『スキップ』北村薫/新潮社
971121読了
980304改

 『スキップ』に関して、言いたいことの肝は、行間と欠落愛していると言ってくれに集約されています。
 まず、これらをお読み下さい。

 


 なんだ、『スキップ』って、*やおい*だったんだ。
 というわけで、3ヶ月間ずっと悩んでいた『スキップ』問題に、ようやく解答を得るに至りました。色々とご意見くださった方々には、感謝の言葉もありません(;_;)。これでやっと、私は、『スキップ』を異次元の彼方にふっとばすことができます(;_;)ノ。

 というわけで、解決篇です。が、一足飛びに解答に飛ぶ前に、3ヶ月間の誤読の泥沼、その軌跡をご覧くださいm(__)m。


というわけで・・・・ 警告:ネタバレです。
『スキップ』について悪く言われたくない方は見ない方がいいかもよん(*'▽'*)。


【読後第一印象】
 私が初めて読んだ北村薫作品です。発売された当時「絶賛」されていたということで、ヒネクレ者の私は敬遠していたのですが、風評やMLなどであまりに評価が分かれていたので、どんなもんなんやろ('-')?と思い、手に取りました。

 感想は「私には合わない」の一言に尽きますm(__)m。良い、悪い、というのは別にして。

  17歳の女の子がある日突然25年の時を飛び越えておばさんになってしまう、というシュチュエーションが骨子だと思うのだが、展開が信じられないくらい安易に感じられた。

 まず主人公にとにかく・・・そんなんでいいの、本当に(^^;?というぐらい、葛藤がない。

 昨日まで17歳の高校2年生だったはずなのに、いつのまにか結婚していて、知らないうちに旦那がいて、産んだ覚えもないのに娘がいる、というのは無茶苦茶ハードだと思うのだが・・・(--;。そんなに簡単に状況を受け入れちゃっていいの?(--; 旦那が「僕も結婚する前の君を知っているから」などということを言うのだが、・・・これ、ものすごくおぞましくないですか?(^^; 旦那がこの台詞を口にするのは分かるのだが(彼は記憶喪失の妻、という認識なのだから)、言われた方は気持ち悪いぞ。

 で、ちょうど971122読売新聞朝刊で、柴門ふみがエッセーで「高校1年生の自分に良く似た娘と一緒に歩くと、自分が引き立て役になったみたいで」ということを書いていた。・・・順当に時を経た人ですら、やっぱりこういうことを考えるのに、真理子さんったら・・・(--;。

 そして「あのお方」の仕事を継承すべく、教壇に立つ真理子さん。高校2年生だった真理子さんが、自分よりも年上(高校3年生)の前に、彼らよりも遥かに年上の姿で立つ、というのもかなりきついシュチュエーション。・・・なのに、こなしてしまうんですよねぇ(^^;。どうして?(--; 「記憶がない」上に「おばさんの姿」で、さらに「年上の生徒達」に「経験もないのに授業」をしなければならない、という地獄のような状況なのに、結構しっかり「教師」していたりして。ただでさえ自信(自身?)を喪失している上に、自分が持っている以上の能力を期待されているような状況なのにもかかわらず。旦那には脅迫電話がかかってきたりしているのに、真理子さんは適性だけでこんなに「良い先生」が出来るのでしょうか?・・・信じられないな(--;。

 恐らく北村薫は重いお話にしたくはなかったのでしょう。でも私はこのシュチュエーションでここまで軽いというのは不自然だと感じました。というか、ここで重くしないでこのお話の何を書こうというんだ?(^^;と思わざるを得ません。

 次に学校のこと。著者本人が教師なんですよね、これ(^^;。どうも根深い教師不信が災いしてか、ここに書かれている学校の様子、授業の様子が嘘臭く読めて仕方がない。これは私自身の「学校」「教師」「生徒」に対するイメージが歪んでいるからなのでしょうが、でも、「熱心で好かれる先生」「一心に授業に聞き入る生徒」というのが「理想の教師」「理想の生徒像」という感じで、私のようにほとんど「良い先生」に会ったこともなく、私自身「良い生徒」でなかった者には、寒々しい風景に映りました。教師の家の本棚を見たら灰谷健次郎が揃っていた、というような時に感じる気味悪さです(これを気味が悪いと思うかどうかが問題なのでしょうが)。要するに、どうにも私には「合わない」のです。

