161 通 夜

 関西から帰省してきて、お盆に会ったばかりの友人から訃報が入った。彼の父親が亡くなった由。79歳、胃がん。早速の帰郷、通夜、葬儀。その友人のあだ名は、高校時代のクラス委員の役になぞらえて、『総務』という。

 ぼくは仕事もあるので、通夜だけに出席させていただくことに。それなりの高齢での病死ということもあってか、通夜とはいえ、さほどの暗さもなく(やはり家族だけは別なのだけれど)、場内話し声も行き交い、ざわざわとした空気。

 焼香、喪主(彼のお兄様)の挨拶が済み、通夜もお開きとなった。式場から出てきた『総務』はぼくの手を取り、「くっ」とこらえきれない涙を流している様子。そのうしろでは奥方と二人の息子が心配そうな顔で彼を見守る。

 ぼくの父も二年以上前、肺がんで逝った。73歳。肺の陰が県立病院で発覚し、その場で『末期』の宣告を受けてしまい、その後、半年あまりの余生となってしまったのだった。ぼくの父の葬儀の時には、関西から仕事を休んでこられないからと、今回亡くなったお父様が代理で出席してくださったのだった。

 上に長男と姉の三人兄弟の『総務』は、ずっと自分の姓を名乗ってきたのだけれど、奥様の実家のあと取りがない、ということで、彼女の姓を継ぐことに決まった矢先の父親の死、ということになってしまった。むすこにとって父親の死というのはけっこう大きな意味をもつもの。そんな最中、さぞ『総務』の心中も複雑なものとなったのだろう。

 ぼくの場合はどうだったのかというと、やはり複雑なものだった(今も)。ふだん、同じ屋根の下で顔をつき合わせていると、話をすればぶつかり合う、だまっていてもけぶたいという、要するに邪魔な存在でしかなかった。そんな存在が居なくなる、ということですっきりしてしまってもよさそうなものなのに、そうともちがう。なにか支えのようなものがなくなってしまい、とうとうひとりになってしまった、という寂しさ。なんとなく、自分の一部分が失われてしまったような不安感とでもいうのか。そんな自覚が日常でふと感じられたりする。

 しっかりしなくては。そろそろ、自分が自分をはっきりと自覚しなくてはいけない時が来たのかしら。かといって、今日から生活態度が変わらなくてはいけないわけでもなし。『やりたいようにやる』、『やらなくてはいけないなら、絶対やる』という決意めいた心構えがいるのだな、と自覚も。

 『総務』の場合、更なる岐路にも立っているわけで、だから、がんばれ、と、とりあえずそうとしかいえない一言を彼に贈るぼくがいたのだった。?

162 


 和歌山県那智勝浦町色川。いつも梅と梅ぼしでお世話になっている『共同畑研究会』のあるところ。その山里へ再度訪問する機会を得た。この色川はその里の風景もさることながら、何といってもその『ひと』というか、『くらし』というのか、『文化』というものについて、このうえもなく魅力を感じてしまうところ。

 『農』ということについて考えてみた。人にとって『農』というのは、その生活のため、まず『食』という生きるための基盤的なもの。そしてそれは、自然を切り拓き、にもかかわらず順応して無理をせず、その場所での農を延々とおこなってゆく。もちろんそこではそれ以上の『破壊』的行為はしない。

 山里で暮らしたい、『農』を基盤とした生活をしたい、という人たちがいる。勝浦の山里にもそんな人たちが集まってきている。それは自然への『回帰』なのかもしれない。『農』とはそんな魅力がある。おそらく都会に住むもの達は、裕福で、快適で『文化的?』な生活を満喫しつつ、でも、やっぱりそんなものうんざりで、山里での生活をゆめみる。せめてキャンプ、登山、ハイキングなどと野外での活動をすることで、都会で受けた手傷をいやそうとする。それでがまんもしてしまう。「やっぱり自然はいいな」と独り言をいう。

