主人公の中学3年生の少年・朽木元(くちき・はじめ)には左目がない。
彼の存在はこの左の眼窩そのものだと思う。生きる意味を見出せず、ただ「生長」していくだけの存在。
親の不注意で幼い頃に左目を失って以来、彼の眼に写る全てのものの立体感が消え失せた。心の中からさえも。
彼は頭がいい。ものごとを受け止め、理解し、薄っぺらな現実のその裏側まで「見る」ことができる。彼にとって自分自身の存在を含めた現実全てが、無味無臭の無感動で無意味なものでしかない。
このお話の登場人物には2種類の人間がいる。
滅多に会話を交わすことのない父親。
美人だが、どこかやる気のない担任の女教師。
「元気」な体育教師。
うっとうしい生徒会長。
札付きの不良で滅多に学校に来ない高橋
中井も高橋も朽木元と同級の三年である。
高橋は滅多に学校に来ない喫煙常習犯の不良のリーダー格である。すでに暴力団との付き合いもあると噂されている。
中井は少し前に転校してきた女生徒。校則違反の短いスカートと、長い髪。転校してからも周囲に馴染むことなく、目立ちつづけている。
これら2種類の登場人物の差がどこにあるのかは明らかだ。
朽木元の「左目」から「目」をそらす人々のなかにあって、中井と高橋だけは実に屈託なく−時には無神経に−「左目がない朽木元」に接するのである。
そんなふたりに対してだけ、朽木元は心を開いて接する。
彼がそのハンディキャップを気にしていない筈はないが、「存在しない左目の存在」を朽木元がどう考えているのかについて、直接触れられている個所はない。それはこの物語が彼の一人称で語られているからだと思う。彼は左目をハンディキャップだと感じることを自分に許していないから、だから語られないのではないだろうか。
だからこそ、文章の端々から窺い知ることのできる、左目とそれに対する周りの反応、彼自身の気持ちというのが重々しく読者の心に沈む。
この物語には筋というべき筋がない。ただ15歳の少年の一夏の出来事が、少年のナマの言葉で語られるだけだ。だが、そこには語られる以上の物語が存在する。
手にとってご覧ください。