『青猫屋』城戸光子/新潮社(1996)
1998.3.27読了
1998.3.28記


 舞台は過去とも未来ともつかない時代。ここともどこともつかないどこか。要するに純然たるファンタジーの世界。世界に関する説明はほとんどない。ぽん、と読者は異世界に放り出される。<歌ぶり>の町へと。それを違和感なく「異世界」として受入れさせているのは、物語の中心となる<歌ぶり>の存在だ。歌というからには当然「音」を伴っているはずなのだが、これは小説、当然音は直接読者の耳に伝わってくることはない。与えられるのは純粋に無音の文字のみだ。だが、この小説に登場する<歌ぶり>の一つ一つの持つ味わいや雰囲気は、実際に音が聞こえなくても、それ以上のものを読者に伝えてくれる。耳には聞こえないが、心に伝わってくる音。その齟齬が居心地のいいこの異世界を、はっきりと存在感のあるものとして認識させてくれる。

 物語は穏やかにコミカルに進行する。でも、そこはかとなく悲しみが漂う。川で拾った捨てられた歌を、ただ一つだけ続ける浮島渡しの猿丸。老境に入って初めて夫の美しさを見出したツバ老の妻。贋稲荷に住み着く山口とお時ばあさんの奇妙な関係。山羊ではない自称ヤギの孤独。父から継いだ写真館を潰してしまい、ただ甘いものづくりに専念するハイウェイのレストランのコック。その甘いものをひたすら食べ続ける女子中学生と、ちぐはぐな麺類を注文し続けるトラックの運転手。そして「青猫屋」にとって不要な少年・頓痴気と「青猫屋」の廉二郎、亡くなった三代目の父。それら全てに通じるのは、かすかな虚しさと、悲しみだ。

 やがて、名曲<ムサ小間>に続きがあったことが判明し、<ムサ小間>の「秘密」が歌の教師朝比奈夫妻によって解かれる。長い長いこの部分は、歌に意味を求めることの無意味さだけを繰り返し語っているのだろうか?

 そして、唐突に訪れる終局。これは、一体・・・。歌の魔力と言うには、あまりに残酷な、これは。

 再読再読っと。とにかく。お勧めです(--)b。


ざぼんの実