171 遺伝子組換えと支配欲

 遺伝子組換え『イネ』名古屋シンポジウム、というのが催された。パネラーには推進派として、名大教授・松本哲男、愛知県農業総合試験場、農水省、厚生省。反推進派からは、ジャーナリスト・天笠啓祐、名大理学部助手・河田昌東、有機農業家・松沢政満。計7名。残念ながら、モンサント社からの出席はなかった。

 会場のだれかからこんな発言があった。米国が日本からの自動車他の工業製品を買うことの代償として、合理的に生産された低コスト農産物を『押し付け』られているだけなのではないか。さらに日本を、さらにはアジアを食糧をとおして支配しようという、いわば米国の『種子戦略』なのではないか。という『問い』に対してぼくには印象的な農水省の担当者の一言があった。(言葉使いに間違いがなければいいのだけれど)「このまま米国にやられっぱなしでいるわけにはゆかない。だから歯止めの意味でも研究はする」というような発言が農水省の担当からあった。この発言には問題はあるのかもしれないけれども、実際「そうなのかもしれないな」と我ながら納得もしてしまったのだった(どんな目的があったとしても、このような『研究』がなされるということには問題はあるのだけれど)。

 あるいは太平洋戦争以来、日本は『敗戦』したという理由で米国の支配を受けざるをえない状況が半世紀も続いてきている。沖縄のひめゆり、広島の原爆被爆にはじまり、安保、挙句のはては経済的抑圧、さらには『種子戦略』。

 自然界には弱肉強食という法則がある。とはいえ野生動物の『強者』といわれる種族たちは、権力の行使・支配などと大それたことなど考えもしないだろう。すべてのものにとって存在するチャンスは平等であり、そのバランスは余計な力が加わらないかぎり均衡している。自然の循環バランスは、この地球上で何十億年もりっぱに保たれてきた。

 支配する、されるという構図が人間の世の中にはある。政治的、あるいは経済的に権力的な支配がなされる。支配されるものは反発することで、あるいは、いつかは逆転してやる、という野望を秘めて苦々しくも支配を受ける。

 実はこの人間のもつ『支配欲』というものには重大な問題がかかわるのかもしれない。こんな『邪心』が自然を、野生動物を、環境をなえがしろにしてしまう、いわば、取り返しのつかない『原動力』なのかもしれない。


172 夕焼け


 冬ともなると何といっても美しいのが、西の空に沈んでゆく『夕日』。感動でしばし我を忘れる、などというような夕日はめったにないのだけれど、今の季節にはときどきめぐり合うことができる。

 以前、ぼくはサラリーマンをやめてから、4年余りのあいだ、地元のスーパーではたらいていたことがあった。お客さんに接しながらの仕事というのはぼくの好みには合っていたのだけれど、問屋へ行って物を仕入れて売るという行為に物足りなさは少なからずあったもの。インスタントものやいいかげんな加工食品。安値だけで客が行き交うチラシ合戦。このままこの仕事をやってゆくのかしら、と思っていた矢先、共同経営をしないかというような持ちかけ。

 そんなある日、ぼくはもやもやとした気持ちで車を運転していたのだった。ハンドルを右に切って直進道路を西に向かって走り出したとき、いつもはさほどは感じもしなかったのかもしれないのだけれど、ずっと開けた西の空になんとすばらしい夕焼けの大パノラマがくりひろげられているのだった。ぼくはしばし、唖然としてその茜色の夕焼け雲にみとれてしまい、とうとうとめどもなく涙がこぼれてきてしまうのだった。

 その時だったと思う。もやもやはすっきりと消え、今の仕事はやめてしまってもいいんだと決心もついてしまったのだった。じつはそれが今の仕事をはじめるきっかけにもなったのだと思う。

