091 廃 車

 長年働きつづけてくれた我が愛車マツダボンゴブローニーを今回、買い換えることとなった。とはいっても、贅沢はできないので中古車。かかりつけの自動車屋氏に半年ほど前からお願いしておいた『程度の良い』出物が見つかったため。

 愛車ボンゴブローニー、けっこう長く乗ったものだと車検証を見てみると、登録は昭和62年5月25日とあった。かれこれ12年が経過していることになる。走行距離も17万8千km。音羽に作業所を移転してからしばらく雨ざらしにしていたこともあって、あちこちサビが出たり、窓ガラスのゴムパッキンが縮んではずれてしまったり、運転席のシートが破れたり。過去にはけっこうお金をかけて修理もし、ここまで大事に使ってきたのだけれど、最近は遠乗りがちょっと心配にもなってきていた。

 今から12年前、一体道長はどうしていただろう。自分ではじめてしまった漬物屋だけれど、漬物をつくって売るだけでは生活など成り立つはずもなかった。仕方なく自分で漬けた漬物の他に安全な食品を車に積んでは、あちこち団地などを売ってまわったもの。曜日によって場所を決め、人気アニメの主題歌を流しながら売りまわった。漬物屋一本でやってゆくつもりなら、売ることに時間を費やしていてはいけない。ということで、スーパーなどを開拓していたころだった。

 スーパーに漬物を置かしてもらう、ということは結局は長続きしなかったけれど、その間にけっこう漬物業の修行もさせていただいた気がする。その間に、あちこちの自然食品を扱っている店や共同購入会などを紹介してもらえるようにもなってきた。その当初からお付き合いしていただいているお客様には、今考えてみても、そうとう迷惑をかけてしまったな、と、ちょっと恥ずかしい気持ちにもなってしまう。

 いままでここまでやってこれたのは、少しくらい塩辛過ぎても大目に見てくれたそんな方たちのおかげだな、とつくづく思う。漬物製造業という看板を出してはいても、まだ知らないことやしくじりもあったりするし、そのたびごとに『無知の知』。

 そんな道長の歴史のなかで、愛車ボンゴブローニーにもほんとにお世話になった。野菜を満載して走ったこともあり、きょうの食いぶちとしてはあまりに少なすぎる荷物を積んでも走ってくれた。
 「あす、納車します。」という自動車屋氏の電話にあわてて、積みっぱなしの荷物を降ろし、最後のドライブをちょっとそこまで一回り。新車で買ったときの気持ちがよみがえってきた。愛車はぼくがアクセルを踏むと、新鮮でさわやかな加速感で答えてくれた。今までごくろうさまでした。


092 水槽という飼育環境


 道長の作業所には、熱帯魚もいる。グッピーだけを入れてある水槽もある。グッピーは卵胎生のメダカで、その繁殖力の旺盛さゆえに一度飼い始めれば次々と仔が産まれ育つため、寿命で死ぬものがあっても水槽内の個体数が減ることはない。雑種の安価なグッピーを飼うのであれば、ほんとに経済的な熱帯魚といえる。もっとも飼育条件が良ければということなのだけれど。

 ただ、繁殖力があるからどんどん増え続ける、というわけでもない。小さな水槽という限られた大きさの中では、個体密度が低いあいだは産まれた稚魚が成魚に食われたり死んだりする率が低く、個体数は増えつづける。けれどもその密度が高くなるに伴い、成魚まで生き残る個体数が次第に減ってゆき、最後にはもうそれ以上増えなくなってしまう。あとは飼育水槽の条件を良好にしておけば、その状態が保たれてゆくこととなる。ただこの場合も自然界よりもずっと個体密度が高いわけだからそのままにしておいたのでは水が汚れ、環境が悪化し、最悪、絶滅というあわれな末路となってしまう。だからそうならないうちに飼主が掃除、水換えをしてやらなくてはいけない。

 これをわれらが地球に例えてみるとすると、いったいどうなのだろう。地球という実は閉鎖された空間の中で、人間はどんどん増殖しつづけてきた。それに反してその生活環境は悪化の一途で今日に至っている。それもそのはずで、グッピーの水槽は飼主が掃除をしてくれるから環境が保たれるのだけれど、地球の場合はグッピー役の人間はいても、飼主役がいてくれるわけではない。だから人間は水換え、掃除を自らでしなくてはならないということになる。

