151 遺伝子組換えと米

 遺伝子を組換えるという作業が稲の品種にまで及んでいるという、当然ありそうであってほしくない事実がこの愛知県でもじつはあった。これは少々ショッキングなこと。

 この作業は愛知米の不人気品種『まつりばれ』に対しておこなわれており、そのための契約が県農業試験場とモンサント社との間で1996年に交わされている。現在に至って、ほ場でのテストにまで漕ぎ付けており、すでに完成の域。

 ラウンドアップという除草剤はけっこう強力なもので、その主成分『グリホサート』は最近では環境ホルモンに名を連ねようというような物質。ラウンドアップはモンサント社の商品なのだけれど、すでにグリホサートは各社の除草剤にも使用されている。そのグリ何某に耐性のある稲の遺伝子組換え品種が完成されようとしているというわけ。

 遺伝子組換え農産物についての倫理性、危険性などについてはいまさらいうまでもないから、ちょっと横に置いておくとして....。昨年だったか、約40年ぶりに農業基本法が改正された。戦後の高度成長期からの、合理性だけを追い求めてきたの日本の農業政策を、本来の自然の『循環』という法則に基づいたものにもどしてゆくことで、環境破壊を食い止めよう。落ちるところまで落ちてしまった『食糧自給率』を回復しよう、というもの。この『新農業基本法』はもうひとつ、米国の農業戦略(侵略)にたいする『反旗』とも受け止められるような意気込みさえ感じられたもの(ぼくだけでしょうか)。 そんな旗印の政策を施行してゆこうとするならば、日本人の主食たる『米』に取り返しのつかないかもしれない仕業を仕掛けるなぞ「もってのほか」であり、国民に対する背信行為といわざるをえない。まさに新農業基本法と照らし合わせると、矛盾点しか見つけることができない。

 開発実験のプロジェクト、担当者、はたまた推進した政治にとって『中止』などという結果はそれこそプライドが許さない、惰性はとめられないのかもしれないが、大目に見たとしてもこれ以上発展させてもらっては困る。片や研究者としてのアカデミックな名誉欲と、その挙句には非常においしい商売につながるかもしれない一企業にとっての物欲だけが渦巻くこのような薄汚いプロジェクトが、ぼくたちの将来に何らかの悪影響を及ぼす可能性があるとすれば、許せない。

152 エトセ工房

 
 音羽町の北、山を隔てて額田町という町がある。音羽町よりはさらに田舎。

 その額田町に木製家具の工房と、最近では石釜製のパン工場も開設してみえる磯貝さんというかたがある。以前からその存在は知っていたのだけれどなかなか訪問する機会がなかった。やっとのことで今回。

 磯貝さんの工房は額田町を下山方面へ宮崎小学校を越え、くらがり渓谷(という観光スポット)へ向かう途中で林道に折れる。その地点にはとてもいい雰囲気の木製の立て札があり、エトセ工房、石窯パンとある。

 まずは家具の工房。中に入るなり、木のいいかおりがいっぱいで、何かとても落ち着いた気持ちになる。どっしりとした作業台が置かれ、材料の松材が壁に立てかけられ、展示をしているわけではないのだけれど使い込まれた腰掛や工具だな、机、すべてが彼の作品。緻密に計算されて作られた家具、工具類、そして作る人。ぼくも「やってみたい」と思ったら、ちょうど夏休み恒例の教室があるそうでさっそく予約をしてしまった。今回は三本足の単純な、それでいて頑丈な丸いす。今から楽しみなところ。まだ定員には余裕があるとのこと。費用はひとり13000円。

 さらにパン工房。磯貝さん自ら製作したという石窯は総レンガづくりのドーム型。レンガの向こうの空間には砂がぎっしり詰め込まれていて、窯の熱が逃げないようになっている。まず窯の中を焚き木で熱し、200℃ほどの余熱を発生させる。直径約2〇cmの丸型パンが一度に10個ほど焼け、一日に40個ほどが製造可能。現在は予約のみの製造。さすがに小麦粉を練る機械だけは無理なのだけれど、小麦をひくための石臼の機械も木製で彼の作。

 道具としての家具にしろ、食卓にのせるパンにしろ、日用のもの。そんな日用品にお金をかける、ということに抵抗を感じないこともない。よい家具は何十年も(いやそれ以上)使え、古くするにつれてそのよさが増す。結局はとても経済的。食べ物にしても同じで、少々高くても安全でおいしく、健康的で、食べる喜びが味わえるならこれもまた経済的といえる。