 漬物屋になったのちにも、何度か転機がおとずれた。そんなときの迷い、不安などもやもやする心をみごとに解消してくれたのが、思い起こしてみると落日の夕焼けだった気がする。そんな心境とすばらしい夕日が一致することは、今までの半生に何度もあったわけでもないのだけれど、そのたびにぼくは夕焼けに導かれたといってよい。

 お客さんのところでお誘いをいただき、秋祭りに出かけていっての帰り道。車を急がせるぼくの前方に美しい夕焼けが映っていた。幹線道路を行き交う自動車の流れ。ぼくもそれに乗って今日一日を思い返してみる。広場にはみんなの笑い声があふれていた。消費者のひとと生産者のひと、それを取り持つ流通のひと。みんなが同じ目的で集い、同じことで笑い、語る。

 そんなことができた、という安堵感か満足感。落日は瞬く間にすぎるのだった。

173 不手際


 毎年12月中旬、ひまわり農協音羽支店では町内の農産物をあつめて『農産物品評会』が催される。今年も企画され、予定どうり開催された。我らが『生ごみ生かそう会』も現在テスト中の『衣装ケース』を利用した生ごみ処理法を紹介しようと、事前の企画会議にも出席させていただいていた。

 にもかかわらず、なんと不覚というか粗忽というか、愚かというかなんというか、その開催日のことを『わたくし』ころっと忘れてしまっていたのだった。当日の出品などの打ち合わせは、鈴木慶市さんとそのうちすればいい、と、自分で納得していただけで鈴木さんにも当日のはなしもし忘れてしまっていたのだった。

 『農産物品評会』前日の会場下準備、そして、当日の設営ももちろん忘れてしまっていて、とうとう、農協から「道長さん、なにしてるの?」の催促の電話。それを受けたときのぼくの一言は「(濁点付きの)えっ」。なんとすべてわすれてしまっていて、それこそ、したくもなにもしていないという有様なのだった。

 最近、こんなにもあわてふためいたこともついぞなく、久々頭の中がぐるぐると活気付く。無理矢理、鈴木慶市さんを呼び出し、引きずり出し、にわか作りの展示をでっち上げるのだった。そしてさらに、主催の農協職員一同に「ころっと忘れてしまっていて、どうもすいませんでした」といったような内容のせりふとともに深々、頭をさげて回るという一世一代の大恥。いったい、こんな大事なことを忘れてしまうなどということが、現実にあるものなのだろうか。

 そんなお粗末な展示だったのだけれど、手軽でうまくいく『衣装ケースの生ごみ処理』、けっこう反響もあって、さらに進めていってもよさそうだなという感触も得ることができた。またその進め方や方法についても、まだ、工夫もできるのかもしれないな、という展望も生まれるのだった。

 『農産物品評会』は正午の合図とともに、展示品の即売がおこなわれ、またたくまに売り切れ。それと同時に閉会、後片付け。準備に出席しなかった分を挽回しようとして右往左往する、けなげなぼくの姿がとても印象的なのだった。そんな不手際にもかかわらず、「道長さん、参加の御礼金、また持ってきます」とまで農協さんのひとこと。ほんとにありがたいやら申し訳ないやら。「がんばるぞ」、なんちゃって。

174 着メロ


 いままで道長には『携帯電話』が一台用意してあって、用で外出のときには便利のため携帯していた。一台では心細いということで女房とぼくとで各々持つことにして、あたらしく『iモード』の只の機種追加。手続きなどはすべて次女の久美子におねがい(結果的にはけっこう高くついてしまうのだけれど)。

 娘、さっそく契約してきてくれ、ぼくより先に説明書片手にひねくりまわす。一連の電話帳を入力し終わると、いそがしく各々の設定をしはじめる。 『着メロ』は『G線上のアリア』かどれがいい?。などと陰と陽、何種類かのメロディを披露。そのうち、300円の費用で好きなメロディが何曲かダウンロードできるから、ためしてみようではないか、というクミの提案(に乗せられた)。それじゃあ『ロック』で!と乗り気になってしまい、すべてのロックの曲目リストを検索してみる。あまりマイナーなものはなかったけれど、けっこういろいろなのを物色してしまった。