 ここで問題なのは、水換え、掃除ででたやっかいな汚物をどうするかということ。グッピーの水槽にあたる地球という空間から外に汚物を捨てるわけにもゆかないということ。情けない話だけれど、産業革命以来、そういうことに科学は知恵を使うことをしなかった。もっともそのおかげでここまで産業、経済は発達したのだろうけれど。都合の悪いところを『神様』に押し付けないで、これからの地球の環境を考えてゆかなければならない。

093 パソコン


 パソコンを買ってかれこれ5ヵ月が経ってしまった。その間の成果は、というとこれがはずかしい話、大したことがない。いろいろ格闘したわりにはいずれも中途半端。 

 当初、まずは受注から出荷、請求書、売上管理までをオリジナルな形ですっきりまとめようと思っていた。にもかかわらず、このマイクロソフト社のアクセスというデータベースソフトはなかなかのくせもので、一般的な形式のものは創れてもちょっと変わったことをしようとするとどうしたらよいのかわからなくなってしまう。とうとう関連の参考書を3冊も買ってしまったりして。今度はその3冊が頭の中で消化不良をおこして、迷宮に入り込んでしまう始末。

 音羽商工会に助けを求めたところ、なんと県からプロの先生を派遣してもらえるということに。2回の出張とプログラミングは無料と聞き、ほっと一安心。時間の無駄はできないと、「ここをこうして」「伝票のサイズは..」「こんなことができたら」、など要約しておいた。

 『先生』はなんと女性で、個人でビジネスしていて商工会と契約している。ぼくの簡単な説明と用意したレポートとパソコンの中の『迷宮』を1枚のフロッピーに保存して、あっけなくその日は終了。それほど大層もないのだそうだ。ともかく、只の仕事なのでソフトの完成には若干の時間がかかってしまうけれど、いっきに肩の荷がおりた感。

 というわけでホームページを作りたい、あれがしたいこれがしたいと考えているうちに、あれもやりこれもやりしているうちに5ヵ月が経ってしまった。かといってまったく何も成果がないというわけでもない。パートさんの時間給を分単位で簡単に計算できる『ソフト?』も完成(電子式のタイムレコーダーがあればこんなもの必要ないのだろうけれど)。これは我ながら自信作で、すでに導入済み。

 いままで散々パソコンをひねくったおかげで、そのおおまかなところが理解できたような感じ。便利な道具として、まがいなりにも使えるようになるように、気長に楽しんでゆくつもり。ご指導、おねがいします。


094 ふれあい農園


 今年1月末、音羽米研究会と農協の主催で、町内の住宅地付近に『ふれあい農園』というタイトルの貸し農園の企画が実行の運びとなった。生ごみ生かそう会も協力、ということで参加者に無料で自由に使ってもらえる牛糞堆肥を供給。ふれあい農園の一角にとなりの一宮町の畜産業者からいただいてきたものを、2トンダンプ2杯分山積に。これはけっこう好評で、ダンプ1杯分がすでに使われた。

 さらに、これは試みとして、ふれあい農園の一角でちょっと変わった方法での生ごみの堆肥化をしてみた。井戸を掘るときに使う土止めのためのコンクリート製の円筒形をしたもの(井戸丸というそうだ)を利用して(側面にはたくさん穴をあけておく)、その中に生ごみ(近くの事業所より約100kg)ともみ殻、おから、米ぬか、そして、我らがコンポスターから抜き出した一次発酵生ゴミ少々をよく混ぜて仕込む。3日後には発酵も順調に進み、その温度は60℃まで上昇。現在は3回目の切り返しを終え、熟成中。この『井戸丸』を使っての生ごみ堆肥作り、利点はカラスや野犬などの食害がないことと発酵臭がもれにくいこと(約10cmの厚さでもみ殻をかぶせるため)。やはり欠点もあり、井戸丸本体が重いため、リフトの力を借りなくてはならないこと。コンクリートは断熱性に欠けること。とにかく、結果としては上々。

 この『ふれあい農園』、ひとマスが150uで現在会員数は10家族を超えている。すべりだしとしては順調といったところだけれど、なにしろ素人ばかりの農園なので作物づくりに技術的な間違いがあったり、施す堆肥の量が少なすぎたり。普及センターが『ふれあい農園』開設にあたり、栽培方法などの説明会を簡単にしただけで不充分な感じもあったような気もする。やはり、青空のもとでの実地の指導もあってもいいと実感。

 もともとこの『ふれあい農園』の企画は、水田の減反対策もあったのだけれど、「もっと農業、とりわけ有機農業を知ってほしい。消費者の立場の人たちと農業者とのふれあいの場が持てたら、という願いも込められている。そして音羽町を有機の里に!という夢も。

