121 つけものの仕事

 自分自身の生活とはいったいどんなものなのだろう、と、考える。

 朝は七時頃起きて、片道22 Kmの道のりを約30分かけて自動車で音羽町の作業所へ通う。そこでは愛犬キクと6羽のチャボ、大小8個の水槽の魚たちが、大いなる『つけもの仕事』とともに待っている。いずれも手のかかるものばかり。その中でも、ほとほと手のかかるのがなんといっても『つけもの仕事』。

 つけものは眠っているわけではないので、常々その様子をうかがっておく必要がある。今まで、道長の歴史?でそれをしなかったおかげでたくさんのつけものをだめにしてしまったもの。ある日、おもいだして冷蔵庫の中のつけものダルのふたをあけてみる。とてもではなくまずそうな臭いに『しまった』。穴を掘って埋葬ということに。供養塔でも建てておまつりしたいほど。かとおもうと、おいしく漬かっているのにだめになったとおもって埋葬してしまったりして(つけものが本当においしい状態というと、「ちょっとあぶなくなった」頃合だったりする)。売れずじまいで、みすみす見殺しにしてしまったことも。

 最近ではそういった「ごめんなさい」ということがほとんどなくなったようにおもう。ある程度、上達したのかもしれない。もっとも、まだまだわからないことが山ほどで、つけもの名人にでも弟子入りしたいほど。

 考えてみると、最近はつけもののことが頭から(心の中から)はなれたことがないような気がする。一年間のうち、360日くらいは音羽の作業所へ通ってきていて休業日のはずの木曜日でさえ、何かしら仕事らしきことをしてしまっている。こんなことではいけないのかもしれないのだけれど、そんな日課にまったく違和感を感じていないところがすごいと思う。もちろん後継者というものが有りうるならば、そんなこと奨励などしないのだけれど。ただ、ぼく自身の生活というか人生がそんな中で、はっきりと見えてくるような気がする。


122 産業廃棄物処理展


 名古屋の湾岸、ポートメッセというところで、『廃棄物処理展』というのが開かれているというので、有志があつまって出かけた。農協のワゴン車に9人がすし詰めで。

 久しぶりで国道23号を抜け、将来第二東名となる伊勢湾岸道、潮見と金城埠頭を結ぶ中央大橋(トリトン)を渡ると会場。ぼくのような田舎者にとってはこんな巨大なつり橋や高架道のような構築物を目の当たりにすると、おどろきでただうなるばかり。

 『廃棄物処理展』には多くの関連企業が産業用、家庭用の様々なリサイクル用機械、システムを展示。ぼくたちはもっぱら生ごみ処理についての展示に興味津々。ぼくらが『生ごみ生かそう会』をはじめた二年ほど前には、まだあまり目立たなかった『生ごみたい肥化』だったけれど、今では多くの機械メーカーが開発競争にしのぎを削るほどのビジネスとなっている。以前は投入される生ごみを、発酵というよりは電熱で乾燥させてできあがり、といういいかげんな方式が多かったものの、今回見学したところではかなり改善され、完成されてきている。電気で加温するのも微生物の活動を促す程度。発酵をさらに促進するため、木材の微細なチップやもみがら、さらに微生物資材もプラスする方式が多い。ただ、産業用の中、大型の機械となると、生ごみをたい肥化するというよりは、減量する方向に偏りがちなのが少し気になるところ。

 兵庫県の福永微生物研究所というところの出展には、とくに興味をひかれた。そこは産業廃棄物処理業者なのだけれど、すでに30年来、有機性廃棄物のたい肥化を試行していて、そのシステムは宮城県のハザカプラントというところとコンセプトはおなじ。わたしたちのために犠牲になった動植物。その残さを焼却処分してしまっては申し訳ない。せめて有用なたい肥に再生してやる。それがせめてもの『礼儀』でもあるのです。


