131 生ごみ生かそう会

 われらが『生ごみ生かそう会』は発足以来、まる2年が経過。以来、おもな活動といえば、近隣家庭の協力でコンポスターへの生ゴミの分別、計量、記録、投入といったテストのくり返し。その結果蓄積された一次発酵生ゴミの二次発酵、熟成のための作業(その過程でのデータ取)。ほ場への施用テストなど。

 これら一連のテストもすでに7回目となって、現在ではすべてのプロセスがごくごくスムーズに進むようになってきた感。今までに蓄積できたデータのおもなものは、生ゴミのコンポスターへの投入量、添加されたもみ殻、米ぬかの量。発酵温度。生ゴミたい肥の成分分析、発芽試験など。すべてについて、できる限りデータは数字で残す努力をした。そのおかげで、次のテストではこうしてみよ
、とか、こんなものをくわえてみようといろいろ工夫もできるようになってきた。そして、なんとかワンステップは「いけたかな」という感想。

 夢は次から次へと生まれてきてしまうのだけれど、いよいよ次の目標は、実用的な規模でのたい肥製造テスト。最低でも3〜4反ほどの田畑が耕せる、それとも何人かでモニターできるほどの量のたい肥を確保したくなってくるわけ。ざっとその量を計算してみると20tが最低線。それだけの量のたい肥を生産する場所もだけれど、できたものを蓄えておく場所も必要となってくる(できれば屋根があるとよい)。いちばんほしい機械はというとホイルローダ(大きなバケットで土をすくえる大きな車輪の4つ付いた機械)。そして、人。

 どうせぼくが言い出しっぺなのだから、やってしまおうとも思ってしまう。この地域の有機農業者、婦人部の加工グループ、漬物屋などがつどい、安全でおいしい農産、加工品を消費地に提案してゆけるような組織作りがしてみたい。あくまでも、音羽の農産品のなかに『道長』の漬物もある、というようなふうになれたらいい。道は長い。道長の名のとおり、ゆっくりでもいいから、将来きっと、そんなきずなをつくりたい。

132 チャボ、その後


 つい5ヶ月あまり前、道長の鶏小屋で生まれたチャボのひなはというと、もうかなり大きくなってきた。そういえばあの頃、鶏小屋に大きなアオダイショウが侵入して大騒ぎとなったこともありましたっけ。あの時、そのヒナはというと、あまりの恐怖からか仮死状態で身動きもせず転がっていたもの。そんな大事もあったのだけれど、二匹のヒナはみごとな雄鶏と雌鳥に育ったのだった。

 最近、とうとうその日がやってきたというべきか、一週間ほど前、エサをやりに小屋へ行ってみると明らかにいつもとくらべると小ぶりな卵が「ちょこん」と転がっている。一瞬あれっと思ったのだけれど、「うふふ」と納得した。この間まで「ヒヨヒヨ」と幼い声で鳴いては親鶏を足蹴にしながら『われ先に』とエサをむさぼっていたかと思えば、もう親と見分けがつかないほど大きくなってしまっていて、りっぱな雌鶏。毎日といっていいほど卵を産むようにもなった。それに負けじという風で、親鶏のほうも我が子が産む日は必ず自分も産む。もうひとつの鶏小屋にも雌鶏が一羽いて、計3羽がつぎつぎと産んでくれるため、昼ご飯のおかずにはこと欠かない。

 あのときの二匹のヒナのうちのもう一羽はといえば、それははっきり言って役に立たない『雄鶏』。ふつう、平飼いで鶏を飼育する場合でも、雌鶏200〜300羽にたいして、雄鶏はたった数羽といったところ。雄鶏はいればいたで、『うるさい』『けんかをする』『卵を産まない』『エサを只食いする』といった理由で、いなくてもよいという存在に近い。かと思ったけれどまったくそうともいえず、雄鶏がいないと雌鶏はあまり卵を産まなくなってしまうというわけ。なんとなく、どこかの国会の有象無象を連想してしまって情けなくもおもしろい。

 まだ親鶏とくらべると小さめな卵を産んで未熟な感じのする若き雌鶏に対して、やはり未熟な若き雄鶏はというと、父親のすみやかなコケコッコ(チャボは語尾を伸ばしません)の遠鳴きにまぎれて、コケコッという変なしゃがれ声で自己主張をしているのです。