 ふれあい農園はまだ始まったばかり。



095 OB会


 昔の学生時代のなかまと出会える機会として同窓会やOB会というような趣向があったりする。ぼくの場合はこういった席はとんと苦手な方で、よほどの場合でないと出かけない。

 その理由はといえばいたって単純で、普段積極的に交流を求めていない人たちとの会合にわざわざ出向いて、思い出話や世間話をするのが苦手だから。昔からの知り合いで話したいという連中とは、盆や正月に寄り合ったり、適時会ったりしているのだから別に不便も感じない。だからたとえば、某出身大学の同窓会の案内などが寄付金の催促といっしょに毎年毎年むなしくも送られてくるのだけれど、もう10年以上も封も開けずにごみ箱行きになっていたりして。もちろん20年以上、懐かしんで母校を訪ねたこともない。「あんたは少し極端すぎる」、と女房氏にも言われるけれど、実際『そういうこと』には興味がないのだから仕方ない。 

 ところが今回、それこそ20年振りくらいで学生時代の『某文科系サークル』のOB会に出かけてきた。当時、同じような意識の者同士の集まりだったので、気楽に会えそうだと思ったから。このOB会もほんの昨年、名古屋で旅行社をやっている先輩の音頭取ではじめられた企画(もっとも昨年は仕事の都合で行けなかった)。

 当日、少し遅れ気味で会場に入って驚くやら安心するやら。とにかく誰ひとりとして『変わってしまった』という一人がいなかったこと。なぜかしら、全員20年以上の昨日から、たった一日ぶりで会っているのではないかしらんという錯覚に陥るほど。白髪、シワ、禿げげなど、 外見の変化を除いて他は何も変わっていないことに驚いた。

 当時(1971年)、同じ目的意識をもっている連中の輪のなかに入っていって、しかも70年安保の余震と残務整理のなかで「自分たちの文化活動とは何なのか?」などという命題と問答に明け暮れた日々。おかげで目的の活動はさっぱりしなかった。先輩に言われた。「おまえはあのころも変わっていたが、やっぱり今も変わっている。そんなふうでやっていられるおまえはえらいもんだ」。

 みんなずっと同じ意識で生きているんだな、と実感し安心したのだった。


096 口色川共同畑研究会


 今年の梅の作柄、他の産地ではさほどではないものの、我らが梅ぼしの産地、和歌山では最悪との知らせを那智勝浦口色川の共同畑研究会からいただいてしまった。とくにひどいのが『南高』という和歌山特産の品種。今年の梅の開花時期、南高だけが他の品種と大幅にずれてしまったことなどで、受粉が行われなかったのが大きな原因(梅は他品種との間で受粉、実ができる)。今年も梅がダメ、とばかり言っていられないので、早速勝浦に行って話し合いを開いていただいた。幸い、勝浦から約40Kmの熊野市金山町に大きな梅畑があり、収獲させてもらえるというので現地へ見聞に。

 『金山パイロット』という農場は金山町の複数農家の共同経営。ざっと5町歩くらいはあろうかという広大な梅畑には、植えられてから10年ほどの青年木がみごとに立ち並ぶ。とはいえ、ここも後継者不足のおかげで梅の世話まで手が回らず、雑草でいっぱい。梅の収獲の前にまず草刈りからはじめなくてはといったところ。いずれにせよ、ことしの梅は一安心。と、それはそうと、われらが共同畑研究会に新たなメンバーが加わった。一家族(2名)と一人。益子さん夫婦は川崎からの入植で、奥様真紀子さん(33)の病気をきっかけにご主人保美さん(34)の決心で保険会社を退職しての入植。昨年秋、道すがら、道長へ立ち寄ってくださった時の保美さんとは見違えるほど、一段と男丈夫の笑顔のすばらしい男性なのでした。現在入植者用の宿舎での生活だけれど、南平野地区に新居を共同畑研究会のメンバーの協力で建設中。もう一人、佐藤陽子さん(28)は神奈川県三崎からの入植でもとYMCA勤務。自らの住むべき『地』を求めて秋田までたずねたそうで、でも、やはり温暖な勝浦がいいということで入植。陽子さんはなんとまだ独身。というわけで口色川では民家の多い、安全な場所のこじんまりした空家(ちょうど1軒開いたのだそうです)に一人住まい。女性とはいえ、共同畑のほかのメンバーとかわらない共同作業(茶摘みなど)もこなしている。こんな若く美しい女性が入植したくなるほど、ここはすばらしい桃源郷なのだろう。

