1999/09/07
『まだ見ぬ記憶』
{まだみぬ きおく}
幼い頃の記憶というものは淡い陽炎{かげろう}のようなもので、そこに何かがあることは解るのだが、余りに朧{おぼろ}なのでそれが何なのかすら判別できない。確かめようと近寄ったところで距離は一向に縮まらず、かといって目をこらしても像がくっきりと浮かび上がるでもない。気ままに現れては消える。後に残るのはいつも、網膜の裏の残像だけである。
一ヶ月余り続いていた激務は、プロジェクトの完了と共に私を含むプロジェクトチームを漸く解放してくれた。それまで余りにめまぐるしく、私が仕事をしているのか、仕事が私をしているのかすら区別がつかない毎日だったが、それもどうやら無事に終わったらしい。皆、安堵する前にすっかり放心していたが、ともかくこれで暫くはのんびりできそうだった。その日は流石に誰も呑みに行こうなどとは云わず、一人、また一人と重い足を引きずって帰路に就いた。帰宅ラッシュを懐かしみながら電車を乗り継ぎ、手近のスーパーで食事を調達、それでも住いである鉄骨の安アパートに辿り着いたのは午後八時を僅かに過ぎた程度だった。
食事を終え興味も無いテレビを冷やかしていると、雨が降り出した。空模様の動向など、曜日感覚の消失の遥か以前に解らなくなっていたから、雨だと意識したことに我ながら驚いた。テレビドラマは途中からではさっぱり意味が分からず、仕方なく報道番組へとチャンネルを変えてみたがどうにも気が乗らず、とうとうスイッチを切ってベッドに飛び込んだ。仕事ばかりしていたせいで自由な時間の使い方をすっかり忘れてしまったようだ。眠るにはまだ早く、何より蓄積した疲労がそれを許してくれなかったので、暫く木目天井を眺めて時間を潰した。
どのような複雑な経緯があったのか、私はいつの間にか昔のことを思い描いていた。遥か昔、小学生、いや幼稚園だか保育園、もっと前のことを。或いは天井の様子がその頃の住いのものと似ていたのかもしれないし、疲労の程度がそうだったのかもしれない。
子供の自分には随分と広く感じられる和室に、私は仰向けに寝転んでいた。深めの軒を超え強い日差しが畳に僅かに掛かり、半袖半ズボンの私は足の先だけを日だまりに預けている。夏の真昼、じーじーという蝉の鳴き声が響き渡っている。眠っている訳ではなく、単に寝転んでいるだけだった。両親とも働きに出ていて家には誰もいない。
垣根の向こうから私を呼ぶ声が聞こえる。低めの、男の声だ。私は弾けるように体を起こし、つっかけに足を突っ込んで狭い庭に躍り出た。やあ、だか、よお、だかとその男は再び声を掛け、私は垣根の前でぴょんぴょんと跳ねるが、背丈が足りずいらいらする。私は和室に取って返し狭い廊下を駆け抜け半ば体当たりするように玄関を飛び出た。垣根の傍の男が見えた。父親と同じくらいの上背のその男を私は良く知っていた。
私とその男はいつものように近所の公園に赴き、上手い具合に陰になったベンチに並んで腰掛ける。私は男の買ってくれた冷たいジュースをしっかりと握り締めていた。私がジュースを二口ほど飲んだのを見計らって、その男は不思議な話を語り始める……いつものように。
一段と激しくなった雨音が私を狭い部屋に引き戻した。風があるのか、小さな窓に大粒の雨がぶつかっている。幼少の頃のその記憶を思い出すのは、その時が始めてではなかった。考えてみると私は、その光景を数年に一度くらいは思い起こしていた。幼い私はその男と連れ立って公園を訪れる。男はジュースやアイスクリームを私に与え、そして不思議な、或いは奇妙な話を始めるのだ。