133 ETV特集


 NHK教育テレビのETV特集という番組で、道長が梅ぼしでお世話になっている那智勝浦色川の共同畑研究会が紹介された。なんと全国ネットで。

 色川地区には23年前から、この地での生活を夢見る人たちがすでに40世帯以上入植している、いわば現代の『新しき村』。ぼくの共同畑研究会とのであいはちょうどその会が発足した当時で、約4年前。おいしい梅ぼしをつくりたくて、ある人にお願いして紹介してもらったのがきっかけ。気候もよく、この色川は良質の梅がとれる。

 この共同畑研究会の目的は山村での田植えや草刈などなど、過酷な農作業を共同で行なうことで少しでも楽しいものにし、自分たちの生活文化をより前向きなものにしてゆこうというもの。

 今回の番組ではそんな共同畑研究会の活動や、色川の『新しき村』の歴史、現状、将来のそれぞれの視点でとらえようとするもの。数多くの入植者たちにはすでに二世たちがおり、その親たちが夢見る山間での生活から抜け出し、都会での生活を夢に見て村を出てゆくという現実があったりする。結果として『過疎』という現実。

 にもかかわらず何とか、子供たちに夢を託したい。それが問題でもあるのだと共同畑研究会の最古株、原さんがいっていた。でも、ぼくはそんなことすこしも心配することなどないんじゃないか、とも考える。反対に、今の夢の延長線上に、ぼくらの子供たちが夢見ることのできる場を作ってやればいいんじゃないか。以外にもそれは今の自分の夢ともあまり違わないもののようにも思えたりもする。なんとなく漠然という感じもしてしまうのかもしれないけれど、とにかく社会のしがらみに束縛されることが少なく、自由で、同じ夢を見られる仲間たちがいる。ありあまる新鮮な大自然がある。そんなぜいたくなくらし。これから、村と都会をむずぶ情報はよりすばやく、密度の高いものにもなってゆくわけで、産地から消費地までの距離もどんどん短くもなってゆく。都会人の成せぬ夢の生活をできるよろこびとその夢を都会人に産直というかたちで『売る』ことのできる時代にもなってゆくのだから。『新しき村』は実現できるのだとぼくは思う。

134 豊明市のたい肥センター


 豊川市の青年会議所のメンバーとさそいあって、豊明市の生ごみたい肥化の試みを見学した。豊明市(同市は名古屋近郊ということもあり、6万5千の人口を抱えている)では昨年6月から、豊明団地などの自治会、農協、青年会議所との共同で、団地で発生する生ごみをたい肥化するという試みを開始している。

 団地から収集された(業者により)約1tの生ごみは、畜ふんのたい肥センターでの技術を利用して行われている。とはいっても、家庭の生ごみ(厚生省管轄)を畜ふん(農林省管轄)と同じ施設内でたい肥化することが(現在の設備では)できないため、ちょっとめんどうな作業をしているとのこと。

 このたい肥センターでの作業手順はいたって単純なもので、ホッパーと呼ばれる投入口の一方に生ごみを(醗酵を促進する微生物資材をふりかけて)、一方に粉砕もみ殻を投入し、適量づつ混合してコンベア―で移送する。あとはホイールローダ(大きなバケットでたい肥などをすくってはダンプなどに積み込む機械)で切り返しを繰り返すだけというもの。その結果出来あがってくるたい肥の質はというと、これがすばらしく立派なもの。それもこれもこのたい肥センターの所長(といっても常駐1名、補助1名)の青木さんという方の神業的技術によるものといえる。

 このたい肥センター、発足当時はたいそうなたい肥化装置が設置されていたらしいのだけれど、老朽化のため撤去され、あとはホッパー、ベルトコンベア―、ホイルローダー、そして切り返しのための間仕切りだけが残った。その設備だけで、毎日搬入される大量の家畜ふんを完熟たい肥に作り変えてしまう技術にはまったく感服の至り。

 出来上がりの生ごみたい肥も、最後のふるいにかける工程のあとは(異物は驚くほど少なかった)文句のつけようのない立派な製品。とにかく、こんなに簡単な設備で、少人数で、こんなに立派な牛ふんたい肥が作られているという現実に、ぼくら『生ごみ生かそう会』一同感激してしまったのだった。というのも、ちょうどぼくたちの会では、もっと大量のたい肥を作りたいという目標で、豊川市の或る畜産業者の野積みになった牛ふんの山をなるべく簡単な方法でたい肥化したいと考えている矢先だったため。いま、『生ごみ生かそう会』も夢いっぱいといったところ。