 ところでラスト近くで真理子先生に告白する生徒新田くんについては、私は特に違和感を感じませんでした。「真理子さん」と「学校」への違和感があまりに大きすぎて、気持が物語から離れていたという事もあると思いますが、むしろそれに対する真理子さんの反応が・・・(--;。だって、一度も恋をしたことのない17歳の女の子なんだよね、一応。見かけはどうあれ。そこで説教たれないでよ、とため息をついてしまいました。

 全体的にいかにも嘘臭く、どうにも感情移入できない小説でした。何が書きたかったんでしょう、この人(;_;)。まじめに分かりません。教えてください(;_;)ノ。


【おぞましいと感じたこと】
 私は自分が「女性」である、ということにこだわりを持って読書するようなことはありませんし、小説の中で女性蔑視、セクハラという物に関して不快に感じるとうような経験はありませんでした。が、「スキップ」で初めて、自分が女性であるから感じるおぞましさのようなものを感じてしまったわけです。

 私が感じた「*おぞましさ*」を説明するのに、この時の真理子さんの心理状況を2重人格に置き換えると理解してもらい易いかと思います。

 主人公たる「真理子さん」は「17歳の時から眠っていて、25年後に目覚めた」人格であると言えます。「真理子さん」には、自分の人格が眠っている間に、「あのお方」が勝手に「真理子さん」の身体で25年間生活していたと解釈できるわけです。

#「真理子さん」が、自分の置かれた状況を「25年間をスキップしてしまった」と解釈しても、「25年間別の人格に支配されていた」と解釈してみても、「空白の25年間」を「自分」が知らないという説明にはなる。北村薫が「時と人」というテーマを先に設定していなければ、2重人格物になっても不思議がなかったと思いますが・・・:-)。とても「時と人」というテーマが生きているとは思えないし。ただ、二重人格説を採ってしまうと、どう考えても、より長い時間を連続して生きてきたであろう「あのお方」の方が「ホンモノ」になってしまい、17歳だった私は「ニセモノ」になってしまう。

 で、その間に別の人格が、「真理子さん」の身体で、「真理子さん」には何の覚えもないのに、勝手に全然知らない人(当時はどうあれ、今はどう見てもおじさん)と子供ができるようなことをして、しかも勝手に出産までして、その「知りもしない愛の結晶」の証拠たる娘がそこに存在し、自分には全然記憶にない「愛」のお相手もそこにいるという状況。

 こういうシチュエーションは多くの2重人格物で扱われていると思いますが、・・・逃げ出さない方が変ですよ(--;。ここで私は非常に不自然だと感じたわけです。
#それとも、これも「楽観的に考えれば」許せる状況なのでしょうか?

 そして本当におぞましいと感じたのは、その「逃げ出さない真理子さん」が不自然であるということに、作者である北村薫は気付いていそうにないということですね。この部分(p106)で「真理子さん」は多少戸惑うだけで、それ以上考えない。「多少」戸惑った様子がある、ということは、17歳だった「真理子さん」に突然訪れた境遇については、北村薫は気がついていると推測できます。が、北村薫はこれを、その「多少の戸惑い」ですませる程度の境遇でしかないと判断したということですよね?

 ここがまず私には受け入れがたいくらい「無神経」な展開でした。だって、17歳の女の子ですよ、この子。この時点で*既に*北村薫は主人公の精神年齢を忘れてしまっていたのではないかと思うほど、これは「変」ですよ。

 さらにさらに違和感を感じたのは、この北村薫を差して、かつて「男か女か」という論争が存在したということです。このシュチュエーションの不自然さに気付かずに書き飛ばしてしまうような女性の作家、というのは非常に考えにくいと思うのですが。また、書評などを見ても「キャラクターの心理描写が巧み」などと絶賛されていたりする。そういう人はこの部分は気にならなかったということなのでしょうか? そこら辺にも疑問を抱いてしまうわけです。

