 ある事象に接する時、人にはそれに対する認識の術が多数存在し得る。初対面の者と出会い言葉を交す。そこから読み取り、感じ取れる情報の源は文字通り千差万別であろう。身体的特徴、仕種、音色、語調など。ある食物を口にする。香り、歯ごたえ、温度、味、そして栄養。それぞれが更に細分化し項目は無数となる。
 二人が何事かに対して議論しているとする。例えば政治、経済、環境、社会、理想。前提として、彼或いは彼女達は自身の議題に対する考えを、他方に伝えなくてはならない。場合によっては他方の考えを自分の側に塗り替える必要すらある。会話とは本来そうする為の手段であるのだが、ここで強く再認しておくことにする。

「脳死患者からの臓器移植の是非」
 彼女に対し彼は言葉を連ねてゆく。
「倫理的側面がとりざたされているけど、そんなものは宗教的束縛を抗えない旧時代の石頭の理屈だよ。我々人間は永遠に神秘たれ、ってなもんさ。自分がレシピエントだったら、とまでは云わないけど、親族が、或いは知人がそうならどうするつもりなんだろう。友達が体中に機械を埋め込まれて病室に監禁されている、僕なら耐えられないね。ドナーなんて呼ばれててもさ、結局は死体じゃあないか。死体は語らないし痛がらない。単なる肉さ。それを拝借することへの躊躇なんて、僕に云わせりゃたちの悪い冗談だね。僕なら? やめてくれよ。死んでからのことなんて外野が勝手にすれば良い。それに対して僕はイエスともノーとも云えないし、どっちだって死んだ僕には関係のないことさ、違うかい?」
 その様子を見、声を聞いた彼女は思ったこと、感じたことを口にした。
「あなたって臓器移植に対して非常に関心があるのね。こんなにも楽しそうに語る人を久しぶりに見たわ。それに奇麗な声ね、歌わせたら聞き惚れるに違いないわね。今度、どお? でも、あなたは何故いちいち大袈裟な手振りを加えるのかしら。それってお世辞にも知的とは云えないから、よした方が良いと思うわ。そう、知的といえば、あなたの会話は文脈の組み立てがとても丁寧で聞き易いのよ、気付いてた? 確か……文系、だったわよね? 私は駄目。もう、てんでバラバラ。理系だから、じゃあないわね。きっと遺伝よ。父親も母親も喋るのが苦手でね、あの人達はそれで苦労したらしいわ。やだな、私もきっと凄く損してるに違いないわね。ねえ、どう思う?」
 脳死、それが脳と呼ばれる臓器がその機能に障害を来す、と云うことであれば、彼には、彼女は脳死状態に見えたに違いない。

 修練を重ねたシェフがその腕前により、彩り豊かな伝統的ディナーを客に振る舞う。眼前に置かれた軟らかなカモ肉のステーキを見たその客は云う。
「火を通すと栄養となる成分が破壊されるんだ。食物の摂取方法としてはありのままを齧る方が賢いと云える、人間としてね」
 そして、その思慮深い客はその店から叩き出される。
 食材は産地でそのままを口にするべきである。新鮮さは即ち安全さであり、また自然な姿こそ栄養的に最も充足しているであろう。それを刻み、焼き、蒸し、燻し、破壊する行為はナンセンスの極みである。確かに、彼は正しい。
 だが、彼は云われるに違いない。食をそのように捉えるのなら伝統的ディナーなどという彼にとっての愚行を執り行う店になどに出向かなければ良い、と。

 ある事象に対する認識の正当性を判断することは不可能であり、また判断しようとする行為自体が愚かとも云える。誰もが正しく、そして誤っている。しかし、である。
 媒体を限らず、他者の発言に対し賛同・否定・激励・批評・批判、あらゆる反応をする、自身の発言に対する反応を受け取る、頻度は少ないがそんな経験がある。放たれた意思は源を離れたその瞬間から受け手のものとなる、そんな摂理が存在する、らしい。はたして、そうであろうか……。

 世に蔓延る無数の不条理。欺瞞、嫉妬、搾取、傲慢、憎悪……。人として、それらを打破すべく様々な手段を模索する男。巡りめぐって、彼はその実行手段として執筆を選ぶ。表現することにより世に訴え、現実を変えようとしたのである。そして彼の文章の読者から、長年に渡り待ちわびた感想が遂に届けられた。

「とても楽しく読ませて頂きました。次回作にも期待しています。これからも頑張って下さい」


付記2 「ファンタジー」という呼称について(2000/11/08)

 本文では「裏コード・ファンタジー」と記してきたが、幾つかの文献を読むうち、「ファンタジー」という単語を当てはめることに相当な躊躇が生まれた。妥当かどうかはさて置き、発生の経緯などを考えると、例えば「RPG」と称して「ファンタジー」とは明確に分けるのが相応に思える。
「RP」は適当に考えてもらい、最後の「G」を「ゲーム」の略だと認識していただければ、仮ながらこの呼称に、たいていの方は納得するのではないだろうか。
「ファンタジー」に関する研究は様々な著名な方が根強く、熱心に行っており、それらが『指輪物語』『ゲド戦記』などを題材にしていることを踏まえると、尚更である。それら作品が良いか悪いかではなく、「ファンタジー」というものは元来、そして当然現在でも「そういうもの」であるということを、著者は知らずとも読者は知っており、そこに奇妙なギャップが生じているのが現在の状況でもある。

 閉鎖された文学、それは既に文学とは呼べず、最悪、小説とすら呼べないことを知っておく必要がある。これは執筆・文学に関する知識などではなく、もはや「マナー」に属するのではないだろうか。
おわり