 先祖代々、山里で暮らすものたちは都会という荒野にあこがれ、夢を掲げて里をでる。経済的な生活は麻薬のごとく心をむしばみ、ただ費やすだけの生活を享受することを強いる。そして、いつか自らの都市社会における経済的価値を失ったとき、人は山里を思い出す。そして、里に帰って『農』でもしながら、悠々とした年金暮らしなど期待する。

 そんな余生などはっきりいって、くそくらえだとおもう。そんなことのために自分の家、田畑を温存しておこうというのならば、若くして山里に入植したい若者たちのために何とかしてやったらいい。文化というものはそのままぬけぬけと受け継ぐだけのものではないはず。日々の生きる苦しみや喜怒哀楽の中から、血と汗の結果として生まれ創出されるもののはず。文化とはそれほどに、重いものでなくてはいけない。

 まずは自給自足の『農』の原点の生活を目標に、ゆったりと構えている若き入植者を、なぜか『戦士』と思い違いしてしまう自分に今、気付く。

163 テレビ


 ぼくが小学生だったころ、世の中に『テレビ』というものが出回りはじめるようになった。それまで各家庭にはラジオくらいしかなく、棚の上などに置かれた箱から流れ出すいろいろな話題や音楽、物語などに、母はおかってでがたがたしながら。子供は兄弟でけんかでもしながら。父親はちゃぶ台に座って新聞でも見ながら。

 たしか、ローマオリンピックというものが開かれたころ、まだぼくの家はラジオだった。海のはるか向こうでくりひろげられている日本選手の『死闘』に耳をそばだてていた。海外からの電波は(衛生中継というものがないから)不安定なので、それぐらいしないと聞き取れなかったのだった。そのころ、ラジオは棚やたんすの上といった(子供には手の届かない)ような、けれど大人には手の届く場所に置かれていた。

 ローマから4年が明け、東京五輪のころには、茶の間で家族の目はテレビにくぎ付けということにもなった。学校から帰り、家人の留守にそっとテレビのスイッチを入れる。黒い画面がしばらく続いてうっすらと明るい光が映し出される。夕方にならないと番組が始まらないので、「ジャー」という雨降り画面だったり、ひたすらに退屈な音楽が流れる『テストパターン』。それがテレビ画面のゆがみを確かめるためのテスト映像なのだとはけっして気付くこともなく、じーっとそれに見入っていたぼくだった。兄弟の間ではしばしば、し烈(卑劣?)なチャンネル争いというものが起こったもの。右へ左へあまりにむちゃくちゃにチャンネルが回されるので、そのうちその『つまみ』が抜けてしまう。ドライバーで締めてもじきに緩んで抜けてしまう。ついにはチャンネルの心棒が磨り減ってしまい、つまみをはめてもチャンネルが回らなくなってしまう。つまみはポロリとはずれてしまい、とうとうペンチでまわす、という奥の手まで。さらに絶縁でも悪いのか、そのたびにビリッと感電したりして。さらにさらに、酷使に酷使を重ねられて、テレビの調子も悪くなる。そんな時、お父さんの出番で、テレビのボディの決まった場所をやはりきまった手つきで『バン』とたたくと、あらふしぎ、テレビはふたたび『映る』のだった。まったく涙ぐましいまでのひととき。

 時代は変わり、テレビはどんどん変わる。さらに性能よく、多機能になってゆく。熱烈な番組ばかりだったあのころのはなし。

164 見解の相違


 5ヶ月ほど前、1トンのオカラを基本にした『土ボカシ』の試作に取り掛かった。今までは土ボカシの試作といえばせいぜい100kg前後の量だったのだけれど、今回はけっこうな量。

 ちなみに今回の土ボカシの材料は: @オカラ 1トン(1.5?)、Aもみがら 150kg(1.5?)、B米ぬか 450kg(1.5?)、C 土 6.3トン(4.5?)、D鶏ふん 300kg(0.75?)。要するに、堆積の比率であらわすと、オカラ・1、もみがら・1、米ぬか・1、土・3、鶏ふん・0.5といったところ。