 自分の作る漬物もそうありつづけようと思った。
2000/07

153 思 考 す る


 人というものは、その一生には山あり谷あり。その時々でいろいろな境遇というものに居ることになる。幸福なとき、不幸なとき、さらにそれらは細分化されて複雑なもの。

 そんな境遇の中で、人の感情は一体どういうふうにくりひろげられるものなのだろう。性格によってもちがう。性別、年齢、季節などなど。またまた複雑な条件がふえることになる。

 ほんとうは『まっとう』な人間でも、たび重なる不幸に精神もねじまがってしまうこともあるかもしれない。他人が楽しそうに笑っているだけで、怒りが込みあがってきてしまうというような境遇に陥ってしまっている人もあるかもしれない。
それが最悪、犯罪の引き金になってしまう場合もあるのだろう。詐欺、泥棒、引ったくり、恐喝、障害、殺人などなど。犯罪は良識や善をもとに生きていようとするものには、手段としてとるべきものではないのは明々白々なもの。

 世間には『一般常識』というものがある。ひとそれぞれにも、その人だけの『常識』のようなものがある。これを仮に『個常識』と名づけるとする。生まれもった性格と育った環境、そして今置かれている境遇がこの個常識をときにつれ、悲しいかな変化させてしまい、犯罪を発生させてしまう。にもかかわらず、その人の意識の中では、罪の意識がなかったりすることもある。まったく、どうしようもない。

 この複雑でわけのわからないような人間の意識というものは、一体全体、なにによってあやつられてしまっているのだろう。いやいやそうではなく、その原動力とは一体なになんだろう。多くの場合、それは『感情』であったりする。けれども本来欠くべからざるものがあり、それが『理性』ということになるのだろう。それではこの『理性』とはどういうものなのだろう。普遍の真理、明白にそこにあるもの??。つまりは非常に冷静なものなのだと思う。冷静なもの、そう、情緒的、感情的な部分ではなくて、精神的な部分。具体的には思考的なもの。

 『思考』とは、けっこう理屈っぽく、めんどうくさいけれども、それが深ければ深いほど心は『冷静』でもある。冷静に考える。これはちょっとむつかしい。
泣き、笑い、怒り、かなしむという感情の起伏。非常に人間的な気もする。けれども反対に人間的であろうとするならば、冷静な思考力も兼ね備えている自我というものをもちたいと思う。

154 クレーム


 漬物を作っていてうれしいと思えるのは、お客様からいただく「おいしかった」ということば。それに反してうれしくないのが『クレーム』。その内容はいろいろあるけれど、場合によっては精神的にもけっこうな痛手ともなってしまう。

 クレームがでてしまう原因は大きく分けて3つあると思う。@不可抗力による。A不注意。Bずさんな管理。

 『不可抗力による』もの(ほんとうはそれでは許されない)の代表は『異物』混入。大手の企業ではX線などを駆使した探知機さえラインに含めていたりする。いずれにしても製造にたずさわる者が注意を払うことでかなり防ぐことができる。

 『不注意やミスによる』ものはけっこう奥が深い。当事者の精神状態にもよるし、その他原因はあまた。ただ、精神が集中されていればかなり改善されることはたしか。

 『ずさんな管理によって』おこるクレームは問題が大きい。けっこう大掛かりなものとなって発生したりする。しかも、消費者にとっての『迷惑度』も高くなる。これくらいはいいだろう、という甘さが結果的に件数を増す結果ともなる。雪印乳業の食中毒事件などはその典型的な例といえる。

 人事ではなく、当然道長にもあることとして肝に銘じなくてはいけない。じつは、ある相手先で(幸か不幸か)集中してある商品でクレームを出してしまったことがある。ある商品の醗酵が進みすぎて、袋を開けるといやなにおいがしてしまうというもの。クレームの電話をしようと、あえてしてくださったお客様の気持ちを考えると、いいかげんな対応はできるものではないし、何といっても改善を図らなくてはクレームの意味がなくなってしまう。そうでなくては、せっかく発言をしてくださったお客様を無視してしまうことにもなる。だいいち、それくらいの素直な心がなくては話にもならないだろう。

 今まで、たくさんのクレームをお客様からいただいてきた。どんなに気をつけても、確立は減りさえすれ、皆無にすることのできないものもあるかもしれない。けれども、絶対に二度と起こしてはいけないクレームというものはあるし、それは信念さえあれば絶対に再発することはないと思う。