123 未 来


 小学校の頃、今から40年くらいもむかし。『小学○×年生』とか少年雑誌をひらくと、『未来の世界』とかなんとかで未来の社会の想像図がよく紹介されていたもの。雲の上までそびえるビル、空を横切る立体交差の道路。そこを音もなく走る流線型の乗り物。『間近のビルのベランダに立つ親子がそれを指差している』の図、などが定番だった。未来社会では、わけのわからないような風体の宇宙人とも平和な交流があったりして。そんな夢のような図をながめては、西暦2000年になったらこんな風な世の中になっているのかしらん。はやくおとなになって、その時代を見てみたいと思ったもの。

 その後、世の中は確実に進み、東京オリンピックを皮切りに、近代的な建造物ができ始め、大阪万博、アポロの人間月面着陸。なんだかんだで瞬く間に歳月が過ぎてしまった。気がついてみると、はやくも西暦2000年。新世紀とも言われた20世紀もはや、終わろうとしている(ぼくも歳をとった)。そんな現代の大都市を一見すれば、たしかにあのころ夢見た未来は確実に実現されてきていて、すばらしい。

 むかし、SF(サイエンスフィクション)などというジャンルの小説が流行ったもの。そこでよく取り上げられていたテーマが『人間性』や『戦争、平和』など。そのなかでは、憎しみや殺りく、破壊、侵略、戦争などという、人類を破滅に導くであろうマイナス要因を根本的に解消することのできた、いわば、『理想社会』が夢見られたもの。そんな社会での人間性には矛盾も生まれるだろうけれど、きっと偉大なる人類は理想的な未来に近付いてくれるのだろう、と、大いに期待もした。表面的には世界は(その一部を見るにつけ)進んだかもしれない。けれど、むかしSFで夢見られたような『理想社会』など、どこにも見当たらない。自然環境も破壊されつづけている。

 理想的な社会を夢見る以前に、現在の深刻な状況を改善するほうが先決なのかもしれない。それすらも難しいとすれば、お先真っ暗という気もしてしまったりして。でも、夢はやはり、明るい未来なのです。


124 お客様


 われらが生ごみ生かそう会は毎月一回、第二火曜日に例会を開いている。全員仕事をしているので、それが終わってからの会合。一月の主だったところの報告や多少の意見交換などで、1時間くらいで終わる。

 今月の例会にはお客さんがあった。名古屋大学の農学部の4年生、女子学生。卒論のために生ごみのリサイクルを選んでいるため、そんなことに取り組んでいるグループなどの話を聞きたいというので、県の農業試験場の技術員についてぼくたちの会合にも顔を出してくれたというわけ。

 久々、若い、それも女性のお客様に少々かたくるしい雰囲気もあったのだけれど、二日後にせまった『農産物品評会』(そのイベントに生ごみコンポスターを展示するので)の打ち合わせや、生ごみ堆肥、土ボカシを使ってのほ場テストの報告などで会合は手っ取り早く終了。場所をかえて食事をしながらの意見交換となった。平田さんという彼女は、筆記用具を手に、用意してきた質問事項はけっこうたくさんといったようす。

 そんななかで、いちばん核心となったのが、有機廃棄物を社会で循環させるためになにがいちばん肝要なのかというはなし。いろいろな自治体などで、生ごみのたい肥化への取り組みがなされるようになってきているのだけれど、その試みがすべてうまくいっているというわけでもない。単に『生ごみの減量化』に主目的がいってしまったりすると、異物だらけのたい肥しかできずで農家も只でも引き取ってくれないということにもなりかねない。

 海外からは値段の安い、がしかし、安全性の点で疑わしいといわざるをえない農産物が、低下してしまった日本の農業自給率の空白部分にすんなり入り込んでしまおうとまさにあの手この手。これから日本の農業はその根本の部分から、本来あるべきスタイルとして、ごく自然なかたちのリサイクルを目指してゆかなくてはならない。そのためにみんなで、子孫のためにもがんばろうと、一同意見一致ということでお開きとなった。


125 サ ン タ


 毎年年の瀬の今ごろになると、少年少女たちにとっていちばんのたのしみは、クリスマス。とくに小学中低学年の子供というものは、どう無理をしてか、サンタクロースというものを信じてやまない。

 我が家では(もうむかしのことだけれど)、四人の子供たちはがっちりとサンタクロースというものを信じていた。大体、だれが考えてもこの現代にそんな殊勝な人物がいるはずがない。へたをするとドロボウと間違えられて大変な目にあわなければならず、とてもじゃないけどやってられない。