記憶のメカニズムが果たしてどのようになっているのか私は詳しくなかったが、それにしてもその幼い頃の一場面は不思議だった。その光景は思い返すたび、月日を追う毎に細部が浮き上がり、鮮明さが増していったのだ。そんな気がするだけだろうか。いや、違う。その男が語ってくれた話を当初全く思い出せなかった。単にその光景が浮かぶだけだった。しかし最近、それに先程もそうだが、私は男の話を断片的ながら反芻することが出来るようになっていた。残念ながらその男がどこの誰だったのかは、今に至るまでハッキリしない。ただ、当時の私はその男を良く知っていて、そしてなついていたらしい。
男の話は常に漫画で出てくるような未来世界の話だった。両親が漫画本を買ってくれなかったので、私はいつもその話に夢中になっていた。先程思い描いた時、その男はとても速く走る電車について詳しく、面白おかしく語っていた。その前は確か工場で牛や豚を誕生させ、いつでも美味しい肉を口に出来る時代のことを。医療技術により病気は脅威ではなくなる時代のことを。
湿った布団で寝返りを打った私はその陳腐さに思わず吹き出してしまった。そのどれもこれも現在ではごく当たり前のものとして社会に定着している技術ではないか。当時の私が心踊ったにしても、もっと突飛で夢に満ちた話をしてくれれば良いものを、とは手前勝手だろうか。恐らく近所で暇を持て余していた大人が暇つぶしか、或いはそのまま親切で私を楽しませてくれていたのだろうが、あっという間に現実に追いつかれる程度の空想とは、いかにも貧しいものだ。それでも、と私は思う。のんびりとして優しさとけだるさに満ちた良い時代だったではないか。
ひとときの時間旅行を堪能した私は、ベッドの端に腰掛け布団と同じく湿った煙草を咥え、紙マッチをぱちんと鳴らして火を付けた。煙草の本数は仕事とともに劇的に増加し、今では私も立派なヘヴィスモーカーの仲間入りを果たしてしまった。吸い過ぎに注意しましょう、とケースの脇に書かれてある。大した冗談だと私は思った。
と、又もや私の脳裏に過去が湧いてきた。場面は同じくぎらつく日差しの眩しい公園のベンチ。傍らに腰掛ける男が煙草を吹かし、こう云っていた。
「体に悪いから、大人になった時、煙草を吸い過ぎるなよ」と。
今度は大声で笑ってしまった。何て親切な奴だったのだ。まだ小学校にも上がっていない、それくらい幼い私にどうしてそれが理解できよう。ともかく、何気ない雑談か独り言だったのだろうが、私はその男の忠告に笑いを堪えながらも感謝し、深々と煙を吸い込んだ。窓の外はとうとう嵐の様相を呈していた。台風でもなかろうが、しかし凄い音だ。アパートの前面道路に居並ぶ並木がざわざわと不気味な音を立てている。こんなオンボロアパートだ、三匹の子豚よろしく吹き飛ばされても不思議ではない。
ようやく眠気が訪れたので私は着たままだった皺だらけのワイシャツを放り投げ、汗をたっぷり拭くんだパジャマに着替えると、洗面に立った。明日はチーフの計らいで時差出勤になっている。週末には有給休暇を組み込んだちょっとした連休である。我ながら良く頑張った、これくらいの褒美ならバチは当たらないだろう。恋人とはもう随分長いこと電話だけだったから、そろそろ埋め合わせをしてあげなければならない。明日にでも連絡して旅行にでも誘おうか。歯を磨きながら私は、そう切り出した時恋人がどんなに喜ぶかを想像して、一人にやついた。
照明を消し、ひしゃげた布団を頭から被る。外は相変わらずだった。先程感じた眠気はしかしなかなか睡眠を誘わず、真っ暗な部屋でごうごうという風の音を聞きながら私は暫くじっとしていた。そして、またあの光景。じーじーと蝉の鳴き声が響き、私はアイスクリームを不器用に舐めながら男の話に胸を躍らせている。ふっと意識が薄れ、私は眠った。