 口色川の生産物三本柱、米、お茶、梅。若さあふれる口色川の農夫たち。音羽町からもエールを送ります。



097 まぼろしの街


 先日、67歳のぼくのいとこが亡くなった。哀れにも彼の一生は傍目にもまったくの薄幸で、せっかく借りた葬儀社のホールもほんの身内と数名にも足らない葬列者だけの寂しい葬式となってしまった。

 『虫の知らせ』とでもいうものか、さらに二週間もたたないうちにその母親(身内の見分けもできないほどボケてしまっていた)もカステラをのどに詰まらせて逝ってしまった。

 もう寂しい葬儀はやめようとその喪主(今回はその孫)と身内で相談し、しばらく空家になっていた実家を片付けてにわか作りにも似た葬儀をとりおこなった。狭い居間には祭壇も無理なので、棺おけと線香台、鯨幕だけの質素なもの。とはいえ、おりしも通夜の晩はぼくのおばの好きだった当地の祭礼となり、三々五々近所の人が訪れてくれてよいおとぎの夜となった。翌日の葬儀の後の精進落しも歩いてゆける近くの洋食屋での簡素なものとした。コンソメスープと洋風の揚げ物とライス。そういえばこの洋食屋(屋号を『安兵衛』という)、ぼくが幼少のころ、ほんとにたまに(高級だった!)連れていってもらったもの(店に入ったとき、あのころのあのかぐわしいまさにあのチキンライスの香りがたちこめていた)。

 同席してくれたおばの隣家の娘さん(あのころ遊んでもらった)と幼き頃の話で盛り上がった。『安兵衛』の南となりには公設市場があり、ドラム缶を半切にした水槽にいっぱいのドジョウを串にした蒲焼を買ってもらった。さらに向こうの角を右に曲がると『有楽座』という邦画専門の映画館があり(『安兵衛』の北へ数十メートル歩いても『世界館』 という洋画専門の映画館があった)立錐の余地もないほどの人ごみで声だけしか聞こえてこないチャンバラ映画を見物したもの。その帰り道の『世界館』のとなりには『かどや』という駄菓子屋があり、おばにねだって何かを買ってもらったもの。

 そんな懐かしい街並みがいまはもうない。あの頃、街は人々の活気であふれていた。人々の笑い声、話し声、商店の売り声。そんな喧騒で満ちあふれていた。そういえばあの活気は一体どこにいってしまったのだろう。なんとなくもうみんなまぼろしのようで、たまらなくその『安兵衛』の存在が懐かしい。「さようなら、おばちゃん」。


098 ふれあい農園の経過


 音羽米研究会主催、後援ひまわり農協、農業改良普及センター、サポーター生ごみ生かそう会で今年1月末より動き出した『ふれあい農園』。当初区画の抽選には8名(家族) のみであったのが、現在では20名ほどとなり一時札止めの状態。5月12日、素人ばかりの農場主たちをあつめて青空のもと、日ごろの疑問を解消すべく、講習会が開かれた。
 普及センターから、農協から数名のアドバイザーが出席。それに対して会員十数名が参加。ぼくなどはほんの物見遊山のつもりでカメラ片手に出かけたのだけれど、実をいうとびっくりしてしまった。それぞれの会員、『先生』をつかまえてアドバイスを受ける態度は真剣そのもの。そういえば、ふれあい農園の間近の団地の集会所で講習会を開いたときには会員もほとんど集まらず、質問もあまりでず、講師の話もいまいち弾まなかったもの。やはり現地で自分の畑のできばえを見てもらいながら、というのがいいのだろう。3月から4月に種まきしたほうれん草やサニーレタスがそれらしい姿に育っていたり、農協の直売店のグリーンセンターから仕入れてきたのか、なすやピーマンの初々しい苗たちがいかにも大切げに植えられていたり、とにもかくにも会員たちの熱い思い入れを感じさせる菜園の風景。とにかく、平日にもかかわらずこの盛況ぶりには感服。

 この『ふれあい農園』の企画には、単に減反政策の『穴埋め』としてでなく、農業をもっと知ってほしい、もっと身近に交流しあいたい。家庭菜園を通じて有機農業の意味を考え深めてほしい、などなど、音羽米研究会やそのサポーターたちの熱い願いがこめられている。農業者と消費者が『農』を通して理解を深める。安全でおいしい農産物の必要性。それを生産することの重要な意義。食生活という消費行為のなかで、大切にする心、無駄をしない心がけ。にもかかわらず発生する調理くず、食べ残しはありがたくリサイクルして土に返してやろう。そんな心の循環をこの町に育んでゆきたい。