 ローリングストーンズ『真夜中をぶっ飛ばせ』にはじまり、ロキシーミュージック、クィーン、クリーム『移民の歌』、UFO、ボブマーリー『No woman no cly』、ライチャスブラザース『Unchained melody』等々といった名曲ばかりをダウンロード。こんなもの電話機に詰め込んでどうするんだ。人前で鳴ったら恥ずかしいにちがいない。とあとで思っても、もうに遅かったのだった。娘は、「これがだれからの着メロ、それで、これがだれで、どれがかれ」とすばやい仕事で、もうとっくのむかしに設定は『済み』にしてしまっていたのだった。

 『テスト』というわけで、子供たちの各々の『ケータイ』からぼくのiモードに発信。けっこう派手目だったり、妙に間延びの地味目だったりのメロディが次々とおごそかに奏でられて、ふんふんとわかったようなわからないような。おまけに、毎朝、七時になるとボブマーリーが「ぶつぶつ」と目覚まし音を鳴らしてくれる、という設定まで付く始末。

 娘たちと比べて、そんなこんなのいろんな機能には使う先からもうあきてしまった、というのがぼくの本音。設定の解除もめんどくさいので、毎朝「ぶつぶつ」の目覚まし。「うっとおしいから着メロなんて」と思っていたけれど、よく考えてみるとそれ以来、まだ一度も着メロが鳴っていない、ぼくのさびしい『ケータイ』なのだった。

175 テレビ(その2)


 ぼくが小学校低学年のころ、ぼくの家にはテレビはなかった。家風呂もなく銭湯通いだったし、電話も洗濯機もなかった。父なぞ、洗濯機は買えないまでも、せめて、というわけで、洗濯機に取付くはずの『絞り機』の部分だけを電気屋さんから仕入れ、洗濯場に設置。涙ぐましくも母はその絞り機の『ローラー』に洗濯物を挟んでは、うれしそうにハンドルを回していたもの。今にして思うとまずしかったあの時代。

 昭和30年代、ぼくの家にもやっとのことで待ちわびたテレビが入っていた。このころ、『テレビ』というとこれは大変なことで、一軒の給料の何か月分をもつぎ込んでのまさに『人生の夢』とでもいうべき代物だった。

 いままで父親が座っていた場所に、取って代わって4本足の回転台に置かれたテレビには、小型の映画館よろしく、おもおもしくもビロードの『幕』まで垂れ下がっていたもの。まさに『家宝』なのだった。

 ちょうどあの伊勢湾台風がやってきたとき(S34年9月)のこと。まれに見る『大型』という振れこみに、あれほど頑丈に戸板を釘で打ちつけたはずなのに、暴風のたびに雨戸が内側に折れんばかりに吹き付ける。垂木でそれに筋交いしてしのぐという有様。風向きに傾斜した屋根なぞ、吹き付ける雨のため一面が雨漏りとなる始末。停電の暗闇の中、ロウソクと携帯ラジオだけが頼り。

 そんな折、お向かいの住人が、あわただしくもぼくの家へ、なんと助けを求めてきたのだった。強風の下、風が家に入ってしまったのか、土壁が吹き飛んでしまい、それこそ着の身着のままで逃げ込んできたのだった。そのとき、なんとその主人が大事そうに抱えて持ち込んできたのが『テレビ』だったのだった。仏壇なぞよりもとにかく『テレビ』という選択肢しかなかったのだろう。『テレビだけは』という、そのときの主人の一言がいまも思い起こされる。

 さらにテレビはカラーの時代へ、はたまたBS、デジタル。将来、テレビはマスメディアという役割のほかに、電話をも取り込んで、通信手段としても重要な役割を果たすようになるのだろう。ただ、何といっても残念なのは、お下劣きわまりないゴミのような番組が、あいもかわらず世の中を毒しつづけているということ。

