めぐみのにっき
西暦弐千年
三月六日(月曜日)三月十二日(日曜日)まで
「歌」と内容は必ずしも関連していません(笑)
3月6日
新しき 月を待ちせば 花筏
浮かせし川を 渡りせばとも
何年前になるだろう。
祖母に買ってもらった着物を着て
ちょっとした御縁で
千鳥ヶ淵のホテルで催された
観桜の宴のお手伝いをした。
暖かい日が続いてしまって
花は散り始め
水面には花筏がいくつも浮かんでいた。
時折ざっと吹く風に形を変えながら
いつしか、
風下の岸に花びらは寄り添う。
水面に紅がさす頃宴は終わって
待ち合わせをしていた祖母と
遊歩道を少し歩いた。
祖母は何度か立ち止まって
すこし離れて私を見る。
「なにしてんの?」
と私が尋ねると
「並んで歩いてるとあんたが見えないからねぇ」
と笑った。
ひらひらひらひら
花びらが舞っていて
灯りだした町の明りが
水面に写ってもいた。
月がもう一回りした頃には
きっと桜は咲いている。
今日は新月で
雲の上にも月は無い。
3月7日
街灯の 灯りの果てに 沈丁花
声はなけれど 我を呼び止め
高い塀の角を曲がると
大通りの雑踏もすっと消えてゆく。
街灯が点いてはいるのだけれど
すこし曲がった狭い道には
ところどころ浅い闇が佇む。
幾度か私の影は
足元から長く前へ延び
並んで歩み、そして後から追って来る。
少し低い生け垣の横で
私は歩を止める。
沈丁花はもう開いていて
紫紅色の衿を付けたぷっくり白い花が
窓から漏れる灯りの中で揺れていた。
闇に隠れていても
沈丁花が咲いているのは
わかりはするのだけれど。
3月8日
桜など
テレビでオオシマサクラの花便りを見た。
一重の大輪の花で色は少し淡い。
桜と言うとソメイヨシノを思い浮かべるのだけれど
この花は約150年程前に園芸品種として
エドヒガンとオオシマザクラの交配によって
生まれたという事が知られている。
一説には江戸末期に豊島区染井の植木屋が
吉野から取り寄せたという、うたい文句(宣伝)で
売り出したとも言われている。
桜の品種については門外漢の私が何か語るより
「桜入門」(森林総合研究所 多摩森林科学園 樹木研究室)
をご覧頂くと、美しい写真と一緒に
少し早い花見がWEB上で楽しめたりする。
江戸時代以前の物語や
古典に現れる桜は、今の私がイメージする
ソメイヨシノではなくて
里桜や寒桜や山桜なのだ。
桜自体に目をやると
万葉集では梅と桃を詠んだ歌は
桜を詠んだ歌の三倍近くある事が知られている。
古今集になると桜が圧倒的に多くなるので
この間に少なくても歌を詠む貴族階級の間では
愛でる花の順位が意識の上で
変化したのではないかと考えられてもいる。
桜の花見は古来の神事であり
「歌垣」を初めとする屋外祝宴の元であったとの説がある。
ひいては「男女の出会いの場」となり
農繁期前の祝祭として根づいたとも言われる。
貴族階級の宴としては、歌を読む行事としても進展し
有名な豊臣秀吉の「醍醐花見」で新しい遊興としての形式が
全国に武士階級中心に伝播し
物見遊山として庶民に浸透したのは
江戸時代であるとの説が有力だ。
余談だけれど
江戸期に於いて「夜桜」と言えば
遊郭吉原の仲ノ町に期間限定で毎年植えられた桜を指し
また全国の遊里で模倣された同様の催しの桜を指す事が多い。
当たり前だが電灯の無い江戸期に於いて
桜見物の為に大量の提灯を点す事は
火災防止の意味でも不可能だったし
開花時期が月の明るい時期に当たるとは限らない。
武家階級では、自宅の庭の夜桜を愛でる事はあったようだけれど
現在の上野公園をはじめとする夜の花見の雰囲気からは遠くて
晴着をまとい、昼間の桜を見にゆくのが一般的な花見だったようだ。
ちょうど先月、桜に関する読み物としても面白い本が出版されている。
「日本の桜、日本の歴史」小川和佑著・¥1020
日本放送出版協会・ISBN−4−14−084113−3C1321
今年のお花見はちょっと趣向を変えて
日本の文化や歴史に思いを馳せながら
東京でも見る事の出来る古来種や新種の桜を
愛でるのも良いかも知れない。
酒は持ち込めないけれど
新宿御苑では様々な桜を見ることが出来る。
ソメイヨシノの美しく儚い風情だけでなく