夢の情景は幼い頃の記憶、あの男の話に耳を傾ける自分の様子だった。夢中になる余り溶けたアイスクリームが膝にぽたぽたと落ちてくる。
「君にも恋人が出来るんだよ」優しい口調で男は云った。「可愛らしくて、何よりとっても良い人さ。大切にしてあげるんだ」恋人と友達の区別すらつかない私はそれでも、うんうんと頷き、男の顔を見上げる。
「ある日の夜……」ちらりと私を見て、男は狭い公園の上に浮かぶ雲を仰いだ。
「君がとってもくたびれて家に帰ると、外は凄い大雨になるんだ。そう、とっても凄い雨。君は小さなアパートに住んでいるんだけど、その日の大雨はそんなアパートなんてあっという間に飲み込んでしまうくらい、それくらい凄い雨だった」
どうやら今回は恐い話らしく、幼い私は体を強張らせた。アイスクリームのことは忘れても、耳を研ぎ澄ますことは忘れない。
「くたびれていたからね、辺りで凄い音がしたことに全然気付かなかったんだ。裏手にある山から大きな岩がごろごろと転がってきて――」拳骨を岩に見立てくるくると回す。「――ぐしゃっ! アパートごとぺしゃんこで、痛がる暇もない。知らせを聞いてやって来た可愛い恋人がね、悲しくて悲しくてわーわーと泣き続けるんだ」表現が簡潔な分、逆にリアリティを感じた。幼い私は今にも泣きそうな表情で男を見る。その顔が「どうしたらいいの?」と必死で訴えている。空を見上げていた男は私の頭を軽く撫でると優しく微笑んだ。
「いいかい、他の話は忘れてもいい。でも、これだけは決して忘れないで欲しい。君の為にも、そしてその可愛らしい恋人の為にも」私はじっと男の目を見詰める。最後に男は「忘れなければどうにかなる、頼んだよ」と云った。
眠りが浅かったのか、私は真っ暗な部屋で再び目醒め、そして異様な地響きを耳にしたのだった。夢の続きかと思ったが、しかし私の体は意思に反して布団から飛び起き、駆け出していた。何をするつもりなのか自分でもさっぱり解らず、しかし両足の筋肉に緊張がみなぎっている。薄っぺらな扉を半ば蹴破る様にして外廊下に転がり出た私は、一瞬の躊躇も無く鉄骨階段を駆け降りた。全身を激しい雨が容赦無く叩き付ける。裸足に雨によってぬかるんだアパート前の地面の感触が伝わる。小さな門をくぐると側溝から溢れた雨水が道路を完全に覆っていた。川の如き道路をばしゃばしゃと蹴り上げ私は数メートルを全力疾走した。
直後、背後で落雷のような音がして地面が揺れた。足元をすくわれた私はくるぶしまである雨水に腰を落とし、振り返った。そこに私のアパートはなかった。差し渡しで二十メートルはある巨大な岩の塊が、私がつい先程まで寝ていたアパートを完全に潰していたのだった。目を開けるのも困難なほどの雨の中、私はその異様な光景を呆然と眺めた。
一時間もしないうちに、辺りは警察と報道と野次馬で溢れかえった。毛布に包まれ救急車に運び込まれた私の傍には恋人がいた。冷え切った私の腕を小さな手でしっかりと握っている
「ねえ、週末に旅行にでも誘いたいんだけど、都合つくかい?」場違いな私の口振りに彼女はどぎまぎしていた。私は構わずに続けた。
「ほら、今月はとうとう一度も出掛けなかっただろ。埋め合わせをしなきゃあと思ってね。どうだろう?」泣きはらした瞳を何度かまたたかせ、彼女はうんうんと頷いた。
「その旅行がきっかけで僕達は……結婚するんだって、そう教えてくれたんだ……」独り言のように私は云った。
「……教えてくれたんだ、僕自身が」
おわり