西暦弐千年
一月ニ十四日(月曜日)一月三十一日(日曜日)まで


「歌」と内容は必ずしも関連していません(笑)






1月25日
過ぎし日の ページに残りし 我の声
思い薄れど 色や薄れず


慌ただしい引越しをしてから
もう何年も封をしていた荷物を、少しづつ開けて整理している。

一人暮らしを始める時
家族に見られたくないようなノートや日記と
少し晴れがましい記憶につながる物は
全部持って行ったのだけれど
幼い頃や、封をしていた少女だった頃の記録は
そのまま実家に残っていた。

それは今のお仕事を始める為に
持って行きたくなかった記憶でもあった。

少し色の褪せた
へんてこな少女趣味の皮もどきの表紙のついた日記や
雑誌の付録についていた
その頃人気のあったまんがの絵が付いたノートに
幼い文字でいろんな事が書いてある。

通知表や、ちょっとした表彰状や、テストの成績表や
書道やペン字や算盤なんていう
今では誰に見せる事もない検定証書もあって
なんだかその頃の事が一つ一つ蘇ってくる。

この何年か、私は新しい私であろうとした。
それまでの私に封をして
感じる事や思う事も昔に引きづられないように
前だけを見ようともした。

でもそんな事はやっぱり出来なくて
それは、今の自分を見たくないからだって事に気づいて
この「せっけん王国」を始めてみたりした。

幼い文字で綴られた私の思いは
今では微笑ましかったり
余りにも自分勝手で、むかついたり
その夢になんの努力もしなかった自分が情けなかったり
抱きしめたいほど愛しかったりする。

少しづつだけど私は幼い頃に繋がる自分に
戻れて来ているような気がしている。

それが良いことかどうかは判らないのだけれど
忘れていたその頃の言葉が、今は私から遠くても、
その言葉を持っていた頃の私の風景は
ちゃんと思い出せるようにはなっている。