様々な表情の桜を、一遍の物語の風景を想いながら
愛でてみるのも一興のような気がしている。
3月9日
木蓮と 呼ばれし花の その色の
君の知りしは 白やはたまた
木蓮が咲いている。
乳白色の花が
ちょうど西へ沈む三日月のうてなに乗って
久しぶりに冷え込む空に
浮き立っている。
浅草の家の近所の庭にあった木蓮も
やはり白い花を咲かせていて
私は長いあいだ
木蓮と言えば、純白で清純な印象を強く持っていた。
ちょうど20才の春に
玉川園から少し川沿いに入った
瀟洒な一戸建てのレストランで
食事をする機会があった。
私はまだよく男を知らなくて
そして女にはなっていなかった。
パウダールームで鏡に写る私は
耳触りの良い言葉と少し飲んだお酒で
頬が少し上気していた。
化粧を直して席に戻る時
右手の一枚ガラスの向こうの中庭に
闇に溶け込む紫暗色の花があった。
それは見慣れた形なのだけれど
月明かりの中で例えようも無いほど妖艶に見えた。
木蓮という名の花が、
白い花だけではない事が
何故かとても恐ろしかった記憶が
未だに残っていたりもする。
3月11日
往く日々の 思いや 傷や かの笑顔
机の色に 跡や残りて
今日は一本分早くあがって
百貨店へ寄った。
用件を済ませてからエレベーターの方へ歩いてゆくと
そこは新入学用品のコーナーになっていて
指定の制服やランドセルや勉強机が
まとめて展示してある。
椅子を上げたり下げたりして座り心地を確かめたり
真剣に蛍光燈を点けたり消したりしたりしている子供たちと
それを微笑みながら見つめている家族で賑わっている。
私が使っている机は
小学校に入学した時から使っていたりする。
木製の何の変哲もない姿なのだけれど
しっかりしていて、今でもびくともしていない。
祖父と祖母とこの机を買いに行った時
私はもっと女の子らしいのが欲しくて
少し駄々をこねた。
困った店員さんが
その当時流行っていたアニメのついたディスクマットをプレゼントしてくれる事で
その場が収まった事を何故か鮮明に思い出す。
私はこの机で文字を憶え、
その文字が使える事が嬉しくて家族にやたら手紙を書いたり
文字を読む事で未知の物達に触れられる事を知り、本を読み漁った。
机の横にシールを貼って叱られたり
引き出しの裏に写真を貼って
寝転がってそれを見上げるのが
なんだか秘密みたいな気がしていたりもした。
どきどきしながら、初めて男の子に送るカードを書いたし
その時々の日記も書いたし
入学願書を書き、履歴書を書き、卒業論文も書いた。
家へ帰って机を改めて眺めて見た。
たくさんの傷があるし
シールを貼ったり、写真を貼っていた処は
少し色が変っている。
家に机が届いた日に
入学式の為に買ったお洋服を着て
ランドセルを背負い
家族みんなで撮った写真がある。
みんなとっても楽しそうに笑っているのだけれど
私はちょっと拗ねた表情をしている。
帽子が少し大きすぎて
ちょっと動くとずれてしまうのが
嫌だっただけなのだけれど。
3月12日
手を振りて 「さよなら」告げる きみの手の
思いと想い 我に残りて
風はまだ冷たいけれど
陽射しには春が香る。
こんな季節はいくつかの「さよなら」を思い出す。
それは毎日を過ごした学び舎との別れだったり
一緒に過ごした街から出てゆく友との別れだったり
ちょうど区切りを迎えた
人々との別れだったりもした。
前からカレンダーに印を付けていた別れもあったし
思いを込めた手紙を受け取ったり私が書いたりした別れもあったし
意に沿わない事情で、仕方なく受け入れた別れもあった。
そして、電話や葉書で知らされた
突然の別れもあったりした。
普段の私は
そんな多くの「さよなら」を忘れて毎日を暮らしている。
でもちょっとしたきっかけで思い出す「さよなら」は
「さよなら」の風景よりも
過ごした日々の思い出達がたくさんたくさん現れて
私をいっぱいにする。
ありがとう。
みんなに「さよらなら」の時に
手渡してもらった大切なものたちは
今でも私の中にしまってある。
もういなくなってしまったみんなだったり
みんなはもう忘れてしまったものだったとしても。
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