135 25周年


 なんと、いつのまにか巡りめぐって25年目という、結婚記念日を迎えてしまった。
 思うに、一組の若いカップルがいて、つきなみに盲目の恋愛に落ち、その閉鎖感というか、束縛というか(じつは呪縛だったりして)、金縛りというか、とにかく、そんな精神の苦痛にたえきれずに、結婚という夢みたいな手段に行き着いたのだった。

 これは余談なのだけれど、たしか結婚式を間近に控えたころ、ふと不安とも思えるおかしな気持ちにおそわれたもの。「ぼくはほんとうに大丈夫なんだろうか?」。

 とにかくその後、思い返すと火が付きそうなくらいに恥ずかしい『事』の数々を繰り返してきてしまったもの。そのつど、硬い決意のもと、人生を紆余曲折したわりには、いま考えると吹き出してしまいたくなるような事が連続している。とはいえ、そんな過去を冷静に振り返っているぼくがいま、ここにいるというのもまたおもしろい。

 男と女について考えてみる。まったく人間というものは、思考と言語をもつというその思い上がりからか『人間性』という大義名分を身に付けてしまった。またそのおかげで、夫婦という硬いきづなのもと、必死でひとりの連れ合いにしがみついてしまうという、他の動物から見れば「なにを風流なことを」と言われてもしかたがないことこの上もない。そのうえ、真実一路という美辞麗句の影から見え隠れする、『うそ』の数々。それに輪を掛けて、人間性とは、それをも寛容としてしまうのだからまいってしまう。A・アインシュタインの名言集の中にあった。「ある偶然の出来事を維持しようとする不幸な試みを結婚という」のだそうだ。

 せっかくの記念すべき25周年だというのに。自分の連れ合いに素直に「ありがとう、これからもしあわせにくらしてゆこう」と彼女に呼びかけなければいけないというのに。人間というものはまったくへそが曲がっているからしょうがない。

136 溶 融 炉


 ごみを焼却する炉としてすべてを解決する(かもしれない)決定版のように考えられているのが、高温でなんでも焼却して溶かしてしまうという『溶融炉』という代物。低温でごみを燃やすとダイオキシンが発生して問題になっている昨今、この溶融炉はいわば最終兵器のようにさえ考えられている。全国の自治体でもすでに、導入されはじめてているのだけれど、その賛否が問われて問題にもなっている。

 この『溶融炉』っていったいなんだろう、っと思っていたら、ちょうどそれを某工業系会社で研究開発している方と知り合いになることができ、幸運にも見学させていただくことができた。

 『溶融炉』とは、もともと製鉄会社が鉄を溶かす『溶鉱炉』のノウハウによるものなのだそうで、取り立てて新しい技術というものでもないとのこと。要するにごみを燃やしたあげく、出る灰や金属を、全部まとめて溶かしてガラスや岩石状のスラグにしてしまうというもの。通常のごみの焼却炉では、ごみを燃やすとその焼却灰が残る。その灰をそのまま埋め立てると重金属等の心配が高いため、コンクリート詰などにして埋め立てたりしなくてはならず、問題が多い。その点、この『溶融炉』は何でも溶かせる?ため、非常に都合がいいようにも思える。

 この溶融炉にはその大きさに相当してしまうほどの、排気を浄化するための装置が必須なのだそうで、みるからにものものしい。高温で処理するのだから問題はないと思ったのだけれど、排気には有毒ガスや、重金属が含まれているのだそうだ。溶融したスラグは道路舗装の床材などに廃物利用したりするとのこと。

 溶融炉の最大の弱点はというと、なんといってもそのランニングコストの高さだと思う。炉の温度を上げるためには、電気やコークスを使ったりするのだそうだが、電気の場合、高い電力を消費し、コークスの場合それ自体の灰も多量に出て問題点も多い。溶融炉のような施設も必要なのかもしれないが、徹底的なごみの分別で、燃えるものだけを焼却すれば問題は解決するわけだし、その意義のほうが大きいのかもしれない。

 あくまでも過渡的な設備のような気もしてしまった。

137 牛 ふ ん


 われらが生ごみ生かそう会は、もっと大量にたい肥を調達するという目的のため、最近では畜ふんにも注目するようにもなってきた。理屈で言うと、生ごみだけでなく、畜ふん、あらゆる食品の廃棄物、果ては人糞まで、すべての有機性廃棄物をひっくるめてつくったたい肥がいちばんバランスが取れていいことになる。人間の場合もそうなように、好き嫌いなく、何でも偏ることなく食べることが健康の秘訣というわけ。