 時期的にちょっと熟成が足りないかな、という感じだったけれど、ついでがあるというので県の農業試験場に『土ボカシ』の成分分析をお願いした。検体は100グラムほどポリ袋に入れて。

 いよいよ分析の結果が出たということで、普及センターからデータシートとともにいただいたコメントは「残念、道長さん、土ボカシは失敗だよ。窒素分が少なすぎる」、とのこと。「これでは単なる土壌改良材ですね」。がっかり。

 いや、まてよ。一応、たい肥研究家、橋本さんに聞いてみよう、とデータシートをFAXしてたずねてみた。ところがところが、氏に言わせると、「道長さん、窒素分はこれでもまだ高すぎるくらい。この1/3くらいの値でちょうどいいくらいです」とのこと。なんと、なんと、土ボカシとして合格点をいただいてしまった。

 いったい全体、この農改普及センターと橋本さんとの見解のズレはなんなんだろう、と、しばし考え込んでしまったのだった。じつは、このズレについてはいたって簡単な説明ができてしまう。学術的に『ボカシたい肥』の分析は、それを無生物としての『物』として考える。それに対して、有機農業家は『ボカシたい肥』を微生物の集合体として解釈する。無生物のものを畑に施肥したら、分析どおりの効果しかないのだけれど、微生物の固まりとして解釈すると、それが土中で活発に活動して現れる効果については、まったく数字では表すことができない。

 ひとりの有機農業家が、学術的には『失敗作』のボカシ肥で20年以上、健全な農業を続けてきている、という歴然とした事実を提示したとする。その非科学的な理屈に、学術たるものが歩み寄る、という人間的な意向というものがなければ、これからの将来、本当の意味での科学のあゆみなど、とうてい考えられないのだろう。

165 ブルース


 いまや、ロック音楽といえば、若者ばかりでなく、かつて若者だった(いまや中年の)ものたちの間で、ごく日常的な存在となっている。そのルーツを問うとすれば、それはやはりブラックミュージック、とりわけ『ブルース』ということになる。ロバートジョンソン、マディウォーターズ、ライトニンホプキンス、BBキングなどが有名どころ。

 ブルースの発祥はアメリカ大陸に連れてこられた黒人たちが、虐げられた生活の中から、なんとかして自由になりたい。はいあがりたい。そんなゆめを2拍子のリズムにのせて歌った。そのブルースを最初に伴奏したのはギターではなくて、ピアノだったといわれる。綿花の産地、ミシシッピ―川のデルタ地帯。奴隷たちを抱える、音楽好きの大地主の農場主の家にはたいていピアノがあり、それを弾くことを許された音感の鋭い黒人が、それにあわせて歌ったのが最初だといわれる。その後、ギターが持ち出されたのは、ブルースがアメリカを『旅』するようになってから。

 巡業という、ようするに、訪問する街や村でお笑いや踊り、そしてギターと粗末な太鼓にあわせ歌われたブルース。芸だけではお金は取りにくいので、いかがわしい、なににでも効くという妙薬をショーの合間に売る。というのがパターンであったようで、これを『メディシンショー』とよんだそうだ。ちょうど日本でもむかし、ガマの油売りなどというのがあったけれど、そんな調子だったのかもしれない。それ以前の黒人音楽については、記録に残るものはないけれど、単純な3コード進行のブギウギと、どれも似たようなメロディーが語り継がれ、出来上っていったのだろう。

 戦前、蓄音機なるものが一般的にも出回るようになる。地方でのブルースの上手な黒人たちの歌声を、録音機を携えて発掘に回る白人も現れた。それが世に出回るようになり、レコードとして商品化されるようにもなった。ただし、レコード史に残るブルースマンたちも、「レコード」という甘い口車と『駄賃』でマイクに向かわされたのだろう。

 戦後の景気でデトロイトやシカゴなどの工業地帯へと甘い期待とともに、多くの黒人たちが向かったのだけれど、ブルースもその流れに乗った。そんななか、電気ギターの発明もあり、バンド形式のシカゴブルースが発展。R&B、ロックンロール、そして、白人青年たちの間でのロック音楽へと発展してゆくのだった。