 私は「スキップ」という小説のこの部分にだけ違和感を感じているわけではありません。単にこれは最初の大きな躓き石でしかありませんでした。

 以降の展開にも付いていけない・・・(--;。


【ハッピーエンド?】
 私は『スキップ』全般を通して、あのお方の影を見ることはありませんでした。というのも、真理子さんに対して周りの人、学校関係者は誰も違和感を感じていませんよね?(^^; 知っているべきことを知らないな、などという描写はありましたが、「なんか先生、別人みたい」という描写は皆無だった。桜木真理子の異常を知らない家族以外の人たちこそ、自然に真理子さんとあのお方の差異を見つけるべきなのに。ああ、あのお方のこの世界における存在なんて、その程度だったのね(泣)。誰もその喪失について、気付かない。悲しまない。悼むこともない。取り戻そうともしない。虚しいなぁ。最初から、お話の中では「真理子さん=あのお方」で等価で結ばれてしまっている状態なのです。作者にあのお方の影を読者に対して見せる意図があったとするならば、真理子さんとあのお方の存在に明確な"ずれ"をほのめかすべきだったと思います。だって、作者の意図では単なる記憶のない同一人物ではなく、全くの別人の魂を持っているはずなんだから、真理子さんは。「知っているべきことを知らない」では、単なる健忘症の描写と変わらない。これは、先の異邦人としての目と対になるのですが、明確に真理子さんが*世界にとって*異物であるという描写にも欠けていた、ということです。

 真理子さんは世界を当然のものとして見、世界は真理子さんを当然のものと して受け入れています。そんな状態でずれが生じるでしょうか。  真理子さんに完璧に上に載られる形で打ち消されてしまったあのお方の存在 が、哀れでなりません。同時にあのお方と無理矢理重ねられる形で死んでしま った真理子さんの心も、虚しいなあ。  一応このお話は「ハッピーエンド」ということらしいですが、それは17歳の「真理子さん」が主人公で、1人称で語っているお話だからなんですよね。読者側には無条件で主人公が「ホンモノ」として捉えられているので、その「ホンモノ」の気持が落ち着いて「ハッピーエンド(^^)」になって話は終わる。

 でも、娘や旦那がどう思っているのか、ということについて私はよくわからない。娘も旦那も一見すれば17歳の「真理子さん」を受け入れているようですが、そこにいたる過程が・・・。42歳の「あのお方」と「真理子さん」がどう違うのか、どちらの状態が自分たちにとって「普通」で「自然」なのか、そういうことを家族は考えないんですよね(主人公の精神状態を気遣って、主人公の見えないところで悩んでいた?(^^; でも、そいういうことをほとんど書かずにすっ飛ばすってのもよく分からん)。考えてしまえば「あのお方」の方が「当たり前」なのは一目瞭然。そんな状態から「真理子さん」を「母」「妻」として受け入れられるようになるには、かなりの葛藤を要すると思うのですが、いとも簡単に「真理子さん」を受容してしまう。なぜでしょう? 単に仕方がない、そこにいるのは「真理子さん」なんだから、というだけなんでしょうか? どっちの方が「イイ」「ワルイ」という比較の問題でもないと思いますし。うーん、後ろ向きというか消極的というか(^^;。「あのお方」の存在が可哀相になってしまう(;_;)。

 ラストの「お母さん」についても、これは娘の側の心境の変化の表れ、というのではなく、「真理子さん」の側の気持の変化を娘が慮ってという風にしか私には読めません。

 家族にとっては当然「いつかきっと「あのお方」は戻ってくる」と考えるのが自然で、普通で、ハッピーなんだと私は思うのですが・・・。それが「真理子さん」の存在を受け入れるという"コペルニクス的転回"に至る過程がこの小説に書かれていない以上、私にはそうとしか思えない。

 たとえ身体は42歳の「あのお方」のものでも、中身は17歳の「真理子さん」の魂である筈なのだから、それを「母」でも「妻」でも「桜木先生」でもない、一つの「人格」として、「人間」として認めなければならなかった筈なのに、これでは、ないがしろもいいところですよね。

 潜在的にはこの2つの人格は同一人物ですが、「あのお方」は「真理子さん」の経験を包含していても、「真理子さん」が「あのお方」の経験とは無縁に存在する以上、「真理子さん」は「あのお方」ではありえないと思います(逆はOK?かな)。美也子さんにしても、産んだ記憶や経験が「真理子さん」にない以上、ただ血が繋がっているだけで、それ以上の関係はありえない。旦那にしてはなおさら、「あのお方」の旦那であって、「真理子さん」の旦那ではありえない(^^;。

 美也子さんの方からすると、入れ物は完璧に母親そのものですが、中身は「母親」ではない。美也子さんの知らない人、自分を育ててくれた「母親」とは別の筈。それを、『スキップ』を字面通り解釈すると、「母であるけれども、母でない人」として受け入れるならともかく、そのまま「母親」とすりかえて受け入れてしまうように読める。あるいは、元から「真理子さん」の魂の存在を無視している/考えていないのか。旦那にしても同様です。恋し、愛し合った人ではない筈です。

 それが受け入れられるということは・・真理子さんは最初から存在しない。最初から存在するのはあのお方だけ?ということ?

