071 子別れの条件

 子犬、子猫、ヒヨコなどなど、まだ生まれて間もない動物というのはどうしてかわいいのだろう。そんなことを考えていると無情にも捨てられた子犬、子猫などが迷いこんで来て、思わず取り上げてしまい、里親さがしをしたり、最悪、自分の家のペットのあたま数をふやす結果となったりもする。

 昨日までかわいがって育てていた我が子を、今日になって突然追い出す。それも歯をむき出してまで。こんなことは、肉食のほ乳類には常識的な『子別れ』の儀式。親の役目は子が成長し、食ってゆけるようになるまでとして(それ以後は縄張りを侵す敵として)勘当してしまう。

 これは確かな理屈といえる。しかしながら、その判断の決めてはいったい何なのだろう。それは意外と簡単なのかもしれない。子は成長するとかわいくなくなる。大きさ、鳴き声、顔つき、体つき、動作などがひとつひとつ親のそれに近づくにつれ、だんだんかわいくなくなってくる。そんな最後のサインがなくなったとき、親ははっと我に返ることとなる。親はとうとう嫌気が限界を超して、子を追い出してしまう。これは案外当たらずしも遠からず。子別れをする動物は、私たちが思っている以上に感情細やかなのかもしれない。だとすると、人間という動物、このかわいくもなくなった我が子と子別れのできないうじうじした代物は、一体何なのだろう。


072 台 風


 夏休みが終わって秋ともなると、ぼくたち小学生にとって楽しみなのが台風。おとなになってみるとこれほどうっとうしいものもないのだけれど、子供にとってはなぜか楽しくてしょうがない。

 まず、学校が休みになるかもしれない。そして、普段は食べられない『非常食』が食卓に並ぶ。缶詰め、即席ラーメン、ソーセージ、乾パンなど。停電の暗やみをぼんやり明らめるロウソクの灯。携帯ラジオだけが頼りの台風情報。補強に板きれを打ちつけた雨戸の向こうで聞こえる雨音風音。

 そんな夜はとにかくわくわく胸がはずんだもの。「明日は学校、休みになるだろうか」。まんじりともしない一夜(結局は寝てしまう)。仮に台風一過で登校となっても、明朝、いろんなものが吹き飛んで散乱した町内を見て回るのも楽しみ。近くの小川には、養殖池から逃げたコイがいたりして。学校に行けば行ったで、学区内の惨状の情報交換。来られずに休んだ級友についてのうわさ。

 『台風一過』という言葉がある。携帯ラジオから流れるニュースは「台風一過。秋晴れのすがすがしい一日となるでしょう」と報じる。『台風一家』ていったい何なの、と思ったりして。

 わが家の末っ子の中学生。台風ともなると未明から起き出して、テレビに見入りながら『警報』の一言を待ちながら、わくわくしている。



073 夕 日


 豊川と三河湾が出会うあたり。海は油を張ったように静かで、その向こうに雲の破れ目から夕日がのぞいている。ごくありきたりの夕焼け。その色は灼熱の赤でもなく、幼いころの記憶のすりガラスの向こうにぼーっと見えた薄暗い電球のような色。静かに一日が終わろうとする一刻。そんなひっそりとした夕焼けに、こころが静かに動いた。

 僕の運転する車の外では、たくさんの車や人々がただもくもくと行きかっている。そのひとりひとりも、この夕焼けを見てたぶん共通して『ぬくもり』を感じているのだろう。

 宇宙というか自然は、そのときどき、いろいろな表情を見せてくれるし、感動をも与える。雄大な風景であったり、猛威やできごと、四季の移ろい。わたしたちのその単調な毎日も、大自然の息吹のなかで営まれている。台風といえばじっと家にこもり、地震といえば恐れおののき、大荒れの海や山にはただ手をこまねくだけ。

 そんな大自然が、こんなにひっそりとしたあたたかい夕刻を、今、わたしたちにあたえている。太古のむかしから、そんな自然のなかでわたしたちは、あまりにも小さいけれどたまらなくドラマチックなわたしたちの『生と死』のくりかえしを、くりかえしている。


074 救われる


 人は言語を持つことで『思考』することを身につけた。これはすばらしい能力といえる。しかしながらそのおかげで、『悩む』という副作用も身につけてしまった。数々の精神的な苦しみから逃れるために、人は『救われたい』という欲求にかられる。

 宗教に『救い』を求める場合もある。宗教は忠実なしもべに救いを与えてもくれる。世の中に『救われる』方法は、宗教のほかにもさまざまある。ジャズ・トランペッター、サッチモことルイ・アームストロングが、晩期に歌った曲に『このすばらしい世界(This Wonderful World)』というのがある。あれほどに人種差別を受けながらも、貧困を経験しながらも、この曲の中では「なんとすばらしい世界なのだろうと、私は心に思う」とくり返す。そう、彼は音楽で心から『救われている』。あのベートーベンはその楽曲で人を『救う』ことさえできてしまう。

