101 蛍狩り

 梅雨に入った。宵が暗くなってくると気になるのが、蛍。今年も蛍の季節になった。

 光の大きな源氏と控えめの平家は同じ時、場所での競演というわけにはゆかない。源氏の方が時期が少し早く、しかもきれいな沢水を好むようだ。音羽町を峠を隔てた額田町鳥川(とっかわ)では、その源氏が今、さかん。

 音羽の作業所からの帰り道、いつもとコースを変えて少し遠回り。鳥川川(とっかわがわ)沿いに下って行くと数人の見物の人影。早速車を止めて行ってみると、そこには夢のような別世界が繰り広げられていた。沢の水音だけの静寂の闇のなかを、たくさんの青白い光がまるで夜空の天の川のようにまるで脈を打つように、息づくように、シンフォニーを奏でるかのように、リズミカルに漂うように。

 去年もこのあたりを『蛍狩り』によったのだけれど、どうやら今年のほうが成績が良い模様。この鳥川では蛍を繁殖させたり、環境を整えたりで保護をしているため、毎初夏(梅雨時)決まって蛍狩りができるというわけ。額田町立鳥川小学校での長年の蛍養殖は有名。

 そんな蛍の宴に、なんと地元の人たちによる『五平もち』の販売まででて、まさにお祭り気分。そういえば僕が子供の頃、近くの小川によく蛍を見に行ったもの。あの頃も、細い土手の道には近所の人たちが蛍狩りにきていたもの。僕らなど、ほうきや笹の枝などを持っていって、それに羽根やすめにとまる蛍をそっと家まで持ちかえり、蚊帳の中に放したりして蛍の光の軌跡を楽しんだりもした。

 『蛍』。その言葉に私たちはなぜかしら、遠いむかしの夏の夜のひとときを思い出す。蛍、その幻想的な光はたとえば自動車のヘッドライトなどとは、比べ物にならないほど淡くたやすくかき消されてしまう。なのに遠いむかしの蛍の想い出はこんなにも鮮やかなもの。そんな想い出を、僕たちの子孫たちにも残してやれたらすばらしい。音羽の蛍ももっと保護がしてやれたらと思った。


032 循環型社会


 ゴミの問題が世間で話題になっている。どうしたら減量できるのか、有料化は是か非か。循環型社会をめざそう、等々。

 いま、ほとんどの市民に『ゴミ問題』が危機的状況にあることが周知となっている。そして、あちこちでそれをどうにかしようという取り組みが始まっている。いちばん一般的なのが、『生ごみの堆肥化』。自分たちの出すゴミのなかで、自分たちの工夫でリサイクル(循環)できるいちばん身近なものだからだろう。

 日本は戦後、大きく変わった。それまで物資の乏しい国なのだから、物は大事にしよう、という生活意識が常識としてあったのだけれど、手本とした米国の経済観念と『復興』のためのエネルギーのおかげでその意識はどこかに吹っ飛んでしまった。そのおかげで急速に日本経済は成長した。現在の『ゴミ問題』はすべてそれに端を発しているといえる。

 循環型社会とはいったい何なのだろう。『すべての資源がちゃんとリサイクルされる無駄のない社会』というのが一応のこたえ。でもそれだけではいささか不充分だと考えてしまう。資源が整然とリサイクルされるためには、それを心がける人と人との『意識』のつながりが欠かせないということ。

 現在の日本の消費活動の中で、資源が循環していないいちばんの原因はここで明白なものとなる。生産者と流通業者、消費者の間にかつてはあったはずの意識のつながりが『合理化』といったような目的のために無視されることとなった。使い捨ての消費活動をあおり、企業側にとって手間と経費のかさむリサイクルの作業を無視することで、日本の経済は急成長できたことは事実。そんな経済至上主義の行く末が、循環されない資源の飽和と環境の汚染につながるであろうことはだれにもわかっていたはず。

 社会主義、共産主義が世界中で破綻。かといって資本主義にしても、それがすべてでないことは誰もが認めざるをえない状況といえる現在。すべての人が、経済とは単なる物の流れではなく、『意識』という人間関係で成立すべきことなのだと自覚しなくてはいけない。