176 やり取り


 クリスマスには子供たちにプレゼントがおくられる。その多くはゲームソフトであったり玩具だったり。物あまりの昨今では、子供たちにとって与えられた玩具に『思い入れ』なんてさほどのものでもないのかもしれない。それにしても子供たちは、それらの玩具と遊び、壊す、をくりかえしては何らかの『こと』を身に付けてゆくのだろう。

 幼稚園のとき、親戚を頼って東京方面へ繰り出したことがあった。そのとき、なんと我が親はおそらく二度とない機会とばかりに、一台のブリキの自動車を買ってくれたのだった。けっこうリアルにかたどられたそのキャでラック、救急車は、陳列ケースの中でさん然と白く輝き、ぼくの心を魅了したもの。

 それから先は、あけてもくれても『救急車』で、そんな年月がけっこう続いた記憶がある。小学校で『おもちゃの構造はどんなでしょう』とかなんとかいって、先生が「おうちからおもちゃをひとつもっていらっしゃい」というので、まよわず、ぼくのお気に入りのそれをもっていった。その『救急車』のほかには、親戚でもらった『お古』の大きな蒸気機関車もあったのだけれど、なぜかそれが気に入ってしまっていたのだった。

 『もの』には感情などもないし、子供たちに何かを語りかけるなどということもない、とおとなたちは考えているのかもしれない。それなのに子供たちは消防士になって号令をかけ玩具の消防車を駆る。人でも動物でもない人形、ぬいぐるみに語りかけ、いつくしむ。お互い、あるはずもない言葉や感情のやりとりが、『架空』の世界でおこなわれ、その時が流れる。そんなひとときを通してでさえも、子供というものは成長もしてしまう。

 玩具ばかりではないと思う。子供たちは、その成長の過程で出会うあらゆる『もの』や『生物』、『ひと』『事柄』に対し、おとなたちの知らないどこかで、何らかのじつは現実的な『やり取り』をしている。『消費』という聞こえのよさそうな経済の仕組みの中で、ぼくたちおとなたちは、じつは非常になさけないようなことのために『やり取り』をしてしまっているのかもしれない。ぼくたちも、子供たちを見習ってみたらどうだろう。現代は「こんなにも閉ざされたものだったんだろうか」なんて、もしかすると実感もしてしまうのかもしれない。だったとしたなら、そうじゃない『もの』や『こと』であふれんばかりの世の中になるように、ささやかだけれどぼくたちの手がけるところから、『やり取り』のためのきっかけを送り出してゆこうではありませんか。

 まんざら未来はすてたものでもないのかもしれません。いよいよ21世紀。

177 21世紀


 20世紀も押し迫った大晦日の朝、まったく不覚にも鶏小屋のチャボを竹やぶにトリ逃がしてしまったのだった。ちょっと小屋から出たくらいなら問題もないのだけれど、このときばかりはまさに『21世紀への飛翔』とばかりのとん走。

 この竹やぶ、手入れをまったくしていないものだから、人跡未踏の秘境。さらにこのやぶ、2mばかり下に落ち込んでおり、小型のチャボがよじ登ってこられる高さじゃない。ほっておけばいいものを(動物には帰属本能というのがあるのです)何を血迷ったのか、犬まで繰り出して竹やぶを探し回る、という自らの姿をまともに目撃してしまったのだった。

 『火に油を注ぐ』とはこのことで、こういうことをすると彼女はおびえて逃げるばかり。いったんはヤブのなかで見つけたものの、無げもなく、またも彼女は飛び去ってしまったのであった。

 この界隈、飼い猫はいる、タヌキ、イタチ、ハクビシン、それにアライグマまで出没するというありさま。小振りでか弱きちゃぼの生娘の命は『砂上の楼閣』『風前の灯』『くもの糸』。状況からも判断すれば、彼女、ぜったいに生き延びるのは無理だろう、と。それきり、もう二度と姿を見ることはなかったのであった。