166 ロボット


 子供のころ、テレビにあらわれるロボットヒーローというと、『鉄腕アトム』を筆頭ににたくさんあったもの。かれらは無類に強く、人間以上に人間的で、いつもぼくらのあこがれだった。

 さらに、むかし読んだSF小説で、アイザック・アシモフの『ヒュ―マノイド』というのがあった。ただひたすらに人間の幸福をサポートしてくれるという、一体の優れたロボットをある科学者が開発する。その科学者は亡くなってしまうのだけれど、そのロボット『ヒュ―マノイド』は自らその複製を作り出し、あとは鼠算式に増えてゆくのだった。ついには人類の武力さえも掌握してしまうほどの数に増殖してしまう。人間のすべての邪悪な部分、暴力的な部分を無視することのできないロボットたちは、最終的には洗脳という手段を講ずるということとなる。主人公である『私』もついには捉えられ洗脳されてしまうのだけれど、なんとその結果には平和社会が実現し、幸福に暮らす『私』がいた。という筋。

 人類は最近になって急速に知恵をつけるようになり、一見して『進化』したようにも見受けられる。と思いきや、その精神的、理性的な部分はいまだに『進化』というよりは足踏み状態。今から30年以上前、アシモフがゆめみた戦争のない平和な世界。しかしながら人間の稚拙さはどうしようもなく、見切ってしまわざるを得なかったのかもしれない。

 現在のロボット技術は大したもので、二本足で歩く、感情を表現する、学習する、判断するなど、人間の動作のかなりの部分までこなせるようになってきている。おかげで近い将来、ぼくたちの身の回りの様々な事を代りにこなしてくれるようになるのだろう。炊事、洗濯、経理、子供の教育から老人の介護、3Kといわれる仕事などなど。

 ここに大変な問題も起こってくるかもしれない。『心』の部分で進化ののろい人間に対して、ロボット(高度なコンピューターとしての)は確実に、ぼくたちの理想とする『人間像』に近づいてゆくのだろう。高いレベルに達したコンピューターはいつの日か、人間を超えてしまうときが来てしまうかもしれない。アシモフの小説のようなことは起こらないであろうけれど、もしかして、人類は完璧な人間に進化したロボットに、ぼくたちのかなわぬ『心』の部分を補足させることで平和を確立しようとする時代も来るのかも。それも立派な人類の進化ともいえなくもない。

 そんなのまっぴらだ、と言う向きもあるかもしれないけれど、愚にもつかない政治に振り回されている今の世の中よりも、ずっとましだったりして。

167 新品種


 NHKテレビで『コシヒカリ』の誕生秘話を放送していた。新潟県魚沼郡という、冬雪深く、やせ地で米作りに適さぬ山里を貧困から救ったうまい米のはなし。

 当時(戦後間もないころ)食糧増産の時で、うまい米は二の次とされていた。新潟県の農業試験場では、やがて来るかも知れない『米余り』の時代を見越し、ただでさえ競争力のない『新潟米』をなんとかしなければ、と必死なのだった。そのための新品種の開発スタッフと、それをなんとかものにしたいという若き農業者のけなげな取り組み。様々な難関を突破し、とうとう『コシヒカリ』が世に送り出される。そして、宮城の『ササニシキ』を大きく抜き去り、新潟、魚沼を『日本の米どころ』として不動なものにまで育て上げたのだった。

 いったい、『コシヒカリ』とは何だったのだろう。それは米農家が一番望むもの。栽培には手間はかかるが、おいしい米。丹精こめて作った米が、消費地で「うまい、おいしい」と太鼓判が押される。そんな目的のために、農業者と研究者が汗水をたらし、泥まみれになり、時間を費やす。なんとあたりまえですばらしいことなのだろう。