103 鳳来町の千枚田


 愛知県南設楽郡鳳来町の千枚田を見学してきた。鳳来町は、音羽町から国道151を北上、約一時間。千枚田のある連合というところへは、長篠から東栄町へぬける山道の峠の手前までさらに20分ほど。

 鳳来町の千枚田は毎年、田植え時になるとテレビでもその風光明媚を紹介するほどのところで、多くのアマチュア写真家、画家たちが訪れる。僕たちもカメラを持っていって偉そうにアングルに凝ってみたりして。

 この千枚田は切り立った谷間のようなところにあり、その最奥に鞍掛山(くらかけやま=まさに鞍を掛ける馬の背のような山)を控えている。千枚田にはどこの地方にもそれなりの歴史があり、ここも例外ではない。それぞれの棚田をそれとなく見ていると気づくことがある。すべての棚田の土手が石組みで積み上げられている。中にはどうやってここまで運んだのだろう、と思えるほど大きな石まで使われている。と思うと、なんと田んぼの中に忽然と大岩が鎮座していたりして。人々の語り伝えによると、この谷間はむかし、百年に一度くらいおおきな山津波が起こったという。そのたびに石、岩、土が運ばれ、この谷を埋めたのだろう。そのたびに多くの村人が犠牲になり、あとには土石の野原。肉親の命を奪われてまで山から無理やりいただいた『恵み』を人々は、それでもなんとかして、土は作物のために、石は石組みのために使った。すこしでも山津波を食い止められるように、畑ではなく水持ちの良い水田を作ったのだろう。

 そのころ、人々はやっとのことで作りあげた棚田をながめてどんなに喜びに満たされたことだろう。自分たちを打ち敷いた大自然を拒むことなく、逃げ出すこともなく、『なじむ』ことで生きてゆくことを選んだ人々の心がこの棚田に込められている。どうみても邪魔っけな大岩が、それでもなんとなくほのぼのと長い歳月をこの棚田で刻んでいる。


104 ティンガ ティンガ


 豊川稲荷のすぐちかくに『ティンガ ティンガ』というおもしろい喫茶店を見つけた。この店は音楽好きばかりが集まる店で、毎月末の月曜日にはライヴがおこなわれる。夜8時を過ぎると、小さな店内は観客だかライヴの出演者だかわからない感じの多国籍の輩たちでいっぱいになる。

 密集地の店ということもあり、ハードロックなど音量の気になるジャンルの音楽はやれないけれど、フォーク、アコースティックのロックンロール、クラッシックギター、フラメンコ、わけのわからないアカペラなど、音楽ならなんでもありのライヴ。もちろんライヴといっても、出演料がもらえるわけでもなく、チケット代がいるわけでもない。ただ、音楽を奏りたい、聴きたい、楽しみたいという人たちが集って同じ時間を共有しようという『夜』というわけ。一人(グループ)に与えられた演奏曲数は3曲づつ。

 『ティンガ ティンガ』の夜の競演、実は顔見知りの人物がふたり出るというので見にいったのがきっかけ。ひとりは音羽米研究会の鈴木さんのところへバイトに来ている井上さん(なんと岐阜県から鳳来町へ千枚田を耕すために家を借りて単身生活をしている29才の独身女性)。もうひとりはその千枚田の一角で梅畑を管理している河西さん(鳳来湖のキャンプ場の管理人をしてみえる。今年、道長用の梅を収獲させていただきました)。
 河西さんの歌と曲は、彼の愛する家族と、自然、農業を朗々と表現したもので、渋く、51歳の男の年輪を感じさせてくれる。その河西さんを井上さんのキーボードがサポートして、牧歌的な雰囲気をさらにかもしている。

 この『ティンガ ティンガ』は軽食というにはもったいないほどおいしい料理も出してくれる。メニューとしてはタイ風のすこし辛めのものがメイン。青色のルーで食べさせるスパイシーなチキンカレー。甘みそ仕立てでひき肉たっぷりのミートソースのかかった冷し麺のジャージャー麺などなど。そのほか、ドリンク類もおもしろい。‘70sに帰ったかと錯覚してしまうような『なつかしい』店なのです。