 だがしかし、21世紀も明け、一昨日一月八日朝、なんと彼女は忽然と姿をあらわしたのだった。ここは落ち着かなければ、と思いつつ、あわてたぼくは魚獲り用のタモアミを持ち出してしまい、またしても彼女を追い払うかたちとしてしまったのでした。もうすっかり頭に来てしまったぼくは仕方なく、憤懣やるかたなく、ただそこにいるからというだけの道長のよめさんに当り散らすのだった(ごめん)。

 日はあけて翌朝一月九日、なんとけなげというか、ふてぶてしいというべきか、彼女はふたたび再度、その姿をあらわしたのであります。その朝のぼくはなぜかとても落ち着いていて、促すがごと、鶏小屋の戸を彼女のために開けてあげたのでした。そうっとこちらで見ていると彼女、おもむろに、我が家へとご帰還とあいなったのであります。

 足掛け一世紀にわたる一人旅。この記念すべき出来事を知ってか知らずか彼女の母親は、おばかさんとばかりに、くちばしの突っつきを食らわせるのであった。結果として、平和な21世紀の幕開けとなったのであります。

2001/01

178 ビョーク


 娘が「よかった」というので、久しぶりに映画を観にいった。『ダンサー・イン・ザ・ダーク(闇の中の踊り子)』という題名で、主演はアイスランド出身のビョ―ク(元シュガー・キューブというバンドにいた)という女性ロック歌手。

 内容、あらすじなどについては何も知らずで観たのだけれど、まったくおどろいてしまうようなもの。アメリカ映画であってそうでなく、ミュージカルであってちょっとちがう、悲劇であってそうでない、といったような(実はデンマーク映画です)。あらすじやカメラアングル、その他の配役など(カトリーヌ・ドヌーヴもでています)がかすんでしまうというほど、とにかく最初から最後までビョ―クのイメージが強力な映画。

 1960年前後の米国、チェコから移り住むセルマという小学生の息子をもつ母親(bjork)の物語。彼女はミュージカルが好きで、地元の劇団に参加している。彼女の家系は遺伝的な病を抱えていて(いずれ盲目になってしまうという)、今回は彼女が、そして将来には息子が犯されてしまうという必然的運命を背負ってしまっている。そんな運命と、息子の目の手術のための資金を貯めるためだけに費やされるアメリカでのまずしい生活。そんな中でのミュージカル、そして音楽。音楽は彼女の心を支え、勇気付け、最後には...。

 随所でビョ―クのすぐれた音楽性とたぐいまれな歌唱がたのしめ、ぼくなどは、あらすじで涙ぐむ以上に、むしろそちらのほうで感涙してしまった。

 監督(脚本も兼)がこの映画の中で『音楽とは』と表現したかったものがあるのだろうけれど、それよりはむしろ、ビョ―ク自信が彼女にとって『音楽とは』かくありきと、観客に対して明示するという結果になっているように、ぼくにはとれた。それほどにビョ―クの歌声は鮮明で、力強かったのだった。

 それぞれの時代にはそれを代表する文学、絵画、写真、映画、音楽などの表現媒体がある。その中の大衆音楽、さらに『歌姫』をだれが代表するかと問われたならば、ぼくなら、BJORK(ビョ―ク)と答える。

 BJORKの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、いい映画です。
麦・大豆
179 


 毎年、減反による米の作付け面積の削減はといえば、いまや恒例ともなってしまった。ここ音羽地区でも減反率30%と、うんもすんもなく定められている。昨年の稲の作付面積は15ha。

 そうかといって減農薬栽培を実行している『音羽米研究会』では、需要と供給のバランスが完全に取れる状態で作付けをしているために、減反は歓迎できない。だから、減反をしても生産量は落とさないような操作をしなくてはならず?大変なのだそうだ。

