『チグリスとユーフラテス』新井素子/集英社(1999)
1999.03.28読了・記

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 はっきり言って、辛かった。文体云々ではなくて、この本そのものが……。これ、新井素子ファン以外にリーダビリティがあるのでしょうか? 私にはかなり疑問です。新井素子ファンの方には楽しいのかもしれませんが、新井素子ファンではない私には非常に辛かった。「気色悪い」というのが、この本に対する私の感想です。私は小説が読みたかったんだ、新井素子が読みたかったわけではないんだな、ということになってしまいます。私の期待が的外れだったのでしょう(^^;。

 ここで私の新井素子歴。

 小学校5年生(昭和60年頃)の時に初めて手に取った文庫本が、従姉からもらった氷室冴子『シンデレラ・ミステリー』と新井素子『いつか猫になる日まで』(共に集英社コバルト文庫)で、以来小学校を卒業するまでに、新井素子の小説はコバルト文庫から出ているものは『星へ行く船』シリーズ以来は殆ど読みました。でも、大和真也を読んでからはそちらの方に乗換えてしまい、その後はほとんど新井素子は読みませんでした。

 中学に入ってから突発的に図書館で読んだ時期もありました。『二分割幽霊綺譚』『グリーン・レクイエム』『絶句』『ひとめあなたに……』などのソフトカバー(多分)を中心に。でもそれ以上積極的に読みたいという気持ちは生まれませんでした。その頃塾で同じだった友達と、なんとなく新井素子の話になったのですが(確か、『グリーン・レクイエム』とかの話)、「新井素子って、なんだかグロテスクだよね」という風にまとまったことが印象に残っています。

 『チグリスとユーフラテス』は以上のような新井素子歴の私にとって、多分ほぼ10年ぶりの新井素子でした。でも、「なんだかグロテスク」という10年前の再確認をしただけのような気がします。

 以上前置き(長くてすみません)。

以下ネタバレで感想に入りますm(__)m。。


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 文章云々はとりあえず置いておきます。さすがに新井素子はそういうもんだ、とわかって読みはじめたので。ですから、とにかく言いたいことはただ一つ、著者が地の文に登場しすぎということです。多分その一言で私の「気色悪さ」のほとんどの説明がついてしまいます。お話が著者にべったりで、著者がお話にべったりなのかもしれませんが、お話としての膨らみが全く感じられませんでした。

 とにかく地の文でなされる過剰な説明に辟易しました。何でも全部地の文で説明してしまうんですよね。その地の文自体も一体どの視点にあるのかが曖昧で、ダイアナの視点であったり、ルナの視点であったり、ついていけない。それも、ルナやその外の登場人物の主観で語られているのであればまだしも、突然地の文が嗤うのには、もうどうにかしてくれ!と思ってしまいました。神の視点ですらない。著者が突然地の文で喋りはじめてしまっている。それも、非常に著者の主観的な視点と言葉で書かれてしまっているような気がしました。「著者」という人格の解釈が直接書かれている。

 例えば、「と、まあ、このダイアナの台詞で判ってしまう。ダイアナ、実は、自分達のことしか考えていないのだ」(p181)、この「判ってしまう」というのは誰が「判ってしまう」のでしょうか? この台詞の後、ダイアナが自分たちのことしか考えていない、ということの説明が下段1ページに渡って続くのですが、ここで私はかなり気色悪さを感じて、悩んでしまいました。ダイアナ自身が、この台詞を口にしたことで「判ってしま」ったこと、と取れなくもないでしょうが(再読してそうかなあと初めて思った。でも「蝶のように〜」のくだりを読むと、やっぱりダイアナではない気がする)、私にはどうしても、著者が読者に対して、「ダイアナは以下のような考えを抱いているから、この台詞を口にしたのである。この一言で読者である皆様にはダイアナが以下のような考えであるということが"判ってしまう"筈である」と説明しているとしか読めませんでした。