 音羽米研究会の鈴木さんの身内で、豊川市で乳牛20頭を飼育している方があり、ちょうどその方が牛ふんの山をもてあましているという話をきっかけに、牛ふんのたい肥化をやってみようということになってしまった。いつものように、話が決まるのも早いのだけれど、とりあえず、たい肥の雨よけのための屋根をパイプハウスでこしらえてしまった。屋根用には新品で寸法どおりのビニールシートを特注。間口6m、奥行5.4m、高さ3mほどのりっぱな屋根がたちまち完成。風に飛ばされないように両間口には壁を作らずに、筒抜けにした。おまけに両脇には牛ふんを積み上げられるように、フォークリフト用のパレットで土留めをするという念の入りよう。やった!
 と、思いきや、なななんと残念なことに、突風でパイプハウスは無残にも押しつぶされてしまったのだった。たまたま牛ふんの持ち主の稲垣さんに用事で電話をしてわかったのだけれど、「あんたがこっちへ来たときに見てがっかりするとかわいそうだからいま言っとくけど、でかしたばかりのハウス、風でつぶれちゃったよ」だって。がっくり。ゴジラかなにかにつぶされたようになったハウスを前に、思わず笑いが込上げてきてしまったのだった。

 もう屋根はあきらめて、野積みの牛ふんの山ををホイルローダーで積み替えながら、切り返しをするだけという簡単な方法で、とりあえずはやってみようと結論。

 しょっぱなから前途多難の牛ふんたい肥なのだけれど、稲垣さんの牛ふんの山は、ためしに投入した数トンのオカラのおかげで激しい息づかいというか、湯気をだして醗酵している。


138 小池レコード
2000年3月

 名古屋の輸入レコード商の小池という人が90歳で亡くなった、という記事を新聞で見つけた。この人は知る人ぞ知る『世界の小池』。あのバーンスタインや、パバロッティとも親交を深め、小沢征爾が来名の折は小池を訪れるとも言われるほどの人。

 クラッシック音楽の好きな彼は戦後レコード店を開いた。そして、すさんでいた人々のこころのやすらぎのために、幾度となくレコードコンサートを開いてきたという。彼が病気がちになる87年頃まで、それは続いた。

 じつは、ぼくはそのことをまったく知らずに、今から15年程前、偶然、彼のレコード店を訪れたことがあったのだった。そのころ、ぼくはあちこちへ行ったついでに、中古レコード屋を見つけては掘出し物がないかと物色してまわっていた。名古屋へ行った折、新栄町というところを歩いていると、繁華街には似つかわしくない粗末な中古レコード店を見つけた。その店には『小池レコード』という古い看板が掲げられていた。誘われるように中に入ってみたものの、ショーケースになにやらビートルズというか、クラッシックといったレコードジャケットが無造作に数枚並べてあるだけ。とても商売をしているという感じがしない。店の奥をふとのぞいてみると、数人の若者がひとりの老人を囲んで、たぶん『レクイエム(モーツァルトかフォーレの)』を聞いていた。その老人はぼくに目を向けて、「君も上がって一緒に聞かないか。音楽はこの曲ですべてだね。」というようなことを言った。当時ロックしか耳に入らなかったぼくは、「うさんくさい。なんかの宗教?」、などと勝手な邪推をしてさっさと店を後にしてしまった。そして、もう二度とその店には行かなかった。

 その人があの小池さんだったことを、ぼくはずっとあとになって知った。音楽を一途に愛した彼。音楽はそんな彼をやさしくつつんで放さなかったのだろう。その彼が発する中古レコードの調べに、幾人もの人たちが人生を救われたに違いない。

 音楽は、音階という全宇宙共通の言語で、人と人をかたくつなぎあうほどに、感動的で激しく、そして優しく無類の愛にみちている。
2021年撮影 まだ店(閉店)はそのまま →



139 みその思い出


 ぼくの場合、ひと一倍『みそ』というものが好きで、ごはん時のお膳にみそ汁がないともうこまってしまう。真っ黒い色をした、大豆100%の『赤だしみそ』、米こうじの入った『合わせみそ』、『米みそ』『麦みそ』、いろいろ混ぜあわせて『ミックスみそ』と、味わいもそれぞれ、それぞれの地方によっても楽しみもそれぞれ。とにかく、みそといえば世界に誇る日本の風味。