 あくまでもこの物語を17歳の私の物語とさせるためには、真理子さんは25年後の世界に紛れ込んでしまった異邦人としての視点を持ち続けるべきだったと思うのです。ですが、彼女は最初からそのような目を持ち合わせてはいない。確かに、自動ドアに驚いたりとかいう描写はありました。でも異邦人としての違和感とはその程度のものなのでしょうか。

 彼女の心はあくまでも17歳であるはずです。17歳の女の子が、突然「ぼくが君の旦那だ」と 中年男に言われ、しかも同い年の娘までいるとしたら、どう感じるでしょうか?

 私なら死にたくなるでしょうね、多分。恥ずかしさと絶望とで。だって、彼女はこれから恋をする時間がない、相手を選ぶ自由すらない(もし、17歳の娘だったら、状況から逃れるために、新田くんと駆け落ちしても良かったのに(^^;)。自分は老けている。瑞々しいかつての「私」によく似た"娘"を常に見せ付けられながら。が、彼女はその状況を受け入れる。たいした葛藤も無しに。

 この初期の時点から、彼女の心は42歳であることを受け入れてしまっている。世界と自分の間に何ら違和感を感じていない。これでは、真理子さんに異邦人の眼差しで物語を語るのは不可能というものでしょう。

#人間って、葛藤するものだと思うんですが(^^;。私には『スキップ』で人間が描かれているとは到底思えません。紙のようにぺらぺらで、中で葛藤のパチンコ玉が行き来するスペースもない。世界は常にそこにあり、だからそれを受け入れる。なんて消極的な登場人物たち(;_;)。

 北村薫は「痛み」を恐れるあまり、最も大事な所を逃げてしまったのかもしれない、と思いました。家族が、真理子さんの形をした人を、「あのお方」ではなく別の人格なのだ、と認めようとすれば、それこそ身を切るような痛みを伴うと思います。ですが、結果として、「あのお方」の居場所は「真理子さん」に取って代わられ、家族にも「あのお方」の替わりとして「真理子さん」が受け入れられるが、「あのお方」の存在も、本来17歳だった「真理子さん」の自我も否定されてしまい、遺されたのは「あのお方」の真似をする殺された魂・・・。最悪の結末ではないでしょうか(^^;。

 美也子さんと、旦那さんに聞きたい。・・・愛してなかったの? 「あのお方」を。かわりがいれば、それでいいの?

 そう考えるとこのオチは無茶苦茶ブラックですよ〜(--)。

 これがハッピーエンドというならば、ブラックユーモアかな、と考えもしました(^^;。そこで連想したのが「イワンのばか」(^^;。ま。本人が幸せならそれでいい、というむきもあるでしょうしね:-)。

 時間が育てる人と人の関係というものをここまで無視しておきながら、テーマが「時と人」というのもよくわからん(--;。


【教師というもの】
 まず、「先生」という仕事、つまり「教える」という行為についてですが、得意科目なら17才でも立派に先生ができる・・・? そんなものでしょうか? 自分が理解しているということと、他人に理解させるということは全く別です。何だったか、大昔(中一の頃)、「教えるためには自分でわかる以上に、その10倍は理解しなければならない」といったことを、本で読んだような記憶があります。出典も覚えていないし、もしかしたら誰かに聞いた言葉かもしれませんし、数字もいいかげんですが、とにかく、「自分が理解する」ということと、「他人にきちんと教えられる」ということは全く別のレベルの話です。経験すれば一発で分かると思うんですけど(^^;。うちの実家は私塾を経営しておりまして、私は高校の頃から簡単な採点の手伝いに駆り出されていたのですが、もうつくづく自分には「教える」ということが向いていないということを、感じさせられました。最初は私も舐めてかかっていました、ハイm(__)m。

 一つ例を。私の地元、大阪弁を日常語として使う地方の子供の特徴として、とにかく助詞、いわゆる「てにをは」に弱いということがあげられると思います。 例えば「お兄ちゃん○、プレゼント○くれた」の"○"を埋めろという問題をやらせたとする。出来ないんですよ、これが(;_;)。小学校1、2年生でもできない子はできない。だって、そのまま読み下しても大阪弁の文として通用するんですもの(^^;。