 現在『ふれあい農園』は満員札止めの状態なのだけれど、音羽米研究会の田植え仕事が人段落つけばさらに拡張の予定。今後さらに活発ののきざしを見せる『ふれあい農園』の近況。



099 Recycle of Garbage


 生ごみを堆肥化する。という動きが各地で試行されている。音羽町以外の近隣の市町村でも、多くのグループがそれぞれの活動をしている。最近になってそういうグループの人たちが、われらが生ごみ生かそう会を訪ねてきてくれるようになってきた。いずれも豊な環境を次の世代に受け継いでゆきたい、という共通の願いをもっているひとたちばかり。

 こういった願いをよそに、生ごみなぞ他の可燃ごみといっしょに高温の焼却炉で燃やしてしまうのがいちばんてっとりばやくて安上がりだと考えている人たちもいる。そんな諸兄に今さら説明するのもどうかと思うのだけれど、あえて一言。

 そういった安易なものの考え方のおかげで、今のこの状況が現出されていることを再認識するところからまずはじめなければならない。その考え方では、このせまい宇宙船『地球号』は飛びつづけることができないのです。

 現在、今まで不燃ごみとして扱われていたビン、缶、プラスティックなどがリサイクルの対象となり、分別収集されるようになった。おそらく、それに取り組むことが自治体としてあたりまえ、という考えには誰もが納得のゆくところ。ぼろきれやだぶつきぎみの古紙にしても、やはり分別を徹底して回収リサイクルしなくてはならないことは周知の事実。そんななかで絶対に困難なもの以外は、リサイクルしてゆかなければ私たちを取巻く環境を良くするどころか、維持することすら難しいことは必至。

 問題の生ごみをどうすべきか、の答えはもうここに明白で、やはりリサイクルしかありえない。分別もさらに進めば最終的に残るのは一部の不燃物と可燃物、生ごみ。90%が水分のこの生ごみを前にして「燃やす」という発想は考えられない。いくら燃やす方が安上がりといえども、何の役にも立たない灰にしてコンクリート詰めの埋め立てごみにする方がいいか、経費をかけて堆肥にして安全でおいしい農産物の生産のために役立てるか、という二者択一を考えればもうだれにも答えは明白といわざるをえない(自然界の掟に従うのです)。

 環境の時代をむかえたことを自覚したわたしたち。次の世代のひとたちに引き継げるバトンを今、握るときなのだと確信する。

100 額田町立額田中学校


 音羽町の北隣に額田郡額田町がある。額田町は人口が音羽町と同じくらいで約9千人ほどの中山間地の町。

 交通不便な山間地のため、町内に1校しかない中学校には寮があり、全校生の約3分の1が寮生。この額田中学校では、環境教育の一環としてすでに4年以上、給食で出た残飯などを生ごみ処理機を使ってリサイクルさせる活動をしている。そんな活動風景を見学させていただけるというので、生ごみ生かそう会の有志を募ってでかけた。

 ちょうど給食の終わる1時頃生ごみ処理機を見学。担当の倉田先生の指導のもと、各クラスから順番で係りをつとめる4名の男女が処理の終わった生ごみを取り出したり、処理機を掃除したり。

 生ごみ生かそう会のコンポスターと違う点をあげてみると...、@電動式で発酵を促進するために加温している。A生ごみの処理が24時間で完結する(加温により乾燥するため)。B脱臭装置が完備されており、異臭がまったくない、等。生徒の親に誤解を与えないために、不潔感をまったく感じさせないシステムとなっている。そもそも生ごみ生かそう会のコンポスターは、すべて人力で自然に任せた発酵をさせること(当然堆肥が出来あがるまでに4ヶ月はかかる)と、多少匂いが出ること。それと、当中学校の処理機でできるものが完熟した堆肥とは言えないのに対して、生ごみ生かそう会ではそのままでも作物が発芽するほどのものができあがること。

 とはいっても、額田中学校の生徒は実際に生ごみがもういちど有効な有機質肥料として生まれ変わるプロセスを目撃するわけで、そのことは非常に重要な経験なのだと思う。すくなくとも彼等は生ごみを埋めたり、燃やしたりして無益なものとして処理するものとしてではなく、貴重な資源として認識するだろう。わたしたちおとなの代ではなかなか難しいであろうリサイクルシステムも、かれらの代ではごく自然に行われるようになるのだろう。いずれにしても、来るべき時代のためにわたしたちにできることはその『支度』程度のことくらいなのかも知れない。彼等の時代には、循環社会が実現されていることを願って。