捨てるのでも隠すのでもなくて
ちゃんとしまっておこう。

そしてまた何年かあとの私にちゃんと渡して
それをどうするのかは、その時の私に任せてみる事にする。

その事を今の私の文字で書いて
もう一度違った気持ちで荷物に封をしたりする。

明日はこの冬一番の冷え込みになると
最後のニュースが言っている。



1月26日
一人待つ 時の長さや 吹く風に
舞いし雪やも 溶かすその笑み


風にほんの少し雪が舞う。

背を少し丸めて
首をすくめ
明るいお店の前に
ぽつんと待っていた。

お店に出入りする人々は
ちょっと横目で見たりするけど
冷たい風に追われて
足早に過ぎ去って行く。

舞う雪が
肩にひとひらついて
からだのぬくもりに
溶けてゆく。

もう何人くらいの人が
横を通り過ぎていっただろう。

いくつかの笑顔 そこの路地を曲がって見えなくなった。

犬の揺れてるしっぽは
とても幸せそうだった。

レジの横のガラス越し
に見えてた風景は
風の中でも
あったかそうだった。



1月27日

病葉や 想いのように 枯れぬるを
地には戻れず 風にのみ舞う



このページに最初の日記を書いて
ちょうど一年になる。

去年私はこんな歌を詠んだ。

このページを作ったおかげで
たくさんの方と御縁が結べ
そしてたくさんの思いを頂いて今日がある。

今年も窓の外には
乾いてしまった枯れ葉が
昨日からの冷たい風の中で
かさかさと舞っている。

帰れない場所や帰れない日々を
持ちながら歩いているのは
私だけじゃない。

判ってはいたのだけれど
そんな風に自分甘えたり
ひとに甘えることが楽チンだと思っていた。

これからも
クスンと思うことはいっぱいあると思う。
そしてそれをいっぱい日記に書くこともあると思う。

逃げない。

それだけを守って
いっぱい泣いて、いっぱい怒って
いっぱいふくれて
そしていっぱい笑おう。

皆様に出会えたおかげで
私はなんとかここまで来ることが出来ました。

そして私は、今、ここにいることができます。

ありがとうございます。


冬枯れに 紅をさしたり 寒椿
手折り愛でやと 野に朽ちしより


2000.1.27

感謝を込めて

めぐみ

もういちど
ありがとうございます。


1月28日
爪の跡 滲みし色や 移れども
痛みは残り つけし君にも


傷つけようと思ってはいなかった。
それは判ってはいる。

ちょっとした弾みで爪を立ててしまって
思ったより深くつけてしまった傷から流れる
鮮やかな血の色に
二人はおびえてしまった。

大切にしていた
白いハンカチで押さえると
みるみるその色は広がって
また二人はおびえる。


いつか傷はふさがって
その痕にはもうその時の色はないのだけれど
ひりひりとした痛みは長い間残っていた。

なにも無かったように
じゃれあう二人だけれど
傷の事はいつしか触れてはいけない
思い出になってゆく。

そして
染まったハンカチは
もう元に戻ることはない。

薄くなっても
消えない傷はある。



なんて言いながら、
猫の爪を切っている。

ぺろぺろ傷口を舐めてくれる時に
ちろりんと私を見上げる瞳は
ちょっとだけ
ごめんなさいの色はあるのだけれど
心はきっともう「おかか」にある。

そんなところも
私は好きだったりするのだけれど。


1月31日

我思う、故にラーメン」の鈴村海苔久様の日記企画

に参加させて頂きました。ありがとうございます。
皆様の町もどうぞご覧下さいね!


私の町「浅草」
思い出す風景はたくさんある。

弁天山公園の脇を抜け、ニ天門から浅草寺の境内へ入ると、たくさんの句碑や顕彰碑
が立っている。山東京伝、河竹黙阿弥、初代花柳寿輔、市川猿翁、そして久保田万太
郎まで、それぞれの時を抱いて雑踏から少し離れて町を見詰めている。

雷門から観音堂へ向う、仲見世通りをひっきりなしに行き交う参詣客の人並みを横切っ
て、伝法院を右に見ながら角を曲がると花やしきへ向う道へ出る。入り口のすぐ前には
木馬館があった。

そのまま、まっすぐ行くと、六区の興業街へ続く道で、浅草演芸ホール、浅草花月、そ
してフランス座があった。そしてその道は千束通りから吉原の裏手へと続く。

浅草寺を中心に広がるこの街は、実は500m四方程でしかない。はとバスで見物に来
る人達がお土産物を楽しそうに選び、記念写真を撮っている場所からほんの目と鼻の先
では、三味線の音や地唄の稽古をする声が街に溶け込み、東京の言葉ではない江戸
言葉が威勢良く弾けていた。「ぼくはさぁ」ではない「俺はよぉ」だったし「ばかだなぁ」
ではなくて「てやんでぇ、べらぼうめ」の街だった。早口の巻き舌言葉がこの街の言葉
だった。

ちっちゃいときに一人でうろうろする浅草の街は、路地から路地を抜け、人通りの多い
道を、お腹に力を入れて「よいしょ」と横切り、角のお店を確認して道を曲がる。裏口か
ら声をかけて、お友達を呼び出し花川戸公園や、吾妻橋や言問橋を渡って墨田公園
まで遠征したりもした。お小遣いで買った、お家では食べさせてもらえないすごく辛か
ったり、すごく甘かったりする袋菓子を、川を行き交う船を眺めながら、たわいない話題
で笑いころげて、ビール工場が夕陽に染まるまでちょっとずつ、つまんでいたりもした。

お家で食べる、いつものおやつは、白玉だったりふかしたお芋だったり、かりんとだった
り、四季の和菓子だったり、お客様がお持ちくださった憧れの苺ショートだったりもした。
それぞれのお家で御贔屓が別れていて、あそこに遊びに行くと、あのおやつが食べれ
るかなぁなんて考えていると、何故か必ず違うおやつが出てきてがっかりしたりもした。