 それを支えるものがポリシーというものであろうし、その企業としての努力というものにほかならないと思う。

155 どろんこ村


 道長の作業所でチャボを飼っているのだけれど、最近生まれてしまったひよこがなんと5羽中、4羽がオスとわかり、がっくり。このままだと悲惨な将来なのでなんとかしないと、ということで『どろんこ村』ということとなった。鶏舎の片隅で飼ってもらえるというのでひと安心。

 渥美半島の伊良湖のちょっと手前、江比間というところに『どろんこ村』というのがある。運営の中心は小笠原弘さんとその奥様。約千羽の平飼いニワトリの卵と、それを利用したケーキの製造販売をしてみえる。その養鶏を核に、都会の親子にファームステイをしながら、農業体験をしてもらおうと5年ほど前から施設の規模を拡大しながら現在に至っている。そのほとんどすべてが手作りで、かといってなかなかのもの。

 ここのご主人、弘さんのすごいところは、思い立つと(とにかくお金のある無しにかかわらず)実行に移してしまう、という行動派。これにはほんとうに参ってしまうわけで、はじめてここを訪ねたとき、なんとも先の見えない日曜大工をしているなと思っていたら、半年ほど経って偵察に行ってみるとちゃんと形にしてしまっているのだからびっくり。またその奥様もたのしくついていくばかりでなく、ちゃんとケーキ工房までもその中に組み込んでしまっているのだからまいってしまう。

 どろんこ村のケーキの材料はもちろん、国産小麦に自家製たまご。丸型ケーキ生地など、ずっしり重く、弾力じゅうぶんで、芳醇なかおり。毎年のクリスマスには注文させていただいている。

 今回、もうひとつ驚かされてしまったのには、なんと、ホームページをひらいてしまったとのこと。コンピュータに堪能などろんこ村の従業員、河合さんのおかげなのだそうだけれど、これもすごい。まるで、こどもたちのはしゃぎ声が聞こえてきそうなたのしい内容。

 『どろんこ村』はたのしいところです。

どろんこ村のHP: <http://www.doronkomura.com/>

156 木工教室


 先日、音羽町のとなり、額田町のエトセ工房というところへ訪問させていただいたのだけれど、そのとき、『木工教室』の予約をしてきていたのだった。さっそく、いちばん下の息子と連れ立って受講。今回の試作は三本足の単純な丸いす。

 『木工』というと、はっきりいってあまりたのしい思い出がない。中学生のときなぞ、技術科の授業の中で各種木工作品を作ったもの。簡単な『本立て』をはじめ、板金で金具を自作しての『折りたたみいす』などなど。工作室にある電動の機械も使うのだけれど、おおかたは学校でまとめて買ったなまくら工具を駆使しての悪戦苦闘。結果的にできる作品はというと、なにせ楽しく作っていないものだから、間違いと荒だらけ。あれだけ苦労して作った折りたたみいすなぞ、ろくに使うこともなく、そしてすてることもできないので、物置の邪魔物となり長年のあいだ目障りな姿をさらす結果に。

 だから今回の目標は、とにかくたのしく、ということ。木工教室は工房で磯貝さん(エトセ工房主人)の日常使ってみえる工具を貸していただいての作業だけに、興味津々。今回の『丸いす』のパーツはというと、座板(×1)と足(×3)といたって単純。材質はロシア産松で強度があり、加工もしやすい。全工程中、機械を使うのは2箇所で、角型の板を大体の円形に切り抜くベルトソーと正確な角度で丸い穴を空けるためのドリル。そのほかは紙ヤスリなどの仕上げ研磨はなしで、ひたすらカンナとノミを使っての削る作業で終始。ただし、さすがにこの刃物がプロの道具なので、とにかく切れる。木目に逆らわないように刃をあててゆくと、その切れ味のおかげで、これがけっこうたのしい。角張った棒をカンナで丸く加工したり、ノミを使って座板をきれいな円に削り出す。そして、この一連の作業がけっこうたのしい。よく手入れをした刃物を使いながら、作品が出来上がってゆく。これがひょっとすると、木工の『たのしみ』なのかしら、と納得。とはいえ、座板のカンナでの仕上げだけは、相当に気を使うところで、カンナの調整のためにかなり時間がかかった(もちろん磯貝さんにしてもらって)。あとは足を座板に打ち込んで、高さ調整をしてできあがり。

エトセ工房・磯谷さん
 当日はぼくらのために窓は開け放ってくれていたのだけれど、木工は『風』と乾燥をきらうのだそうで、真夏でも窓は閉めて作業をしてみえるとのこと。