 私たちは、宗教や音楽以外によっても『救われる』ことができる。自分の仕事を通して、好きなことを通して、社会奉仕を通してなど、あることにその人自身を捧げることによりそれは可能となる。『漬物作り』を通してさえ、できるかもしれないと最近思えるようになってきた。

 人を『救ってくれる』もの。それはあまたあると思う。けれども、これだけははっきりしている。人を『救う』のは、結局、他ならぬその人自身でなければならないということ。くれぐれも、自分で自分が『救われていない』ことにさえ気づかないような人間にはならないようにしようではありませんか。



075 ふるさとクーポン


 もう新聞でも話題になっていて、いまさらその馬鹿さ加減をとやかく言う必要もないのだけれど、つい言いたくなってしまう。ほんと、ちょっと頭が悪いんじゃないんだろうか。

 15歳以下の子供のいる家庭、一定所得以下の高齢者に限定して、商品券を支給するという。どう頭をひねったらこんなアイデアを思いつくのかは知らないけれど、きっと「しまった」と思っていることだろう。国会の答弁で『失言』というのがあるが、これはとっさのことで「申し訳ない」で済むかもしれない。これが一時の思いつきの政策だとすると、担当者は辞職するべきだと思う。

 一体、庶民が汗して働いて、稼いで、環境のことを考えて消費して、節約して暮らす、という今のご時世が理解できているのだろうか。この上訳のわからない『金』をばらまいて、無駄な消費をあおろうなどもってのほか。15歳以下の子供の教育上にも、まったくよろしくない。

 いま、日本というよりは世界は決断を迫られている。私たちは健康的な環境の中で、心身ともに健康な生活ができるような未来を実現してゆかなければならない。そのために、自分のこれからの仕事のことなどまじめに考えている最中に、その『腰を折る』ような『横やり』はないと思う。とにかく私たちは、人々がこれからとるべき未来を、歩みつづけよう。


076 虚と実


 『ファーゴ』というアメリカ映画をみて、いいと思った。ジョエル&イーサン・コーエンという兄弟が、製作、監督、脚本を手がけており、この映画のほかに、『赤ちゃん泥棒』『バートン・フィンク』『未来は今』など。その主な作品がカンヌ映画祭の主要な部門での優秀賞を数多く受賞している。

 映画とは、英語では動く写真(Notion Picture)という。ストーリーの随所がすばらしい構図と色彩の動く写真でつづられており、「映画とは何か」という問いに明確に答えてくれている。

 映画はストーリーという『虚』によって、思想という『実』を表現することができる。この映画では、『実際』にあったとする凶悪事件を題材に、女性警部が登場する。当然、ストーリーには事実と異なる部分もあるはずだが、その中であきらかに事実ではないであろうと解る部分がある。ストーリーとは関係のないその部分が、この映画では、一番大事な個所であろうと理解したのだけれど、これには感心してしまった。本来映画では『虚』なるストーリーが、この中では『実』であり、『実』であるべき個所が『虚』として表現されている。そのコントラストがなんとも小気実よく、コーエン兄弟の言いたかったのはこれだったのかと、ほっとした。

 この映画のほかには、『バートン・フィンク』しかみていないけれど、これも実にすばらしい映画です。



077 21世紀   99/12


 もう後1年あまりで21世紀となる。子供のころ、西暦2,000年といえばSFの世界だった。宇宙空間には宇宙ステーション、未来都市には車輪のない乗り物が行き交い、あちこちでロボットが人の手伝いをし、電子頭脳がいろいろなことを管理する。そんなような未来を、絵本をみたり、SF小説を読んだりして夢見たもの。

 21世紀はおろか、遠い未来に人間社会が、なお、存在しようとするならば、一体人類は何を克服しなければならないのだろう。現在もっとも問題となっているのは、『環境』について。地球の汚染を食い止め、この危険極まりない『科(化)学』を捨てることなしに、自然の摂理に従った生命活動を身につけてゆけるのだろうか。そんな疑問に対して、明確にYESと言い切ることのできる人はいないだろうけれど、それができなければ人類に未来はないといえる。

 さらに、それができたとして、その向こうに大きな命題があることを忘れてはいけない。それは、『理性』ということ。2,000年前、キリストは「汝、殺すなかれ」と人の愚かさをさとした。そしてその『教え』はいまだに宙に浮いたものとなっている。人類にとって『進化』とは、やはりその肉体のどこかで、しかも一番曖昧な『心』の部分で起こらなければ意味はないだろう。それを思うと、人類は宇宙的に見たら、まだ、とんでもなく幼稚な生物でしかないのかもしれない。せっかく『思考』という能力を身につけたのなら、すべてのものと共存することのできるような『生物』へと『進化』しなくてはならない。