 サンタクロースは日頃は郵便や新聞配達、おまわりさんなどの仕事をしていて、どこの家にはどんな子供が何人いるかなど、その家族構成には詳しい。サンタは世の中に何人もいて、組合のようなものを作っていて、おもちゃなど、共同仕入れもしている。仕事の稼ぎの中から、子供たちに配ってあげるクリスマスプレゼントをひねりだしている。だから、どの家の子供のところにも参上できるわけでもない。一人っ子や二人兄弟の家、金持ちの家には(そういう家庭ではプレゼントは間違いなく買ってもらえるから)必要がないから行かない。子供が多くて、経済的にもあまり余裕のない家や何らかの理由でプレゼントがもらえない子供の家を訪れては、しあわせを分かち合おうというこの上もない慈善家というわけ。特別にほしいプレゼントがあれば、あらかじめ紙に書いて、窓に外に向けて張っておくこと。サンタはそれを見てプレゼントを仕入れるわけだけれど、あまり高額なものは申し訳ないから、遠慮をしよう。というような理屈を、我が家の子供たちは100%まるのみにして、イヴの夜を待ちわびていた。その輪にプラス二人の甥っ子も乗っかるものだからもう大変で、六人の子供たちがサンタを目撃しようと息を潜め、がしかし、やっぱり深い眠りに落ちてしまうという、どちらみちサイレントナイトが毎年過ぎていった。

 最近、大きくなった子供たちとクリスマスの話題となった。他の家の子は親からプレゼントをもらっているのに、家ではサンタクロースということが恥ずかしくて友達にも言えなかったのだそうだ。苦笑。


126 クリスマス


 前回にひきつづき、クリスマスの話題。
 ぼくの家は二人兄弟(姉とぼく)なので本来、来てくれないはずなのだけれど、小学低学年のぼくと高学年の姉のところにはサンタクロースが来てくれていた。だからクリスマスイヴともなれば、うれしくてしょうがない。

 あるイヴのこと、姉がサンタはじつは母親と父親なんだ、とぼくに告げた。そのときの感想についてあまりはっきりとおぼえてはいないけれど、とにかくショックであったにちがいない。その夜、その事実を確かめようという気持ちと、「そんなばかな」という半ば失望感とでもう眠られず、まんじりともしない夜がふけていった。子供たちはきっと寝入ったにちがいなかろう頃合に、突然にしかしおもむろに、ふすまがかすかな音を立てて開く。となりの部屋の明かりがさしこみ、黒い影の人物が(気配は母親だった)『薄目』の間から確かに目撃される。包み紙の『パリ』っというかすかな音で、もう興奮も高まり、分析しきれない複雑な心境とともに、心臓はドックンドックンと張り裂けんばかり。人影は出てゆき、再び静寂と暗闇。そうっと寝床から起き直ったぼくと姉は、それぞれの枕もとに置かれた『それ』を確かめてみる。『小学○年生』であろう包みがぼく。なにやら『ジャラ』っと音のするもの(ダイヤゲームというのだった)が姉。

 翌朝、もちろん昨夜の出来事の真相について語るものはだれもなく、我が家もサンタクロースをやってやれた。という幸福感と、サンタはいなかったのだ、という失望感と、がしかし、プレゼントがもらえたというよろこびが複雑に交錯しあうのだった。

 時節もちょうど冬休み、お正月をひかえた年の暮れ。外は冷たい北風。すきま風の吹き込む家なのだけれど、コタツもあるし、電灯はともるし、ラジオもある(その後まもなくテレビも入った)。そんなおもいでのクリスマス。


127 餅つき大会


 暮れが押し迫ってくると、音羽米研究会を主宰する鈴木農生雄さんのお宅では大々的に『餅つき大会』がおこなわれる。近所の人、研究会のメンバー、音羽米の消費者などが一堂に会する恒例のこの行事は毎年末の土、日と決まっていて、集合する人たちの数も半端じゃない。

