『キリンヤガ』マイク・レズニック著,内田昌之訳/早川SF文庫(1999)
1999.8.8読了・記

「少年は、父親の怒りの叫びと、母親や姉妹たちの悲しい泣き声で目を覚まし、なにが起きたのかと外へ飛び出した。父親の牛はすべて死んでいた。夜のあいだにやってきたハイエナたちが、骨をも砕く顎で、針金のつながっている柱の根もとを咬み切った。牛たちはパニックに襲われて針金へつっこみ、とげにひっかかって動けなくなったところを、ハイエナたちに食べられてしまったのだ。
 傲慢な少年は、わけがわからないまま殺戮のあとを見つめた。『どうしてだろう? ヨーロッパ人もこの針金を使っていて、こんなことにはならなかったのに』
『ヨーロッパにはハイエナがいない』少年の父親がいった。『まえにもいったように、われわれはヨーロッパ人とはちがうのだから、彼らの役に立ってもわれわれの役に立たないものがあるのだ。それなのに、おまえは耳を貸そうとしなかった。われわれはこれから貧しい生活を強いられることになる。おまえの傲慢さのせいで、わたしが生涯をかけて集めてきた牛たちは、たったひと晩で一頭残らず失われてしまったのだ』」

 ヨーロッパ化したケニヤから出たキクユ族が、テラフォーミングされた小惑星に築いたユートピア"キリンヤガ"。そこでは世界を創造した神・ンガイを信仰する人々が、古くからの掟を守りながら、再現された自然で、文明にまみれることなく、素朴に暮らしていた。ケンブリッジ大学を卒業し、イェール大学で博士号を取得したコリバは、祈祷師として人々とンガイの橋渡しをしながら、コンピュータを介して惑星を管理し、失われたキクユ族のユートピアを維持しようとするが……。

 ユートピアとは、もともとギリシア語で、「どこにもない場所」という意味(広辞苑第4版)であり、それこそが、コリバが求めたものの真の姿だったのではないか。掟に頑なに固執するコリバが求めていたものは、彼自身経験したわけではない空想上の、ライオンや象がいたころのキクユ族の姿であり、緑だった(地球上の)"キリンヤガ"であり、すなわち「どこにもない場所」そのものだった。

 そもそも、掟そのものが持ち出すべきものではなかったのではないか。その掟も、アフリカのキリンヤガという生命に溢れた土地で、他部族との関わりの中で培われ、変化してきたものであるはずなのだ。それがかつてのキクユ族の間で変化していったのも、ヨーロッパという新しい他者との関係が始まったからには、ひとつの自然の帰結であったはずだ。なのに、いくら同じような環境を小惑星に再生したところで、外から持ち込んだ掟は所詮余所の掟でしかない。他者との関係があって作り上げられた掟は、その関係の中にあって初めて意味を持つものなのだから、キクユ族と限られた生物だけが住む小惑星キリンヤガでは通用しない。

 上に引用した個所は、コリバが"キリンヤガ"にヨーロッパ文明を持ち込むべきでないと、弟子のンデミに諭す寓話である。が、と同時に、小惑星"キリンヤガ"に、あるべき"キリンヤガ"の文化をそのまま持ち込むのは、土台無理な話だとも読み取れる。そこはもう、ライオンも象も、マサイ族も、いない世界なのだから。

 西洋文明を学び、コンピュータを操るコリバが、それらを否定しつつも利用しながら、部族の他のものには触れさせずにユートピアを維持しようとする、その姿は何だか歪んでいる。彼の求める"キリンヤガ"は、西洋を、便利を知っている彼の作り上げた理想なのだ。だから当然、西洋を知らない人々、文明を知らない人々、そしてケニアを知らない新しい世代には通用しない。が、彼の中で作り上げた創造上の真実なのだから、ンデミが指摘したように、歴史としては偽りであっても、真実として誇りを語ることができる。ただ、彼一人だけは。

 彼が理想とした掟を拠り所とする"キリンヤガ"は、彼の閉じた世界の中にのみ存在を許される"ユートピア"でしかない。どこか別の場所には求めることも、他の誰かと共有することも出来ない、だからこその"ユートピア"なのだ。彼の外の世界は、他の人々は、コリバが閉じたつもりの世界の様々な隙間から外部の影響を受け、変化する。真に密閉された世界でなければ、変化しないことはありえない。世界と乖離し、硬直した掟は、意味をなさない。だが、そのことにコリバは最後まで気付かないまま、かつてあったものを今も理想であると信じ、この世に一頭しかいない象と共に、たった一人で"キリンヤガ"に帰っていった。あのラストは一瞬蛇足かとも思えたが、なかなか象徴的。

 伝統は確かに大切だろう。それが大切なのは、伝統自体が過去の人々の創意工夫の積み重ね、すなわち変化の結果であるからだ。そしてこれからも様々な知識を取り込み、膨らんでいって、伝統は受け継がれる。変化を否定された伝統に意味はあるのだろうか? その変化が良いものであるか、悪いものであるのかを、誰が判断することが出来るだろう。

 世界は決して完全に調和するものではないから、絶対に安定しない。人と人と、社会と社会と、文明と文明とが、直接関わりあって、衝突し、繋がり、はじきあい、永遠に紡がれていくのだ。

 難しい……。


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