105 豊明市での講演から


 豊川市の(JC)青年会議所も、ひまわり農協(音羽町を含む宝飯4町と豊川市を統括している)と協力しあって、生ごみを堆肥化する運動をすすめている。名古屋市近郊の豊明市でも同じ取り組みがなされていて、こちらではすでに市の環境課と農協とも協力しあって生ごみを分別収集するテストを進めているほど。その豊明市のJC主催でその報告と堆肥作りの専門家、橋本力男さんの講演があるとのことで、豊川JCのメンバーとでかけた。

 会場の控え室で、しばらく橋本さんとお会いすることができた。彼は最近は市民団体や企業での有機廃棄物の堆肥化のための指導や講演で自分の農園を留守にすることが多く、「草だらけで困ってます」とのこと。ほんとうにご苦労様としか言ってあげられずでほんとうにすみません。

 今回の講演では、生ごみなどの有機性廃棄物を堆肥化することの意義について。橋本さんは本題に入る前にまず、こんなことを言ってみえた。20年前、彼が完全な有機農業をはじめて6〜7年経ったころ、いまだに作物の病気や害虫の被害に悩んでいた。そのうちに、その原因が未熟な堆肥などによるものだという事実に気がついた。未熟な堆肥は、畑に入りすぎるとちょうどぼくたちがごはんを食べ過ぎたときと同じような結果となって、消化不良、さらには病気にまで発展してしまう。そして重要なことがらがもうひとつ。未熟な堆肥には有用な微生物のほかに、いては困る細菌類、病害虫がたくさん含まれてしまっているということ。だから彼は安全に自らの畑で使える堆肥を100%自家生産している。

 完熟した良質の堆肥を作るための条件として、まず好気性発酵の際にでる『熱』が挙げられる。堆肥を発酵させる場合に、条件が良いと温度は70〜80℃にも達する。その温度は好気性菌には非常に快適な温度ではあっても、多くの悪玉菌には致命的であったりする。これは雑草の種子も殺してくれるという効果もある。作物を無農薬、無化学肥料で育てようとするならば、作物にとってぜったいに安全なものを堆肥として施してやる、ということが重要。あらためて実感させていただきました。


106 骨 折


 あまり運動神経は発達しているほうではないので、幼少の折は何度か骨折、捻挫をした思い出がある。

 その1:幼稚園に入る前、雨のしとしと降る梅雨の頃、たくさんとったキリギリスのこどもを虫かごに入れていたのだけれど、それをなぜか窓から落してしまった。それを取ろうとしたつもりが、(そのときの感覚を今もはっきりと覚えている)宇宙遊泳よろしくふわっとしたかと思うと、左腕に激しい鈍痛が走った。(たぶん)火のついたような泣きわめき声に、ぼくの母親が駆けつけてきた。この時、彼女はどう血迷ったのか、前後不覚というのか、突然ぼくの腕を引っ掴んで『伸ばしたり曲げたり、伸ばしたり曲げたり』をしはじめた。これはもうめちゃくちゃで、その時の『痛さ』といったらなかった。その翌日、添え木と包帯と吊りひも姿で決まったクソ餓鬼一匹。

 その2:幼稚園卒業の頃、叔母の家に遊びに行ったとこのこと。その頃、自動車などめったに往来しない裏通りに、いつものように路地から走り出た。なんともちょうど折悪しく、通りかかった一台の自転車と遭遇してしまった。そしてなんと運悪く、その自転車のペダルにぼくの左足が挟まってしまったからたまらない。この時の痛さは『左腕』の場合とは少し違って『どーん』といった感じ。やはり大声をだして泣いたのを覚えている。その自動車、なななんとそのまんま行ってしまった(その人物、ぼくの家のとなりの町内に住むぼくのクラスメイトの兄貴。死んでも忘れません)。おばの家に連れ帰られても泣きつづけるぼくに対して、またまたどう血迷ったのか、しどろもどろというのか、今回ぼくの母親はなんと『歩いてみな』、と言ったのである。それはどう考えても無理なのに、こっちからあっちに歩行テストをさせられてしまった。これももうむちゃくちゃで、痛さのあまり平衡感覚さえどこかへ行ってしまって、ただ、コテンと情けなく転ぶぼくであった。翌日、石膏ギブス姿で乳母車で運搬される恥さらしなぼくの姿があった。
 慌て者のぼくの母親がいざというときに思いついてくれた『処置』はまさにとんでもなく残酷な仕打ちで、はたから見たらたぶん笑っちゃう。