 で、これをどう子供に教えればいいか、想像が付きますか? 普段自分が感覚で、至極当然のものとして使っているものを、小学校1、2年生の子供に教える・・・。「文法」はもちろん、「主語」「述語」「目的語」なんていう概念もない。言葉とは話し言葉がすべてで、それとは別に「正しい文法に基づいた日本語」というものが存在するということも知らない子供に、なぜ普通に話し言葉として通用する「お兄ちゃん、プレゼントくれた」の間に"が(は)""を"を入れなければいけないのか、また、なぜそこに"で""に"ではいけないのか。簡単なことでしょうか。本来であれば、まず会話で自然に培われるはずものなんでしょうが、ネイティブ大阪人はその会話が全く補助にならないんですよね(i-i)。でもそれでは「文法的に」おかしいことになってしまう。国語の先生としては×を付けざるをえない。マイナスの概念がない子供に、マイナスを教える方がまだ簡単です。だって、あれは数直線という目にみえる形で表現できますからね。・・・さて、どうしましょう。 私にはできませんでした。子供を混乱させただけで・・・、罪悪感と泣きたいくらいの情けなさで眠れなかった記憶があります。こんなに簡単なことなのに!、と。自分では言葉にするまでもないくらい自明なことを、理解するための器(基本的な概念)さえ用意できていない子供に、理解できることばで表現し、その概念を正しく理解してもらわなくてはならない・・・、自分で理解するということと、教えるということは全く別の作業です。

 それともう一つ、『スキップ』について語られる時、皆さん口を揃えて「*現国だから*大丈夫じゃないか」とおっしゃいますが、私は数学よりも、理科よりも、社会よりも、英語よりも、現国ほど豊富な知識と経験、そして「教師」としての資質を要する科目はないと思っています。

 数学や理科は、解法を教えればよい。社会は知識を教えればよい。それらは最初から「式」であり、「ことば」ですから。そんなものは虎の巻を見れば一応真似事くらいはできるでしょう。が、現国は違う。文法や漢字の書き取りはともかく、現国で最も重要な読解というものは、公式では説明できません。その多くを"感覚"で解くものです。ある意味で、音楽や美術などの芸術科目に似ているかもしれない。でもそれらの科目と違うのは、解答というものが存在して、○と×がつくというところです。

 数学の目的は数式を処理して正しい唯一の答えを得ることにありますが、現国の目的は○をもらうことではないですよね。むしろその過程、いかに文章を読解するかの方が重要です。とりあえず点数を取る方法を教えればいい予備校や塾などはともかく、学校の現国の先生であれば、生徒に○を沢山取らせることではなく、読解力、共感する心を育てることに重点を置かなければな らないと思います。違いますか? 他の科目と比べて、そんなに簡単にできるものでしょうか。私には想像を絶する難しさだと思えるんですけど。

 現国の先生というのは、きっと、かつては現国が得意な生徒だったんでしょう。ですが、結構現国が苦手な生徒は多いですよね。そういう生徒は「わからない」んですよ、現国が得意な人が「あたりまえ」と思っていることが。感覚的に、つかめない。1+1=2というようにはいきませんよね。

 味の深さを知るためには洗練された味覚が必要なように、現国を理解するためには現国のための(というか、読解するための)感覚器を発達させなくてはいけないんだと思います。でも、「わからない」生徒には、理解するための感覚器が一体どんなものなのか、どこにあるのか、それすら分かっていないことが多いと思います。ましてや高校3年生なんていうのは、6/3/3で12年も現国と付き合ってきて、その上で「わからない」と思っている。

 教師は教師である以上、職業上の責務として、どんな生徒にも自分の受け持ちの教科を教えなくてはならないんですよね。得意な生徒に物事を教えるのは簡単です。既に受け止められるだけの器を用意している者には。だったら誰だってできるかもしれませんし、教える必要すらないかもしれない。でも、当然不得意だと思っている生徒にも、理解してもらわなくてはならない。むしろ、そちらの生徒にこそ、理解させなくてはならないんではないでしょうか。かたくなに凝り固まってしまった現国の感覚器を解きほぐし、現国が面白いものだ(そう、どんな教科も面白いものだと思わせるのがまず最初の教師の務めだと私は思っております)、分かってしまえば簡単なものだ(その"わかってしまえば"というのが果てしなく難しい)、ということを理解させる。

 現国の教師って、17歳の、当の生徒よりも年下の高校生にできるような、そんな生半可な仕事ではないと思うんですけど。正規教育すら受けていない子供にでもできる簡単なことだと思われているんじゃあ、現実の現国の先生は割に合いませんねぇ(^^;。少なくとも、あんな小学生相手のような授業では、12年間苦手だと思い続けている生徒の感覚器をほぐすことなんか、一生かかって もできませんって(^^;。