 出来上がったふたつの丸いすに、もう、愛着の沸く親子なのだった。

エトセ工房はこちらを参照してください
http://www.geocities.jp/michinaga_jp/

157 色川 2000


 今年は昨年の凶作をはね返して最高の梅の収穫ができ、おかげですばらしい梅ぼしができた。というのは和歌山県那智勝浦町色川の共同畑研究会でのはなし。

 お付き合いをはじめて5年が経ったのだけれど、『完熟の梅を手摘みで』というこちらの勝手を聞いていただき、さらに昨年からは、道長と同じ方法での梅ぼし作りまでお願いしてしまった。今年で2年目の梅ぼし作りなのに出来栄えは最高で、今回は梅との重量比12%の塩度のものまで試作をしていただいてしまった。田植え時の日々を押しての完熟梅の収穫、そして一連の手のかかる作業をエネルギッシュにこなしての仕上げの『干しあげ』。

 共同畑研究会の男性メンバーの力もさることながら、色川入植7年目の梅ぼしおばさん、平岡昌子女氏の情熱に負うところも大といえる。

 梅ぼしのPRはこれぐらいとして、色川の夏祭り盆踊りを見せていただいたのだけれど。色川へはお邪魔するたびに新しい入植者の顔がふえていることにおどろかされる。実際は甘いものではないのだろうけれど、わずらわしい都会の喧騒をのがれ、自然にふれあうことのできる桃源郷での生活は、多かれ少なかれ人々のあこがれるところ。ぼくもそんな理由で生活基盤を田舎に求め、音羽町に入らせていただいた。とはいえ、この色川での生活は、音羽でのそれの比ではない。

 いろいろな方たちと立ち話をしてみると、この単調とも思える色川もけっこういろいろな生業を糧としようとしているのだなと気付かされる。そして、各々が独自の個性で自立を目指していることにも感心させられる。たとえばある方は、あるものを製造して、それを売るため自ら町へ出向く。それは大変だが仕方ない。人に任せられない。

 人にはそれぞれ個性があるし、プライドもある。とはいえそれでは自給自足の域を脱することはできない。さらに、子供の教育、後継者の問題となってくると難解となってくる。これは妥協ではないとぼくは思う。それぞれの住む地域での永続的な生と死のくりかえしのなかで、にもかかわらず、生きる証しを得、希望を燃やす。同じ志を持つもの同士が、地域の将来を夢見るならば、不可避的にすべきことが明らかだと思う。ぼくも音羽町で同じことを考えている。
色川のHPです:
http://www.za.ztv.ne.jp/irogawa/

158 先 生


 毎日、音羽と岡崎を車で往復しているのだけれど、ここ二年間ほど、きまったあたりを通過するたびに、些細なことがこころの端に思い起こされるのだった。そのことというのは、小学生時代のぼくの担任の先生のこと。その方の実家がそのあたりというわけ。

 もう、37〜8年も過ぎたころのことで、ちょうどその先生が大学卒業後、初赴任で3年間お世話になったのだった。その方はけっこうな堅物だったのだけれど、若さ満々、やる気満々。その一生懸命な鼻息がぼくらにも伝わってくるからか、誠実だったからなのか、とにかくとてもぼくらに人気があった。

 あるときなぞ、田園風景のど真ん中に「でん」とある実家にぼくらを呼んでくれ、おまけに三河湾を望める山頂にまでハイキングをさせてくれたもの。おにぎりまで持たせてくれて。

 そんな思い出のおかげで、車でそのあたりを通り過ぎるたび、気になっていたというわけ。もちろんむかしとは風景がすっかり変わってしまっているし、子供のころとでは距離感もまったく違ってしまっている。しかしながら、そんな思いも、夜、仕事場からぼくの家にたどり帰り着いてしまうと、もうすっかり忘れてしまうため、小学校の卒業アルバムにあるその方の住所を確かめることもなかったのだった。

 それをとうとう、先日確かめることができ、胸を高ぶらせて電話番号をしらべ、ダイヤルしてみた。電話に出られたのは男の方で(たぶんお兄様)、「ユウちゃんは養子に行きました」のだそうだ。さっそく電話番号を教えていただき、かけてみる。するとどうだろう、なんとまあ明るい声が返ってきたのだった。ぼくのことや他の子供たちのこともよくおぼえていてくださったのには、おどろいてしまった。「もう、3になった」と聞き、「73ですか」と返すと、63とのこと。なんとも思いでが古くさいので、その方を年寄り扱いしてしまい、失礼をしてしまった。