107 公 聴 会


 まだまだ自然環境の美しいと思いたい音羽町なのだけれど、すでに2社の産廃業者が営業しており、うち1社は7年以上も営業したあげく、その焼却施設から許容値(80ng/立方メートル)の6倍以上のダイオキシンが検出されたため、その活動を緩めている。そしてもう1社は活動開始2年で、大量の廃棄物を埋めたてたあげく次の段階(家電製品のリサイクルという名目)へ移るため、やはり現在、ひっそりとしている。

 この状態は捨てておけないというので、このたび、保健所、県、町役場を席に呼んで、地元米生産者、近隣住民、消費者などとの話し合いの場が設けられた。

 悪玉の産廃業者は、法の目をかいくぐってやりたい放題をしたあげく、行政処分による撤退や営業停止を区切りに『やり徳』の『トンズラ』を決めこみ、新たな悪徳を図るというサイクルを繰り返す。現在の産廃処理法はそういった『悪意』に対してはまったくの後手法となってしまっており、これからおこなわれるであろう『不法行為』を未然に防ぐという体制は残念ながらないといえる。

 行政側の音羽町での産廃処理の現状説明のあと、住民等からの質問、苦情などが述べられたのだけれど、そのすべてに対しての行政側の答弁に、『やりきれなさ』を実感してしまう。民間からの苦情に基づき、『指導』、『処分』が日常的になされたとしても、強制力をもたなかったりするからたまらない。だからといって、民間が結束して業者に圧力を与えられるほど人々の精神は強靭でもない。だれだって関わりあいになってとばっちりをうけるのはいやだから。実際、悪意に対して善意とは情けないほど無力なことも多く、ただその悪行の『あとかたづけ』を強いられ、かろうじて人類の恥じをとりつくろうくらいしかできなかったりする。悪徳業者にやられてしまった地主は、そのあとかたづけのための費用を、その土地を売ってしまうことで捻出するしかないといった事例も少なくないとのこと。

 いま、この自然環境を守るか、改善するためにわたしたちにできることを始めてゆかなくてはならないと、改めて実感させられた。


108 夏の日


 いつものように犬を散歩につれてゆく。夏もたけなわ、そらはすみわたり、雲一つなく、木々も稲田も目のさめるような緑で通りぬける風にその身をまかせている。エネルギッシュで焼けるようで、のどかな風景。

 ふと気づいてみると、いつもと目の前の景色がちがって見えているようだ。いちばん遠くに見える空、雲、その手前の山、稲の波、草木。たとえてみると、これほどに複雑で色彩感、生命感あふれる映像は、最近のぼくの目には入って来ていなかったような気さえする。

 さらにおどろくことに、それぞれがまさに、くっきりとした立体感をあらわしていることにも気づかされる。ぼくの目が今日はたまたまさえているのか、はたまた木や山や稲たちが自分たちを主張して、その生命のエネルギーをからだいっぱいにみなぎらせているからなのか。

 とにかく、きょう、ぼくのいるこの世界ははっとするほど新鮮で、力強い。犬も息遣いを荒立てながらも、その爪音をリズミカルにひびかせながら軽快に歩いている。当然ながら、ぼくの足取りも軽く、気持ちもさわやか。こんなにすばらしい世界の中に包まれていると、ぼく自身のからだや精神が山や木や稲に共振し、一体とさえしてしまえそうな感覚さえしてしまう。

 ごく当たり前にひとつの『理屈』がわかったような気がした。この地球は、46億年くらい前に生まれ、どんなきっかけでかある日、生命を宿した。はじめはゆっくりと、でも瞬く間にこの世界は生命で満たされたのだろう。そのとき以来、すべての存在が切っても切れない絆でつながりあい、生物も無生物も渾然となってこの世界をかたちづくってきたのだろう。多少の変化はあったのだろうけれど、大方は変わらない世界が日一日、毎年、気の遠くなるような回数で繰り返されて来た。