 これは単に私の好みなのかもしれませんが、著者がそんなに説明するなんていうのは余計であると思います。台詞によって発言者がどのような考えを持っているのかを読者に判らせる、というのは、読者に「解釈させる」ように導くというのが普通ではないかと。「実は〜」とくりかえされる、この懇切丁寧な説明文は、なんだか設定を垂れ流しにされるようで、非常にこなれていないという印象を受けました。

 また、どうしても気になったのが、突然納得したり、判ってしまう登場人物たち。

 ある時、突然ルナは判ったのだ。
『そうか、トモミ姉さま、ルナちゃんを殺すつもりなんだ。そのきっかけが、絵なんだ〜』

 これ、どうして判ったんでしょう?(^^; 私には全然判りません。この辺り、どうか頼むから、せめて説得力のある描写をしてくれ(;_;)。他にも「反論の余地もない」などと地の文で書かれているのに、「いや、私はそうは思わん」と私が思うところもままあり……(--;。

 構想から設定を作って、それを膨らませて物語になる、と私は思っているのですが、その「膨らませて」という所が欠如しているような気がします。著者が設定をそのまま並べただけで、物語にはなっていないというような気が。膨らまされていないので、その設定は本になった今でも著者にべったりとくっついていて、読者に解釈の余地を与えていないような気がします。その前に全部説明してしまうもんなあ。

 著者が著者の人格を持ったまま物語に割り込んできてしまっているので、物語で引き合いに出される例がことごとく「著者」から離れていない物であるということも気になりました。「地球」「日本」の「文化」が引き合いに出されると、強く違和感を感じます。引き合いに出される「文化」が、戦後のたかだかここ数十年の価値観に基づいているものであるというのが非常に気色悪い。縄文時代だとか弥生時代があって、朝廷があって、幕府があって、近代、現代があって、その後にも西暦から宇宙暦に変わり(その間にも何かあったのかもしれないが)、国家という概念が無くなって「日本」が一地方にすぎないものになって、宇宙開発があって、移民が行なわれる、という具体的にどのくらいのスパンなのかは判りませんが、その長い歴史があるはずなのに、引き合いに出されるのがなぜかことごとく「現代」のことというのが、なんだか非常に偏狭であるように感じました。その方が書きやすいだろうし、分かりやすいんだろうけど、その間に価値観の変貌がなかったというのは、ちょっと……。今の価値観がそれ以降の「日本」の価値観の基礎になってしまっていると言われても、違和感があります。

 さらに登場人物が皆同じようにしか思えないというのも気になりました。それも同じような喋りかたで、同じような事柄を、同じようなアプローチで、同じような結論を得る。最初は禅問答小説なのかと思ったのだが、どうしても自問自答としか思えない。説得力に欠ける言い合いが延々と続くのにも辟易。著者が登場人物を一個の人格として育てていない(育てかたが足りない?)ために、著者が思った通りの考え方をする(著者が構想する物語に都合のいいような考え方をする)、著者べったりの分身でしかないような気がします。また、残念ながら、誰一人として私が共感を得られた登場人物はいませんでした。うーん、なんだか……。フェミニズム、とも違うこの「女女」しさ(めめしさ、ではなく)、何なんだろう? マリアであんな風に始まって、レイディ・アカリでこんな風だもんなあ。

 あとがきにある、「私の頭の中をぱあっとその星の歴史がスクロールしてゆきます。この星は移民惑星であること、最初の移民達の苦労や悩み、それぞれの時代毎にできてくる特権階級とこの星の政治的な変遷、やがて自然不妊により滅亡の道を辿ってゆくその星の人類……」というのは、ものすごく好みなんですが(泣いたし。ラストと「マリア・D」のラスト)、残念ながら、読後全然スクロールしませんでした。上にあげられた要素はあらかた各章で書かれているのですが、それが個々に「星の歴史」につながるような広がりを見せてはくれませんでした。

 ああ、でもとにかく「新井素子」でした。これは本当に新井素子にしか書けないものだと思います。でもその「新井素子」って私の好みじゃなんだ〜と再認識(--;。うーん。

 なら読むな、って感じですな(;_;)。いやもう、本当に。


 
 
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