 新しい品種とそれを作るための技術が世の中に広められ、全国の米農家が取り組むようになる。それでも魚沼の米は日本一だと言われるよう、さらなる努力が繰り返さる。研究者はそれを後になり先になり、支える。

 遺伝子の組換えのイネのはなしがある。まったくだらしのない研究としかいわざるをえない気がする。いったいそんな品種、だれかがまちのぞんでもいるのだろうか。合理的に作られ、低価格の輸入米に対し、同じ考え方の米作りを進めたところで、その顛末、末路などどんな素人が考えてもわかるはずなもの。どうせ除草剤になれた雑草の反撃の結果、見向きもされない品種になるであろうという一過性の望みしかないことは、研究者にも関連企業にもわかりきっている。開発者としての名誉のためなのか、あるいは一時の利益の享受のためなのか。そこには田畑で生き生きと農耕にはげむ農業者の喜びの表情など、残念ながら、どこにも見えてこない。

168 日本の稲作


 佐藤洋一郎という京都大学で『イネ』の研究をしていらっしゃる方の講演を聴いた。農業とは、稲作とは本来どういうものだったのだろう。これからの日本の農業はどうあるべきなんだろう。というような内容。

 今では日本各地のさまざまな遺跡の発掘のおかげで、ぼくたちが小中学校のころ教わった縄文文化などはまったくのうそっぱちだったことが証明されてしまっている。

 腰に熊の毛皮なぞ巻き、伸び放題の髪、ひげといった、まるで原始人のような縄文人。獲物のいのししか何かを肩にのせしたりなんぞしてこん棒でも握り、その背景にほのぼのと煙でも上げる活火山...の図。というようなのが、縄文時代のイメージだったような気がする。

 それでも縄文初期、紀元前6000年頃には、すでに焼畑農法でイネが作られていたという事実まであるとのこと。そして、さらに弥生時代となった静岡県登呂遺跡では壮大な水田の遺跡が見つかっていて、一区画4〜5坪ほどの小ぶりな田が一万枚もまとまっていた、なぞという事実も。されば当時の人々はよほど勤勉かつ働き者で、地域で一致団結の農作業をしていたのかしらん。とたいそうな想像までめぐらせてしまいそうなのだけれど、あにはからんや、実はその田100枚中、たった22枚ほどしか利用されていなかった、らしいとのこと。あとの80枚ほどの田には、ヒエ、粟、蓼(タデ)などが雑草のごとく栽培され、あぜには楠の木(樟脳の原料で虫除け)や桜が植わっていた。タデは藍染めの原料で除虫効果、楠の木の葉は除草効果、桜の葉は殺菌効果と実に合理的。当時、人々はあまりまじめに稲作をしていたわけでもなく、こっちの田で不作になってくるとあっちの田にかわり、米の蓄えが少なくなればもっとたくさんの田を耕す、水のない田ではいろんな野菜を混作する、といった具合に気楽な農業をしていたらしい。そして、そんな気楽な農業が実は豊臣秀吉の『検地』以前までは行われていた。『百姓は生かさず殺さず』という言葉や『飢饉』などという現象はそれよりあとのはなしということになる。

 農薬も、化学肥料も使わずにすむ農業が、なんと8000年もつづいてきたというのに、現代農業とはなんと不自然なのだろう。

169 笑 顔


 喜怒哀楽という感情を、人というものはその言葉、表情により、表現するのがうまい。他の動物にしても、複雑な言葉はもたないものの、お互い、やはり上手に感情のやりとりをしているのだろうけれど。

 この四種類の感情のうち、『楽』を表現するとき、人はよく『笑う』。欲に絡んだような『一人笑い』のような、あまりよろしくない笑いもあるけれど、みんなが一同に会して『笑う』というのはなんともたのしい。

 先日、ある取引先で『収穫祭』が奥三河の里山でとりおこなわれ、道長も呼んでくださった。普段は人の気配もない、せいぜい年寄りと飼い犬くらいが過ごすだけの山間に、その日は、大勢の町からの訪問者たちでがやがやとにぎやか。一反五畝ほどの畑は、秋冬作の秋物の収穫、麦の種まきなどで、けっこういそがしそう。でもそこはそこ、頭数による勝利でめでたく作業終了ということに。たのしみなお昼時には、予定どうり、秋の収穫物をふんだんに使った『手料理』の数々がならんだのです。