 そしてごく最近、この世界の切っても切れないつながりあいが、『ある種』によって乱されている。野や山や、川海大気が乱されている。それなのに、この世界は全てをつつんでしまうがごとく、おおらかに、ぼくの目の前で息づいている。


109 世界の平和


 毎年、暑さのたけなわのころ、広島ではもう何十年も前に起こった事柄を思い起こすための式典が催される。今年もその夏が訪れた。もう54回目にもなるのだそうだ。

 まったく情けないことなのだけれど、時の流れは過去の出来事を、単なる歴史的事実としてしか書きとどめることができなくなる。広島、長崎への原爆投下、やはり数十年前のドイツでのホロコースト、ベトナム戦争...。その他にも20世紀に起こった戦争という愚行にともなう悲劇は、数え切れない。そして似たような事柄が、現在も世界のどこかでくりかえされている。というより、はずかしながら人類の歴史はそのくり返しともいえる。

 そんな現実の中での原爆慰霊祭、広島と長崎。にもかかわらず各国で、忌まわしい核実験がこれもまたくりかえされる。人は、その手に物騒なものを携えているかぎり、かならず誤ってそれを使ってしまうときが来るもの。

 戦争における『殺戮』ほど残忍かつ悲惨なものはないだろう。憎くもないはずの他民族を、人を人が、正義という名のもとに日常的作業として『殺す』。核兵器はそれを押しボタンひとつで完了する。これほど残忍な方法があるだろうか。

 たとえば、アメリカで。その国では、その移民の歴史が物語るとおり、自らの身を守る目的で銃が使われてきた。それは確実にその目的を果たしたといってよい。アメリカは移民、開拓の歴史の中で、この殺傷道具を余すところなく活用してきた。それはアメリカに限ったことではなく、権力機構を持つ世界の大国たちによっても便利な道具といってよい。その発展的、最終的な武器として、問題の核兵器がある。まったく世界の平和というのは綱渡りのようなもの。

 広島で、長崎でしくこいくらいに叫ばれつづける『平和宣言』。テレビのインタビューに、「ぴんとこない」という若者の発言。『平和宣言』など、ただのお題目となってしまっているのだろうか。

 そんな考え方などとんでもなく、そんなたえまない『叫び』があってこそ悪魔の兵器が使われずにすんでいる。と、信じていたい。


110 土ボカシ


 1ヶ月以上前に試みとして、『土ボカシ』を仕込んでみた。
 材料としては、@ 土:3、A もみがら:1、B 米ぬか:1、C オカラ:1、D 鶏ふん: 0.5 という割合で混ぜ合わせる。今回は、近所の豆腐屋さんからオカラを45リットルいただいたので、全部の合計が約300リットルとなった。

 『ボカシ』というのは、堆肥(土壌改良材)としてと、肥料(栄養資材)としての役割をかねそなえた、この上なく効率のよい有機資材といえる。『土ボカシ』というのは、ふつうに堆肥を作るときに、適量の『土』を加えてやるだけのこと。この場合使う『土』とは、たとえば山から切り出したばかりの『さば土』や『赤土』のようなもので、ミネラルが風雨で流失されることなく多量に含まれているもの(もちろん余分な雑菌、微生物もいない)。だから、川砂のようなものは使えない。

 ふつうの堆肥作りの過程で『土』を適量混ぜ合わせると、がぜん、微生物の活動が活発となる。『土ボカシ』の山の発酵による60℃以上の温度も不思議なほど長続きし、その香りもよい。

 『土ボカシ』を仕込んでから、4〜5回の切り返し後、2〜3ヶ月間熟成してやるとできあがり。『土ボカシ』を畑に施すには、ふつうの堆肥の量の約2/3程度でよく、肥効の持続時間もぐっと長くなり、葉もの野菜のように追肥の不可欠な作物にも安心して使える。

 『土』を加えるとなぜこんなにすばらしい有機資材になるのだろう。もともと微生物のふるさとが『土中』で、かれらはその微量要素豊富な環境の中で、活気付く。『土』に含まれるミネラル類は、微生物を介することで作物に吸収されやすいかたちとなる、のだそうです。

 秋冬作の白菜あたりで試してみよう、と、今から音羽の農業を考える会の鈴木慶市さんと楽しみにしているところ。