 とくに日曜日の餅つきには60台以上の車でごった返し、各々が思い思いの支度で御座をしくやら、アウトドア用のセットを組むやら、さらにポン菓子の実演、大はそりで作るトン汁。もち米を蒸すには6個の特設かまどが用意され、餅つきには4個の石臼、1台の自動餅つき機。

 各人のもちは、自分でついて自分で伸すことになっていて、それぞれの工程が笑い声の中でおこなわれてゆく。つきあがったもちの伸し台のところでは、にわかのインストラクター氏による伸し餅の講習まで。運がよければきな粉もち、あんもちのつまみ食いもできたり。とにかく最近では見られなくなってしまった『みんなで餅つき』の風景が、二日間にわたって繰り広げられ、年の瀬の雰囲気がかもし出される。

 ぼくの家のぶんも、というわけで、手伝いに来ている一番下の息子とふたりで餅つき。これは余談なのだけれど、餅つきで、手水を付けての手返しをする場合はあらかじめ手の指の爪は伸ばしたままにしておくのがいいでしょう。餅を手返しするときに石臼との摩擦で指の爪がすぐに減ってしまうから。一昨年だったか、餅つき機の手返しを何軒分も調子よく手伝っていたら、なにやら餅に赤いものが...、と気付いてみるとなんと爪先から出血!。気をつけましょう。とにかく毎年一回だけの餅つきのため、そのつど不慣れなへっぴり腰だけれど、つきあがって伸しあがった餅はむちっと「おいしそう」。

 この毎年恒例の『餅つき大会』、最近よくいわれる『グリーンツーリズム』と同じ発想といえるのだろう。街の人間が日常を脱却して、緑のくに、農のくににつかの間の安らぎを求める。でも、それだけがグリーンツーリズムの考え方なのではないのだろう。農のくにの人間も、自分の作った農産物を消費していてくれる街の人たちに、こんなにすばらしいところへあそびに来てほしい。そんな、人恋しさみたいな心情も多々、あったりもするのです。


128 2000年問題


 鳴り物入りで明けた西暦2000年。世界中が神経をすり減らす2000年問題というのがある。ぼくのような個人の業者にとってはこういった問題はちょっと理解ができないし、腹が立つ。

 そもそもこういうことが起こるかもしれないという予測は、コンピューター関係のプロならばはじめから理解ができていてあたりまえなのだろう。それにもかかわらず、『手抜き』をするというのはいったいどういう神経をしているのかしら。コンピューターの誤動作で核ミサイルまで飛び交うかもしれないという、うそみたいなうわさまで流れたりして。年末には総理大臣まで、「万一に備えてください」などというまことしやかな発言まで飛び出したりして。いったい、もし、一大事でも起こってしまったらどうするんだ。

 隣町でハウス栽培をしている農家では、最悪の事態を避けるため、発電機をリース会社に手配をした。ところがいつもはたくさんあるはずの機械がすべて予約済みになってしまっていたとのこと。ホームセンターのアウトドア用炊事道具なども、売り切れ状態。久しぶりに里帰りをしたぼくの友人なぞは、かろうじてくじ引きにはずれたおかげで、勤め先の銀行で新年を迎えずにすんだと喜んでいた。

 いずれにしても、この不始末に費やされる無駄は経済的にも計り知れない。そのおおかたがコンピューターの消費者にぶつけられてしまうなんぞ、まったく無責任もいいところで場合によっては仕方ないではすまされない。

 だいたいがこの地球上で起こっているたくさんの問題、ダイオキシン他による環境汚染、将来起こりうる遺伝子操作によるかもしれない原因不明の異変、弊害。そのほかさまざまな社会問題、環境問題が、多くのひとりよがりな経済至上主義の旗印のもとで取り返しのつかないほど大量にばらまかれている。この2000年問題を含めて、多くのなおざりにされようとしているもろもろの事柄が見直されない限り、新たな希望の新世紀など夢物語となってしまうことを明確にしておかなくてはいけない。


129 


 約半年以上ぶりである方と再会した。満面の笑み、力強い握手。ぼくもとてもうれしく、会えてよかったと実感した。今夜は彼の属するある会の新年会。ぼくも遠路、参加させていただいた。