 もう、遠い昔の記憶の世界なのだけれど、ぼくの家も世間並みに貧しかった。だからおかずもなく、わびしい昼ご飯のときなど、その気配を吹き飛ばすかのように登場するのが、単品みそ料理。あれはたしかホタテの貝殻に取っ手のとりついたなべみたいなもの。その『ホタテなべ』にひとかたまりのみそに少しの水をたらす。それを箸でとろとろにとかし、炭火のシチリンにかざすと、しばらくしてジリジリチリチリという音とともに、かぐわしい香りがにひろがる。通称『煮みそ』のできあがりで、ホタテにこびりつきそうに焦げかけたみそを箸でついばんでは茶碗に持っていっては冷や飯になすりつけては口にほおばるというお粗末な料理。

 もう一品。これに必要なレシピは冷や飯と、炭火のシチリン、もちアミ、そしてみそ。小判型にうすくのばしたみそをアミのうえで焼く、というただそれだけの料理。気をつけないとみそがアミにこびりついてしまうので、うまく箸でつまんでは冷や飯にはこぶ。この料理を我が家では『焼きみそ』と呼んでいた。そんなことで、冷や飯とみそだけでもう、ふたつのメニュー、というわけ。

 ひとつまちがえば涙のこぼれ落ちそうなさびしい食卓、ともなりかねないのだけれど、部屋いっぱいに広がる香ばしい香りのおかげでなんともしあわせな心もちになってしまうのだからおもしろい。「あしたは煮みそもいいな」、などといじらしくもなさけなく、たぶん、やはり訪れるであろうそんなひるどきを夢みてしまうのであった。そんなにもみすぼらしい食生活の一瞬を、いまもふと思い出すことがある。そんな遠い昔の食味。

 なにはなくとも冷蔵庫をあければ何かある、という現代の贅沢な時代に、気付けば『味覚』は反対にさびしいものになってしまっているのかもしれない。

140 土屋養魚場


 愛知県の津具村というところで、渓流魚のアマゴを養殖している土屋さんという方をたずねた。この土屋養魚場の三代目の康臣さんは今年一月のまだ新婚で、その奥様は昨年音羽米(研)の鈴木さんのところでアルバイトをしながら、鳳来町で千枚田を耕していたという、根っから田舎暮らしのすきな(旧姓:永田さん)女性。

 津具村は雪解水の豊富なところで、そこを流れる大丹生川はアマゴなどの渓流釣りやアユの友釣りなどでもよく知られている。津具村の青年会でアマゴ釣り大会を開くからいらっしゃい、とのお誘いに出かけたというわけ(ぼくは渓流釣は素人なので、知り合いのベテラン川釣り師同伴で)。このアマゴ釣り大会、好き者というか釣馬鹿たちのおかげで、沢では前の晩から焚き火をしての場所取り合戦がひっそりと行われているというありさま。もう春とはいえ、長野との県境の津具では夜の底冷えは半端なものではないというのに・・・。釣果はというと、前日の大量放流のおかげで豊漁。

 アマゴ釣の話はどうでもいいとして、とにかく、釣大会委員の土屋さんに無理にたのんで、かれのアマゴの幼魚場の見学をさせていただいた。彼の養魚場は自宅からはけっこう山に入ったところで、これ以上上手には民家は無し、という所。傾斜地につくられた約1反ほどの養魚池は4つのプールに分かれていて、水は高いところの池から順に巡って最後の池から沢に排出される。幼魚は始めの池、成魚は最後の池。現在、土屋さんのところには数万尾のアマゴが養われており、ほとんどが釣目的の放流用として出荷されている。

 三代目の康臣さんは、業者に出荷するだけの現在の仕事から、直接消費者に買ってもらっておいしく食べてもらいたい、と考えているとのこと。その方法と品揃えについて、ただいま模索中とのことで、見本に『アマゴの開き』をいただいてしまった(うまかった)。最近は産直品の流通は、宅配便の発達のおかげでかなりスピーディーになったし、近未来にはパソコンの普及、ネットワーク化で、田舎と都会の間の情報交換も積極的、即時的に行えるようにもなってゆくのだろう。そのために、インターネットを利用したアマゴの産直をできたら、と土屋さんは夢を馳せる。そのための予行演習をまずはホームページ作りからはじめようと、若さあふれる意気込みの愛知県北設楽郡津具村、土屋養魚場三代目。