 減反が実行されれば、必然的に増えてくるのが、耕作されない畑。ここで話題に上がってくるのが『小麦』と『大豆』で、音羽米研究会でも各々約20haづつの作付けがなされ収穫もされた。小麦は豊作だったけれど、残念ながら大豆のほうは採算ベースに乗るまでには程遠い収量であったとのこと。いずれにしても、昨年ははじめてということもあって、「まあこんなもんだ」そうだ。

 奨励品種(政府の買い上げ価格が高い)ではないのだけれど、パン用の小麦も出来、試作のパンも試食させていただいた(けっこういけます)。さらにこれを他の加工食品(パスタ、生麸、ケーキなど)にも使ってみようと、前向き。さらに大豆についても、もう夢が広がっていて、毎年恒例のみそ作りのほか、さらに『醤油』まで作ってしまおうと、これもかなりの前向き。碧南市で酒蔵が閉まるときいて、なんとまあ、いち早く、醤油を絞るための『圧搾機』まで払い下げてきてしまうという気のいれよう。

 この小麦と大豆、栽培に関してこの音羽地区との相性はどうかというと、これがけっこう「よろしい」のだそうだ。とくに、減農薬での栽培には適しているとのこと。北海道での小麦の栽培には、農薬の使用量が意外に多く、不可欠。雪による湿気や低温のおかげで病気が発生しやすいのがその理由。大豆についても、除草剤の使用は避けられないとはいえ、大幅に削減、さらに無農薬も夢ではない、と、音羽米研究会の鈴木さん。

 転作作物はまだ始まったばかり。国策に従わざるをえないのは残念なのだけれど、それをさらに足掛かりにしてゆこうと、明るくはりきっている。

180 クイズdeコンポスト


 生ごみのたい肥化などのリサイクルを実践、試行している個人や団体、さらには自治体などが集まって、交流を深め、さらには一般にもアッピールしようという集会に参加する機会があった。

 字ばかり多い資料などは、あまり読んでもらえないだろうということで、クイズを出して答えてくれた人に『生ごみたい肥』のサンプルをプレゼントすることにした。これがなかなかの人気で、100袋用意したものが1時過ぎには完了してしまったほど。けっこう生ごみのたい肥化に興味の深い来訪者ばかりで、答え合せの結果不正解だった『問い』については、ちゃんと納得させられる説明をしてあげないといけなくて、対応するのもけっこうたいへん。

 ちなみに、ここでその『クイズ』をどうぞ。――― 『クイズdeコンポスト』―――
@たい肥ってなんでしょう:(肥料 土壌改良材)。
Aたい肥の材料にならないものをえらんでください:(もみ殻 生ごみ 金属 米ぬか 家畜のふん オカラ 土 エンジンオイルの廃油 プラスティック)。
Bたい肥にいちばん欠かせないものはどれですか:(肥料成分 微生物 食物繊維)。
Cよいたい肥はどんなにおいがするでしょう:(ふりかけみたいないいにおい ちょっとかび臭いようなにおい 無臭)D生ごみを醗酵させるとどれくらいの熱がでるでしょう:(30℃くらい 50℃くらい 70℃くらい)。
Eボカシってなんでしょう:(肥料 たい肥 その両方をかねそなえたもの)。

 これらの正解に対して、けっこう異議の申し立てもあったのだけれど、実際たい肥作りをしていて、それを農耕用として利用している人には充分納得できるもの。とはいえ、100人の回答者のうち全問正解はなんと、たったの4人だったのだった。そのうち2人は小学生女子と高校生男子で、他に男性、女性。以外にも『たい肥』に対する理解度がうすいのにおどろいてしまった(模範解答はこちら)。

 ひとつづつ手渡した手作りの『生ごみたい肥(説明書付)』。ちゃんと役立ててもらえると、こちらもうれしいんですが。