 小ぶりでひょろっとしてはいるけど、りっぱな味の『薩摩芋』。おでん種にはほくっとした『里芋』。薄塩で風味満点のたくあん漬。おいしく漬かった奈良漬うり、去年漬けた菊芋のみそ漬。とにもかくにも、里山の幸をふんだんに使った野趣料理はほんとうに「うまい!」。

 そんな手料理のなか、ひっそりと、可憐に、そしてたくましい『おふくろの味』に気付かぬ者はなかったでありましょう。『つけもの』『煮付け』の類はすべて、その畑の地主、後藤のおばあちゃんの『作』だったのです。とくに、漬物なぞ、その収穫祭の日のために、手塩にかけて漬けたにちがいない、というタイミングの漬かり具合。とくに、ぼくは漬物屋なので、後藤さんのその気遣いがしみじみと感じられるのでした。風もそよりと穏やかな秋の一日。

 めいめい、満たされた食欲に「なにも言うことはありません」といった表情の中、一同で記念撮影の段となる。秋空のもと、たのしい笑顔が人数分だけ並ぶ人垣の中、ひときわすばらしい笑顔がありました。後藤のあばあちゃんの笑顔。なんてチャーミングで、あったかく、心のこもった『忘れ得ぬ』笑顔だったことでしょう。

170 三河湾


 自称、チヌ、メバル釣師のぼくにとって、釣り物のすくない冬にはなんといってもメバル釣り。メバルといえば、細仕掛け、軽装備で楽しめ、ささやかな冬の夜のたのしみ。

 三河湾といえば、一部、国定公園にも指定されていて、風光明媚なところ。渥美半島の田原町あたりもそれから外れてはいるものの夕日がきれいで、メバル釣りというとよく出かけるスポット。ところが悲しいことに、10年前はよく釣れて楽しませてくれたこの魚が、最近はさっぱり姿を見せてくれなくなってしまった。

 豊橋市のある大学の研究で、ランドサットという人工衛星からのデータを利用して、三河湾の水質汚染の度合いを分布図にすることに成功したとの由。新聞に掲載された写真を見ると、汚染のひどい海域が赤色で表示されている。この方法は画期的なものなのだそうで、世界中のあらゆる海域でも利用できるのだそうだ。

 それは大したものなのだろうなと思いつつ、肝心な田原町あたりはどうかしらんと見てみると、がっかり。赤色とオレンジ色。三河湾ではとくに蒲郡市、豊橋市、田原町というような奥のほうがいちばんひどいのが一目瞭然。

 新聞には書いてなかったけれど、これはまったくの道理で、原因は3つ。まず大きな河川の流入が少ないこと。豊川という一級河川があるのだけれど、その水の大半が東三河、渥美半島の生活、農業用水として使われてしまうため、実際に三河湾にまとまって流入する量が極端に減ってしまうこと。もうひとつには、豊橋港が自動車などの輸入基地として発展するあまり、港湾整備(護岸工事、防波堤など)が進みすぎたことと。さらに、バブルの弾みで無計画に行われた大規模リゾート用埋め立てがある(今は荒地)。新鮮な淡水の流入がないところに、潮通しを悪くする構築物、干潟の減少。

 こんな調子で環境悪化が、改善の方向に向くどころか現在進行形というありさま。まったくなさけないといわざるをえない。かつて、水質汚染は各家庭の責任といわれ、それに対する改善が義務付けられ、あるいは汚水処理が大規模に行われてきたはず。なのに内水湾は汚れるばかり。今後、汚染の責任をさらに住民に押し付けるわけにもゆかず、かといって改善ができないとなれば一体、どうしてくれるんだ。ひそかな釣人のちいさな夢だけでも返してほしい。