#小学生なら用意されていないものを作ればいいでしょうが、高校生の場合はがちがちに閉じてしまっているものをこじあけて、詰め込まなければならない。小学生よりもこちらの方が難しそうだ。

 思いますに、現国が得意な先生ほど、現国が理解できない生徒に現国を教えることは難しいと思いますよ。だって、理解できないという状態が理解できないんですもの。それは現場に出ればすぐに、嫌でも思い知らされる事だと思うんですけど、それをわかっていない先生の授業なんて受けたくないです、私は(^^;。冗談じゃない。

 年齢が近いことにより、生徒との距離が近くなり、理解させ易くなるのではないか、という考えにも承服いたしかねます。だいたいどの小中高校でも、毎年、教育実習の学生を受け入れますよね。その授業って、普段の先生に比べてどうでした? いくら普段の先生の授業が分かりづらいと思っていても、実習生の授業はそういうレベルにすら達していない、と私には感じられました。一応彼等は正規の教職課程を受けていると思うんですけどね。世代が近いから、というのは全く関係ないと思います。

#17と21では全く違う、と言われたらおしまいですけど(^^;。
#でも、決まってその後、正規の先生による「復習」があったもんなぁ(;_;)。


【学校のシーンの構造的欠陥】
 以上のようなことを踏まえた上で、学校シーンを見てみると・・・。

 悪魔のような旦那。自分が脅迫なんぞを受けているにも拘わらず、記憶喪失の妻に仕事を強いる。これ、やっぱり旦那が「真理子さん」の人格を認めていない、というのが一番納得のいく解釈だと思います(実際そう考えると色々なことがスムーズに納得がいく)。そこにいるのはあくまでも妻、ちょっとおかしくなっただけで、通常の仕事をすればすぐに治るさ、と思っているんでしょう。あー外道(--;。

 もし仮に旦那が「真理子さん」の人格を認めていたとしよう。・・・でもそうすると悪魔のような教師。進学校の高校3年生、大切な時期の受験生を17歳の娘に委ねようというんだから(^^;。すごいですよねぇ(^^;。

 このシーン自体についても、どうしてこんなに長いんだろう、と私などは考えてしまったわけです。本筋との関連が全く見えず、ただひたすらだらだらと続いていて、非常に苦痛でした。読み終わった後考えてみても、全体のバランスとしてみると、ここまで長くなることにあまり必然性がないような・・・。恐らく意図としては(ってこんなこと考えながら本を読むようになったらオシマイですわな(;_;))、17歳の教師から見た17歳の生徒、というものを書きたかったのではなかろうか、と思ったのですが、この時点で「真理子さん」はもう17歳っぽくない(^^;。42歳の熟練教師のように振る舞い、考え、会話する。ここで、このストーリーは当初の「17歳の私が42歳の肉体に」という本筋からは完全に乖離してしまったように思われます。

 これは『スキップ』というお話に於いて、"学校"のシーンが「本筋と乖離した別の物語」として受け止められたり、私のように「中だるみ」としか思えないという、致命的な構造的欠陥に陥ってしまった理由の一つだと思うのですが、真理子さんは最初からさながら熟練教師のようにテストを作り、生徒と交流します。つまり、最初から「完成品」なんですよね。これは真理子さんが本当に17歳だとしたら、教師として新米だとしたら、ありえないことであるとしか思えませんでした(=リアリティがない)。また、真理子さんにとってみても、最初から「完成品」ですから、"学校"という舞台で何かを得る余地がほとんど残されていない。成長もしない(最初から42歳だから:-p)。「教師である」という状態についても、疑問すら持ちはしない。変化しない。だから書き込みもいきおい希薄にならざるをえない(だって内容がないんだもん(^^;)。だから、なんだかダラダラダラダラ(本筋からすると)どうでもいい話が続いているように見えてしまう。結果的に"学校"シーンの意味というのは失われてしまったと思えるわけなんですが、当初北村薫が書こうと思った意図はどこにあるのでしょうか。

 このシーンでは真理子さんは既に主役ではありません。主体はむしろ、生徒の方に移ってしまっている。うーん、これは構造的欠陥以外の何物でもないと思うのですが・・・(^^;?