078 小諸市、生ゴミ堆肥工場見学


 12月早々、長野県小諸市の生ゴミの堆肥化プラントを見学すべく、総勢25名で繰り出した。当初、小諸市の近くの臼田町(生ゴミの堆肥化では草分け的存在)のものを見せてもらおうとしたところ、もう施設が老朽化しているため近くの「小諸市はどうか」と勧められたため、このはこびとなった。長野オリンピックがあったお陰で音羽から小諸まで高速道路で行くことができ、途中休憩をして4時間半の行程。小諸市は藤村の愛した里、45,000人の人口。

 早速、市役所の会議室で生活環境課の方の説明を聞かせていただいた。この市での生ゴミの堆肥化は19年目とのことで、臼田町に遅れること2年とやはり歴史は古い。ただお話を聞かせていただくうち、そのきっかけが『生ゴミの減量化』にあったこと。今もその方針が変わっていないことを知り、若干がっかりしてしまった。生ゴミ堆肥化プラントも見学させていただいたけれど、良質の堆肥を作るのが第一目的ではないため、蓄ふんやもみ殻などの添加もしていない。外気と密閉された工場内は期待したような発酵臭とは程遠く、はっきりいって異臭が気になった。でき上がった堆肥を少しいただいてきたものの完熟とまではいっていないようだ。なお、希望者には無償で配布しているとのこと。

 現在、生ゴミの堆肥化に踏み切ろうとしている市区町村が増えている。その発起点はいろいろあるのだろうけれど、この小諸市のようにやらないよりは実行した方がよいし、続かないよりは続いた方がよい。その点、小諸市はえらいと思うけれど、やはりそれが肝心な農業に十分にいかされていないことが残念だと思う。

1999/12


079 藤前干潟


 今、名古屋市は埋め立てゴミをどこで処理するかで問題になっている。その第一候補地として計画が進んできたのが『藤前干潟』。周知のとおり、ここはたくさんの渡り鳥の飛来地、サンクチュアリ。多くの埋め立て反対の意見に対し、名古屋市はこんな言い訳をしたことがある(もちろん報道機関の発表だけれど)。『ここまで計画してしまっているのに、今さら変更のしようがない』由。まったく見識のある大人のせりふとはおもえない。一体計画の中にどんな判断材料があったといえるのだろう。世間が環境について考えようとしている矢先に、その生物学的影響、近隣住民や世間一般の心情への配慮といったものが少しでもあったといえるのだろうか。お粗末、オ下劣。

 行政の政策の施行というものは、平気で過ちを無視して行われることがある。長良川の河口堰、愛知万博など、計画を取りやめるということが『恥じ』とでも思っているのか。はたまた、すでに相当額の裏金が動いてしまっているのか知らないが、未来の子孫のために、あるいは、市民の『環境を守らなければいけない』という意識を喚起する意味でも、勇気ある決断がなぜできないのだろう。とにかく、良識のない一握りの政治家、行政担当者、企業のおかげで世間や自然環境が迷惑をこうむるということではたまらない。

 分別のない子供ならまだしも、世間を引っ張っていってもらわなければならない、いわばリーダーなのだから、取るべき態度はもう決まっている。


080 続 生ゴミコンポスター


 音羽町の農協はひまわり農協という名称。これは、豊川市と宝飯郡の4町(音羽、一宮、御津、小坂井)の農協が合併して組織されたもの。その中でもとくにひまわり農協音羽支店は、音羽減農薬米をはじめ、有機農業にも積極的にかかわってくれている。

 先日、そのひまわり農協音羽支店のグリーンセンター(主に音羽町の農家がその農産物を持ち寄り、販売している)の駐車場で、恒例の農産物の品評会が催された。持ち寄った腕自慢の野菜、花卉、自然薯、加工品(漬物など)を展示審査し、優秀なものには賞が与えられる(道長の漬物の原料の野菜を作って下さっている鈴木慶市さんは、『かぶ』で賞を取りました)。その会場の一角をお借りして、『生ゴミ生かそう会』のコンポスターも展示させていただいた。寒風吹きすさぶ一日ではあったけれど、品評会はなかなかの盛況ぶり。我らがコンポスターも期待以上の反響を得て、『店番』の鈴木さんとぼくも生ゴミ堆肥のサンプルを配ったり、コンポスターについての説明で大忙し。新しい会員も2人ほど増やすことができた。感触十分といったところ。

 来年は、農協と普及センターの協力で住宅地近くでの『貸し農園』の計画もあり、みなさんに使ってもらえる生ゴミ堆肥を量産しようとただいま思案中。