 田舎の好きな彼は、ぼくらの学校から転任してからは、ほとんどずっと山間地の学校ばかりを希望しての赴任であったそうだ。それだから、養子入り先も、岡崎に隣接した額田町の田舎。なんとなく、ほっとしたのだった。

159 ふるさと茶屋


 それぞれの中山間地域で地元の主婦たちがいろいろな活動をする中、生産グループとか生活改善グループというような呼び名の集まりがある。

 音羽町でもそんなグループがあり、ほそぼそながら、活動を続けてきた。無農薬で作った野菜や果実を原料にして、ジャム、焼肉のたれ、トマトケチャップ、ジュースなどを試作したり販売したり。町内でおこなわれるイベントに参加しては、その活動をアピールしたりしている。その彼女たちがいよいよ夢かなえて『店』を開店した。

 旧東海道を東の『御油』を次いだ『赤坂宿』。その古い町並みに開店したふるさと茶屋『愛隣』。そのさらに東に位置する現役旅籠屋『大橋屋』(広重の版画集『五十三次赤坂宿』の舞台)の築300年には遠く及ばないものの、この『愛燐』築100年という旧家を改造しての落ち着いた造りとなっている。

 愛燐は土日曜のみの営業で、おもに昼食とご休憩のためのドリンク、お茶菓子を提供。この界隈、旧東海道ということもあり、また、少し足を伸ばせば三河湾を一望できる『宮路山』へのハイキング、もみじまつり、さらに春にはつつじまつりが催されるため、けっこうたくさんの訪問客が都会から訪れる。そのほとんどが、愛用の一眼レフカメラ片手のいっぱしな写真師たちなのには感心させられる。そんな街道の風景はうわべの文化こそ変化したにせよ、通過する人たちの思惑は様々にしても、今昔、あまりたいして変わらないのはぼくの気のせいだろうか。

 とにかく、そんな訪問者たちのために、また地元の主婦の情報交換の場所として、「ささやかな『茶店』があったらいいのにな」というひそかなご要望にまさにうってつけのところがこの『愛燐』なのです。

 主なメニューは地小麦が原料の食パン、パスタ。とくにパスタは絶品で、手こねの生地を一晩寝かせて作るという念のいれよう。腰のしっかりした麺にトマトソースがけ、うまい。そのほか、手作りドリンク(手作り菓子つき)。涼をさそう、青しそジュースもおすすめ。

160 プログレッシヴ


 ‘70年はじめ頃、ロックミュージックが若者だけのもので、今よりもっとわくわくした時代。そのころ、今ではもう聞かれなくなってしまったプログレッシヴロックというものがあった。有名なバンドとしては、キングクリムゾン、ピンクフロイド、ジェネシス、イエスなどなど。もちろんほかにもおびただしい数のプログレバンドがあったもの。

 プログレッシヴという語を英和辞典でみてみると、いろいろある中で前進的なとか、進みつづけるというような解釈がしてある。『前衛』といってしまってはいい過ぎかもしれないのだけれど。

 一般にプログレ系のものを聴いてみると、@独創的、A起承転結の組曲風、B知的(問題のあるものもあるが)、Cドラマチックなどなど。とにかく有名無名、数多くのバンドが興亡をくりかえした。珠玉の単品を残して消えてしまったものもあれば、完全にパターンができてしまい、プログレでもなんでもなくなってしまい、にもかかわらずプログレとして売っていた不届きなバンドまであった。

 考えてみると、そもそもロック音楽というのは若者の音楽であるゆえに破壊的であり、個性的なもの。それは解釈を変えれば、創造的で、独創的ということにもなる。

 クラッシック音楽というものがある。バッハ、ベートーベン、モーツァルト、ブラームスなどなど。18世紀から、音楽史に名を連ねるその時代時代の巨匠たちの残した音楽は、永遠に朽ちることなく、変わることなく伝えられてゆくのだろう。それほどに崇高なものといえる。

 そんなもう変わりようのない音楽なのだけれど、それが生み出されようとしていたときには、どうだったのだろう。ベートーベンの時代にはおそらく、彼のほかにもすぐれた作曲家もいたのかもしれず、でも、ヒーローは二人も要らないので、彼だけが歴史に残ったのかもしれない。それはともかく、ベートーベンのソナタが、交響曲がいったいどんな姿勢で生み出されたのだろう。他の作曲家がしえなかっためくるめくプログレッシヴな作品。それをはじめて楽譜で見たり、コンサートで聴いたりした音楽ファンたちは、少なからず音楽バカで、ロックファンだったにちがいない。