 で、「箱入り娘」です。

 なぜ『スキップ』に学校のエピソードが必要だった理由を考えると、「箱入り娘」が最も重要なファクター「だった」のではと思いませんか? 「真理子さん」の状況の隠喩として、「箱入り娘」が効く*筈*だったのではなかろうか、と推測するわけです。もしここで「真理子さん」がもっと「箱」と「娘」の 関係について考えてくれれば、また全然違ったラストになったかもしれないと思ってしまいます。

 ところが、これが非常に勿体無い(;_;)。「箱入り娘」はいかんせん地味で静的で、 完全にダイナミックなニコリに食われてしまっている。作者もニコリの方にウェートを置いて書いているような気がする。このニコリのエピソードがなぜあえて『スキップ』という作品に必要だったのか(好きなバレーをできずに過ぎ去ってしまった2年間、というのは弱いし)。是非これは本気で何方か教えてくださいません?(^^; いっそ「箱入り娘」に絞ってしまった方が「教師」部分のまとまりが出たと思うのですが。


 私が『スキップ』が合わない、と言ったのを、奇麗事ばかりで気に入らないのだろう、と思われる方がいらっしゃったとしたら、それは勘違いです。

(善意しか存在していない小説、というものの方が余程嫌だとは思いますがね、確かに。それって悪意を「悪いもの」だと思っているからでしょう? そういうのを偽善って言うのさ。私は悪意を「悪いもの」だとは思っておりません(^^)。それも善意と同じくらい大切なものなんですよ)

 でも『スキップ』を善人しか出てこない小説、何て言ったら現実の善人に失礼に当たると思うな('-')。ここに書かれているのは善人ではありません。何にも思考しない人形を善人といえれば話は別ですが(^^;。。

"はっきり言って"好き、嫌いのレベルではなく、私は『スキップ』が"なのだということです(--;。私にとっては文句無しで「不可」。今年のワーストどころか、私が本を読み始めて恐らく約17年・・・、17年間の「ワースト」です。

 全体として構成がかなり変だ(教師としてのシーンがなぜあんなに長いのか?)ということはとりあえず置いておいて、『スキップ』のテーマである所の"時と人"というものが、私にとっては「不可」でした。

 まず。親子というものを私は肉体や血や染色体だけのつながりであるとは思っておりません。

 夫婦についても、私は肉体や社会的立場だけのつながりであるとは思っておりません。

 教師というのは人の命、将来、人格形成などの全てに影響を与える(責任を持たなければならない)大切な職業であり、何の経験も知識もない人間が軽々しくできる仕事であるとは思っておりません。

 人は生きながら変化していくものです。変化していきながら、時を重ねることによって記憶を形成し、人と人とのふれあいにより共有できる思い出を形作りながら、つながりを紡ぎあげていくものだと思っております。

 時を経ることにより、変化していく過程で、違う道を色々な人と共に辿ることによって、その人の人格は形成されていくのではないでしょうか。ですから、同じ時を経験していない「真理子さん」と「あのお方」は全くの別人である筈です。であるからこそ、北村薫は17歳の「真理子さん」の一人称語りのお話にしたのではないでしょうか。ですが結果的には17歳の「真理子さん」の存在はまるっきり否定され、「あのお方」の存在もうっちゃったままお話は終わります。家族はどうも気にならないらしい。

 親子の情愛というものは、互いに時間を共有し、育て育てられて初めて生まれるのだと思います。子を捨てた母がいつまでも子を思うのとも、この場合違います。なにしろ「真理子さん」には産んだ覚えがないのですから。存在すら知らなかった自分と同い年の娘を連れてこられて、「これが娘です」と言われて受け入れてしまう。まるで母子なんていいうのは、血が繋がっている、ただその事実さえあれば何でも許されるのだと言わんばかりに。

 夫婦というのも社会的な立場と肉体的な繋がりだけが夫婦なのでしょうか? 互いに愛し、恋した時間があってこそ、夫婦なのではないでしょうか。「真理子さん」には当然そのような時間は存在しません。そんな17歳の娘が、中年のおじさんを差し出され「これが旦那です」と言われて、受け入れる? ・・・そこに至る心境を読ませてもらわないことには納得できません。

 ・・・これはあんまりでしょう(--;。あまりにも人間というものを、人の心というものを、女というものを、教師というものを(って経験者なんだよな(--;)、馬鹿にしていませんか(^^;?