着せ替え人形や、そのとき流行っていた遊び道具を袋につっこんで、誘い合い手をつな
いで駆けてゆく。その時のワクワクと暖かさがとっても嬉しかった。ザワザワと、見知ら
ぬ人がたくさん歩いているのだけれど、そこには私達の暮らしがちゃんとあった。

いつの頃からか街が落ち着きを無くしてお友達も引っ越してゆく事が多くなっていった。
残ったお友達もいっしょに行っていた習い事はやめてしまって、塾へ通うようになり、た
まにみんなで遊ぶ事があっても、なんだか前とは違う空気が悲しかった。

街には細いビルが増えて、物売りさんが来なくなり、御用聞きにきてくれていた酒屋の
元気な御隠居さんが亡くなると、お店もコンビニに変ったりしていった。

奇麗なお店や、なんかまがい物みたいな昔風なお店が増えて、最後の江戸がぎゅっと
詰まっていた街は、映画のセットみたいな暮らしの香りがしない街へ少しづつ変ってい
った。そして浅草もいつか東京になっていった。

今でも懐かしい場所はたくさんある。そして私の生まれ育った街である事には変りはな
い。東京が決して嫌いだというのではないのだけれど、その頃の浅草が薄れて行くこと
はやっぱりちょっと寂しかったりもしている。

しかたないねぇって、おもやぁするんだけどね。

過ぎ行く時代へ贈る私のサイト
吉原遊び江戸の日々(目次直通)/♪風俗で見る20世紀♪


2月1日
いつもなら さしだすことや かないしも
なきぞかなしき からのポケット


今日はマフラーもつけて出かける。

少し寝坊をしてしまって
黒いアンカットコールのコートに
ベージュのおっきめの革の鞄を斜めにかけて、
急ぎ足で駅に向った。

なんかちっちゃな音がして
振り向いた歩道には
ちょっとラメの入ったコートのボタンがくるくる回ってる。

あーあぁ・・・

私はボタンを拾って
鞄の横のジッパー付きのポケットにつっこむ。
残りのボタンも1つは取れかけていて
なんだかちょっと悲しい。

鞄を肩から外して
手袋を取出そうとすると
そこに手袋は入っていなかった。

電車に飛び乗ると
すこしかじかんで赤くなった手が
しんしんと痛い。

取れそうになっていたボタンの糸の端をもって引っ張ると
するりと糸は抜けて
ボタンだけが手に残った。

仕事場へゆく途中で
いつもの場所で顔なじみの猫に出会う。

猫はいつものように
擦り寄って来て、「にゃっ」っと小さく泣く。

ごめんね
おかかの袋も忘れて来ちゃった。

猫は頭を撫でてやるとすこしゴロゴロいって
私の顔を見上げてちょっと首を傾げる。

きょうの私のポケットには
なにも入っていない。

ねこはちょっと不思議そうに見つめて
でもなにも無かったように路地へと戻って行く。

猫が不思議そうだったのは
おかかの出てこないポケットだったのか
いつもよりちょっと硬い表情の私だったのかは
判らないのだけれど。


2月2日
節分に寄せて


2月3日は節分を迎える。
旧暦では、12月28日にあたり
2月5日が旧正月となる。

明治5年に太陰暦から太陽暦へ暦が変るまでは
暦のいたずらで希に年内に立春を迎えることもあったけれど
冬至を過ぎ、寒が終わり節分を過ごし、そして新年を迎えるのが
一年の流れだったりした。

節分は元々立春、立夏、立秋、立冬の大節季の前日なので
年に4日あり、それぞれ大切な日として
様々な行事が行われていた。
その中で一年の厄を払い新年に福を迎える儀式として
立春の前日の節分が大きな意味を持ち
江戸時代以降は「節分」と言えばほぼこの日を指すようになったようだ。

