『ターン』北村薫/新潮社(1997)
980115読了・記

警告!! ネタバレです。
『スキップ』にも絡みますので、『ターン』と共に未読の方はご遠慮下さい。

 おとぎばなしだ。

 お姫様は眠らされて赤い糸で結ばれた王子様と出会い、不思議で不快な状況は都合よく打破されて、イジワルじいさんは当然のように(理不尽にも)無残に殺されて、正直じいさんは幸せな正月を迎える。

 『スキップ』に比べりゃ数千倍は良かった。が、それも条件付きで、だ。

 『スキップ』の舞台はあくまでも現実だったが、『ターン』はあからさまに夢の中のお話。だから、現実との違和感というのも、あまり感じずにすんだ。

 『スキップ』同様、やっぱり人物に厚みはないが、全編が心の中での対話と電話で構成されているので、人と人のナマのふれあいがない分、露呈する部分が少なく、人物が弱いのも救われている。

 私は北村薫の著作物は、『スキップ』とこの『ターン』しか知らない。これらは共に"時と人"というシリーズ3部作のうちの2編らしいのだが、テーマはそんなものなのか?(^^; ズバリ、『お家で眠っていたら、運命の赤い糸で結ばれた王子様におこされちゃった(*'▽'*)』という話だろう!! この2編に限っていえば、共通する最大のテーマはそれだ。赤い糸、・・・いいのよ、別に。運命ね。

 全体的に非常にキレイなお話だ。登場人物もいい人ばかり。でもやっぱりカルキ臭くて薄っぺらい。なぜ感じるのか、その理由があからさまになったような気がする。

 登場人物には『100%いい人』と『100%悪い人』しかいないのだ。

 人間って、100%純、とかいうものじゃないと思う。「愛している」という思いの裏側には、「嫉妬」や「独占欲」、つまり他の誰よりも相手が優れているのだという「優劣」意識、相手にとって自分こそが「一番」であろうと思う気持ち、他人よりも自分なのだという思い、なんかが存在する筈。そういうものが存在しないと、「愛している」とは言えないんじゃないかしら。「好き」という感情も相対的なもので、「嫌い」というものが存在してこそ言えるものではないだろうか。

 善意の部分だけを薄く切り取ってプレパラートに挟んだ「いい人」の標本。向こう側が透けて見える。

 さて、『スキップ』には上記「いいひと」しか登場しなかった。が、『ターン』には登場する。「100%悪い人」が。

 "善意しか存在していない小説、というものの方が余程嫌だとは思いますがね、確かに。それって悪意を「悪いもの」だと思っているからでしょう? そういうのを偽善って言うのさ。私は悪意を「悪いもの」だとは思っておりません(^^)。それも善意と同じくらい大切なものなんですよ"

『スキップ』の感想より。

 やっぱり「悪意」は「悪いもの」「不要なもの」「あってはならないもの」だったんですね。

 善意の人ばかり登場する世界に、突然悪意の人が登場します。柿崎くんです。

 彼はなんと、女の子をおもちゃにするような悪人で、その結果事故を起こして「くるりん」の世界にやってきます。閉じられた静止した世界の中でも悪行を続け、ついには主人公に対し暴行を働こうとするというとっても悪い人なんですね〜。なんて恐ろしいんでしょう。怖いな、怖いですね〜。

 小説の善意100%世界の中で、彼は「存在してはならない」「あってはならない」「いる筈がない」キャラクターだ。だから「浄化」される。タイムパラドックスもので過去に自分の両親が結ばれなかったことによって消滅する、というシュチュエーションと同じ恐ろしさを感じた。彼の存在は何も悪くないのに、世界に適合しないからという理由だけで消されてしまう。恐ろしい、独善的な、見えざる神の手によって。

 この部分、すごくイヤでした。悪意を否定する世界の見せかけの善意。

 川を流れる水は美しい。それは生物が川に存在するからなのだ。魚が泳ぎ、水草がそよぎ、鳥が優雅に水をかく。でも、そんな彼らが存在するのは、互いに食べ食べられるという関係の上で、だ。排泄もする。死体も水面に浮かぶだろう。でも、それを含めた全てが回転する命の層なのだ。流れる川は命を運ぶ。生物を浄化し、自らも浄化されながら。どんな生物も食事をしない世界では世界の流れは止まってしまう。止まった世界は死んでしまう。死んでしまった世界は、どんな生物も存在しない世界は、美しいだろうか。

 きたないものを見たくないからといって、カルキをぶち込まれ、生物が存在しなくなった水。そんな感じがする。そんなことをしても、「きたないもの」というものは存在するのだ。そこに「ある」。それを否定することは出来ない、よね? 見ても見ない振りをする? 存在を抹消してしまう? 最初からなかったことにする?

 だって、あなたは「それ」 がこの世界に存在することを知っているって、今、ここではっきり言ったじゃない。

 それにそれを汚いと思うのは、そういう風に決め付けるあなたの心のせいじゃないの?

 『スキップ』を読んだ時点では、性善説の人かなーとも思ったのですが、それは性善説の振りをしていただけの、表面だけ似ているけど中身はまったく別の何かだったのですね。

 さて、違和感を感じた部分は上のように非常にたくさんあったのですが、

 これはおとぎばなしだ。

 御都合主義も、運命の赤い糸も、勧善懲悪も、ハッピーエンドも、置き去りの謎も、全ておとぎばなしの要素そのもの。これはおとぎばなしなのです。だから文句を言ってもしょーがないのだ(--)b。

 そう思えば、そこそこ面白かったです。お話は御都合主義のありふれたものでしたが、書き方が丁寧、というのも分かったような気がする。なるほど。時と人、というのもテーマとして納得。「あの日あの時あの場所で君にあえなかったら〜」。繰り返す日常も、いつか来る終わりまでの有限の時間の一部なのだ、というのも(但し、あんな形で思い知らさなくても他に方法があったのでは、と思うのだが)

 『スキップ』ではあれだけ読みにくさを感じた文章も、二人称で語られる方がしっくりくるような気がする。『ターン』のネタというのは、なんかいちいち神林長平にダブって見えて(あっちの方がオモシロイし好きだ(*^^*))、人称の変化というのもある短篇で読んだことがある。でも神林の2人称というのは、上から下を見下ろす違和感というのが付きまとっていて(まー、それを意図した話なんだけど)、でも『ターン』の場合はむしろ二人称の方が目線が安定したような気がする。不思議だ。

 とにかく。

 おとぎばなし、おとぎばなし。


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ざぼんの実