 ここまで時の存在を軽んじ、人を一つの人格として見ないような小説がテーマとして"時と人"をうたっていることに、喩えようもないおぞましさと、激しい嫌悪感を感じました。

 私は一人の人間として、このお話にははっきり「嫌(--;」と言わせていただきます。


【母の17】感想ではなく、余談です。
 『スキップ』を評して「こんなにシラケた小説はひさしぶり(苦笑)。《中略》情緒と感傷はあるけど、感情と意思が見えないんだよねえ」というメールをくれた友人S(無断引用すまん。悪けりゃ今夜中に言ってくれろ<をいをい(^^;)が、母上に読ませてみたそうである。すると、プロローグ部分は「何これ?(--;」だったんだけど(あ、やっぱりそうだよね(^^;)、本編に入ると俄然面白くなったとか(*'▽'*)。読了後の感想はいかがなものか?

 まあ、あれはオジサン北村薫が、甘いステキな思い出の青春時代を振り返って想像しながら書いたジョシコーセー像が書かれているわけだから(基本的にどうしようもなく古くて、アマイ)、上の世代から見下ろせば、下の年代が読むとぶつかる異様にグロテスクで無神経で非人間的な展開というのは気にならず、スムーズに読めるのだろうというのは想像が付く。まー、若者が読む小説じゃないってことか。

 さて、ならば自分の母親に読ませてみるとどうだろう? と考えてみた。

 私の母は昭和24年生まれで、恐らく真理子さんと全く同年代くらいじゃないかなと思うのだが。さて、母の17である。

 母は18の冬--国公立大学一次試験の前日に、母(つまり、私にとっての祖母)を亡くしている。盲腸の手術の失敗とも聞いたことがあるし、癌とも聞いたことがある。要するに両方だったのだろう。母はその後一浪して、龍谷大学に入学することになる。なぜ?と聞くと「尼になりたかったの」と答えるが、さて、なぜ尼になりたかったのかは聞いたことがない。だが、ほぼ関東と関西の仏教系の大学はほとんど受験して、一番授業料の安い龍谷大学を選んだようだ。なぜ、そこまでして尼になりたかったのか。

 母の17。断片的に聞いた話を繋げてみると、こういうことだ。

 母は末っ子で、すぐ上の兄とは3歳違い(一番上の兄とは18違う)で、兄弟たちは皆大学は卒業しているので、母は末っ子一人だけで実家に残っていたようだ。祖父も祖母も高校の教師をしていた(神社の家系だったんだが、誰も継ぐものもなく潰れてしまった(i-i))。祖父は長崎の高校に勤めていて、母の実家である島原半島からは遠い。

 ということは、祖母の看病はすべて母がやっていたのだろうということになる。それがどんなにすさまじいものだったのかというのは、母の異様な医薬関係の知識の豊富さと、姑の看病ぶりから伺うことができる。だってさ、姑が脱腸してウンウン唸っているところに(叔母はぎゃーぎゃー叫んでいた。私たちはオロオロしていた)、仲人をした結婚式から帰ってきて、あっという間に着物を脱ぎ捨ててトイレに飛び込み、「出ていたから、押し込んだ」なんていうことを平気で言う30代女ってそういないと思うが(^^;。それに何かと事あるごとに、自分には絶対に延命治療はいらない、と言うし。

 とにかく、当時17歳だった母は、独りで祖母の看病をし、18歳で看取ったのだ。祖母が亡くなった知らせを受けて、慌ててかえってきた兄弟たちが(長男は当時アメリカにいて帰ってこなかった。このことが未だに諍いの原因になっていたりする)祖母の亡骸にすがって泣くのを見て、母は「なんだこいつら、としか思わなかった。涙は出なかった。正直言ってほっとしたのよ。ああ、解放される、と」と思ったのだそうな。

 母は本来バリバリの理系である。妹(物理学科)の受験の時には競って数学をやっていたほどの数学好きだ。その母が、なぜ突然翌年仏教系の大学を受けるに至ったのか・・・。想像に難くない。聞く必要はないよね? 

 さて、これが母の17。貴重な17歳の一年間を、辛くて悲しい神経をすり減らす自分の母の看病と死によって理不尽にも奪い去られてしまった高校生は、尼になろうと決意したわけだ。・・・私がこの世にいるということは、実際には尼にならなかったわけなんですがね(^^;。

 『スキップ』では真理子さんは、理不尽に奪い去られてしまった25年間にいとも簡単に適応してしまいます。それがどんなに大きな悲しみと絶望と憤りに満ちた状況なのかということを、私は想像してしまうのですが、変ですか?


 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。では、結論、『スキップ』ってやおいだったんだ('-')をご覧ください。
ざぼんの実