 この会はけっこう酒豪が多く、下戸のぼくなぞはもっぱらビール瓶や酒瓶を持っては勺をしてまわる役。でも各人、話したいことが山ほどあるとみえ、けっこうな声高討論で花が咲く。普段はめったに食べられない『鴨なべ』をつつきながら、ビールをコップ半分ほどしか飲めないぼくもとても楽しい新年会となった。

 あくる日は会の共同作業ということで、新年会も遅くならない時間でお開きということとなった。ぼくはその場で宿泊するため、風呂に入って休もうか。と、『彼』がビール片手にやってきた。久しぶりに話そう、ということになったのだけれど、そのうち、ちょっといやな雰囲気になってきてしまった。彼の目的はすでに『酒』となってしまっていたのだった。

 前回会ったとき(そのときはある方のお宅に泊めていただいた)朝、ぼくを迎えに来てくれたのはよかったのだけれど、食卓に置いてあった酒を見つけて、とうとう二合ほど入っていたのを空けてしまった(家主がいなかったのでその間に)。どうやら彼はアルコール依存症となってしまっているようだ。その家の方が、「酒をのみすぎてはだめだ」とたしなめてからは足が遠のいた代わりに、今度は酒を進めてくれそうなほかの家に寄るようになったとのこと。

 アルコールに逃げる。ぼくは酒は飲めないからその気持ちはあまり理解できない。けれどもおそらく本人は、周りが気にする以上につらいのかもしれない。どうしようもない状況があり、脱却できない。そして酒に走る。そのくりかえし。でも、自分が何とかなりたいなら、とにかく酒を断つことが先決。機会を見つけてはっきりいってあげなければ。くじけてほしくないから。


130 訃 報


 正月明け、気になるうわさが吹き込んできた。ある筋から、「何処何処の寿司屋さんが自殺したそうだ」、という情報が回りまわってぼくの耳に。「寿司屋か。不景気だしな。けど、まてよ。『何処何処』といえば彼(当の寿司屋、ぼくの同級生)、いつか久しぶりにぼくが寿司を食べに行ったとき、彼の店の近辺にはほかに寿司屋などない由、というようなことを言っていたっけ」。一抹の不安を感じ、家へ帰ると洗面台の上で『歯ブラシたて』と化している彼の店『○×寿司』の湯のみの電話番号を辿ってみた。『お掛けになった電話番号は現在使われて・・・』のメッセージに不安はますます募る。

 彼の実家はぼくの家のすぐ近く。もう三ヶ月以上も経って朽ちかけている知らせだというのに、ぼくが知らないなんてどういうことなのだろう。と、気を取り直し、やはり近所の同級生に電話をしてみる。なんとうわさは『自殺』の単語以外は事実だったのだった。彼も訃報を受けるのが遅れ、葬式に行けなかったとのこと。

 翌朝、彼の実家へ。こちらから『いきさつ』を聞くわけでもなかったものの、彼の母親は肩を落としつつも話し綴ってくれた。『心臓麻痺』。ただ、死の前日、めずらしく実家を訪れ、母親を墓参りに連れて行ってくれたり、その朝夫婦喧嘩をしてしまったあとのだれもいない店での出来事だったなどを聞くにつけ、なんとなくわかったような気にもなってしまったのだった。そのほかにも、ほのかに『思わせる』ような話もいくつか聞かされてしまった。

 仏様は彼の奥様方で実家には置いていないということで、その翌日、生花片手に墓参りだけは済ませた。墓を前になんとも寂しくなってしまい、涙も出ないのであった。いったいこの歳にもなって、どういうことになってしまったのだろう。

 仮に自ら選んだ『死』だったとする。ぼくもかつてそういう『死』について『愚か』と解釈したこともあった。が、人が「死のう」と決断する。それは決して発作的ということだけではないのだろう。永い間、引きずってきた何かを、いつかは断ち切りたいと思いつづけてその時におよび、自分を救うことができず、とうとう耐え切れずに、あることがきっかけとなってしまい、『安楽』を選んのだろう。それは確かに『愚か』とはいえない。けれども残された者たちはなんとも悲しくて寂しい。「生きていれば、いいこともあるのに」。ぼくの伝える訃報に、遠方の友がぽつりと言った。