現在行われている豆まきを始めとする行事の由来は、
諸説はあるのだけれど
中国の周王朝時代に編まれた「周礼」にのっとり
平安時代に毎年大晦日(一説には28日)に行われた
追儺(ついな)の儀式が元になっていると言われる。
「儺」の字は「おにやらい」とも読み厄災をもたらす邪鬼を
追い払う行事に他ならない。

当時の「鬼やらい」は12ヶ月それぞれの疫病神を表す
12匹の鬼に扮した鬼役と、松明をかざしてそれを打ち据える役が
立ち回りを演じる物で、豆を撒く習慣は無かった。

豆を撒く習慣は「豆占」という古来からの農耕行事があり
これは節分の夜に12ヶ月になぞらえた12個の大豆を灰の上に並べて
その焼け具合によって、月々の天候と作物の豊凶を占っていた。
この行事は現在でも一部地方には独立した形で残っていたりもする。

この二つの行事が融合して一説には鎌倉中期
一説には室町初期に民間へ広まり
江戸期になって全国的に現在の形に近くなったと言われる。

江戸中期以降の一般的な江戸での節分は
豆の枯茎に塩鰯を刺した物と柊の小枝を家の玄関へ挿す。
主人が神前仏前に灯りを点し、竈を清めて鬼打ち豆を煎る

煎りあがった豆は升に入れてから三方へ乗せ
その年の年男に渡され
恵方へ向って豆を打ち、次に神棚に向って同じように打ち
順に家中の部屋すべてへ豆をうつ。

それから「年取り物」(年包・福包)を
主人から家内全員に配って、
用意した里芋、大根、牛蒡、焼豆腐、
黒豆、高野豆腐、蓮根の煮物、田作りの重と
数の子を肴に酒を酌み交わすのが吉例とされていた。
内容は現在のお節料理の一部となっている。

お節料理という言葉自体が元々は「御節供料理」で
節句、節分、春・秋分、夏至、冬至に神仏へ御供えした料理の総称で
現在はお正月の料理を指す言葉になっていたりする。

現在でも易暦では節分を
冬の陰気を払って、春の陽気を取り込む日として「除夜」と呼ぶ。

年の数だけ豆を食べて
数えでひとつ年をとっていた。

明日は思い切り豆を撒いて
少しでも邪鬼を払うつもりだ。

年はもうあんまり
取りたくはないような気もしてはいるのだけれど。


去年の節分に詠んだ歌

払えるや 己が呼びし 胸の鬼
せめて面を 福でおおわん



2月4日
交わさざる かの日の言葉 思ひしも 
姿はなきや 君の居た場所


きみはいつもいてくれた。

みんなの人気者だったきみは
いつもそこにいて
みんなといるときは
いつも楽しそうだったね。

でも誰の目をも見てはいなかった。

私は遠くからだったり
きみを取り巻く輪の一番外から
そっと見詰めていた。

私にとっては高嶺の花だったし。

見詰めている時間だけが
私のきみと過ごす時間だっだ。

ある日きみはひとりでいたね。

その日のきみは、ちょっと寂しそうで
そして私を真っ直ぐに見た。

私も見詰め返えして
思わず手を伸ばしそうになった。

でも
私は手を伸ばせずに
そしてきみはすぐにみんなに囲まれて
私をもう見ることはなかった。

でもきみがいてくれることが
ただただ嬉しい私がいた。

でもいつか
それでは我慢できない私になって
その場所に行けなくなった、

きみはずっといるのだと
何故か思い込んでいたし。


あれから随分経ってしまって
私はきみに会いにいった。

でもきみはもういなかった。

「売れちゃったんですか?」

「いやぁ売れちゃったんだよ。
2年近く居たんでもう売れないと思ってたんだけど。」

ディスカウントショップのペットコーナーにいた
いつも「ぎゃぁぎゃぁ」煩かったけど
喫茶店で話題になるほど街のみんなが知っていた
売れ残りの
「るり金剛インコ・オス・定価100万円3割引」
はもういない。

彼のいた鳥かごでは
おかめインコのつがいが仲良く毛繕いをしていた。



いんでっくす



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