181 コイ農法(その2)

 今年初めてコイ農法で稲作をすることになってしまったのだけれど、まず、しておかなくてはならないことがある。それは、コイの『溜まり場』を作ること。

 イネの背丈が低いうちは田んぼの水温が日中急上昇するため、水深を深くした場所が必要となる。さらに、こういった場所は、雨が不足して減水したときにはコイの避難場所としても必要。というようなわけで、今度うちが貸してもらう田んぼの一角に穴を掘って土留めをすることに。

 本来なら水のない状態で穴堀したほうがいいのだけれど、この田んぼは年中水が引かないため、ぬかるみの中での作業となってしまった。魚釣り用の胸下まである胴長をはいて作業開始。「うーん、なかなか大変かも」と思いつつ、泥底をスコップで掘り下げる。すぐになにやら硬いものにスコップがあたる。土留め用の杭棒を打ち込もうとすると、やはり硬いものに阻まれる。「こまったぞ」と思いつつ、泥底を探ると石の様。他にもあたると思ったら、長い木材。このあたりは少し掘ると石がたくさん出てくることは知っているのでわかるのだけれど、この木材はいったい何なんでしょう。

 とにかく、これらの障害物にはほとほと参ってしまい、音羽米研究会の鈴木さんに聞いてみる。どうやらこの田んぼ、湿田で底が深いため、足が沈まないように「むかしおやじがいろんなもんを入れたのかも」と、息子の晋示君。

 これはたまらんと、最後の切り札『ユンボ(パワーショベル)』ということになってしまった。ユニックのTPO(自走式の重機の積み下ろしのために、荷台自体がスライドダウンする仕掛け)付きのトラックで田んぼまでユンボを運ぶ。忙しさで誰も手伝ってくれないから(なれなくてもこんなことまでやらせてもらえて勉強にはなるんですが)、全部一人でやりました。ユンボが田んぼで沈むかと思ったけれど、泥底の石のおかげで無難に。

 やはり文明の利器だけあってそのパワーはすさまじく、障害物だらけの泥底は難なく掘起こされた。にもかかわらず、土留めの杭棒を打とうとするとやっぱり硬い。いいかげんな杭棒と板で土留めはしたものの、トラクターが近くを踏むと崩れてしまうんじゃないかと思えるほど貧弱なコイの『溜まり場』の穴掘り作業を一応完了したのだった。


182 遺伝子汚染


 遺伝子の汚染、という問題はアメリカ国内だけでのものと考えられていたのだけれど、そうもいかず、困ったことが起こってしまっているらしい。

 スターリンクという殺虫遺伝子をもったとうもろこしが、想像以上の規模の遺伝子汚染を引き起こしているとのこと。
米国から輸入されていた食品用のとうもろこしにさえ、ご法度のスターリンクが混入していたということで大騒ぎになったのだけれど、今度は日本で出回っているコーンの種子にまでも。

 日本国内(ホームセンターや農協、種苗店)で売られているコーンの種子の90%は米国からの輸入で、あとの10%が国内産とのこと。『日本有機農業研究会と市民団体は二十日、遺伝子組み換えとうもろこし「スターリンク」が輸入種子に混入しないよう、農水省に対策を申し入れた』という内容の記事が日本農業新聞に載っている。輸入種子にすでに混入しているとは明言してはいないものの、その可能性がかなり高いことをにおわせている。厚生労働省と農林省は4月より、5%以下の混入率ならば『非組み換え』と認める、などと逃げてしまっている。

 改正JAS法による有機農産物認証制度では、GM作物の栽培は認められていない。今年作でもし、GM汚染が起こるとすると、今年の収穫ではコーンの有機認証は出来なくなってしまうことになる。米国では2001年以降のスターリンクの栽培を禁止している。禁止はされても、種子に混ざっているならばどうしようもない。それが5%以下なら有機として認められてしまうのだろうか。政府の見解ではそれで済むかもしれないが、有機農業者にとってはそうはいかない。いずれにしても、禁止しようが不可避的に混入してしまっているのならば、それこそとうもろこしの栽培、収穫、出荷自体をあきらめる以外に方法がないことになってしまう。まさか、出荷のたびに、高額な検査をするわけにもいかない。

 一体全体、この深刻な問題はなぜ起こってしまったのだろうか。『何か』の目的のために「良かれ」と思ってすすめられた事柄なのであれば、このような『遺伝子汚染』などという取り返しのつかないようなはなしにはならないんじゃないか。一部の企業の一方的な私欲というものがなければ、問題はこんなところまでも及んだりはしないはず。

 現在も、イネをはじめ、たくさんの種に対して遺伝子組み換えが企てられている。その行為が人類共通の利益のために行われるのでなければ、危険性をいつもはらむことになり、やはり許されるべきではないと思う。


183 雨中の凶行


 世間はゴールデンウィークとなり、幹線道では『何キロ渋滞』という情報。その車中の行楽客もいらいらなのだろうけれど、今日もなぜか仕事の道長にとってはもっといらいら。

 ぼくの連れ合いは今日の日曜日(雲行き怪しきにもかかわらず)、パートさんも休みだし、仕事は午前で終わりにして待望の『潮干狩り』を敢行という意気込み。次女とやる気で鼻息を荒くした彼女の彼氏、なんとなく『引き出された』感の長男のカップル、そしてぼくの連れ合いの連れ合いを動員しているものだから、ぼくの連れ合いは気合充分といったところ。次女の彼氏の鼻息が荒いのは、先に会社の同僚と出かけた潮干狩りが不漁だったのと、今回は胴長と『ジョレン(熊手のように海底の砂を引っかいてアサリを採る道具)』という『最終兵器』に夢を託しているからに他ならない。今日の漁場は(いつもそうなのです)有料の潮干狩り場ではないので、この兵器は非合法のものではないのだった。

 今日は15時半の干潮。昼になってとうとう雨が降りだした。そしてしだいに本格的に・・・。田植え前の農家ではやっとの恵みの雨なのだけれど、潮干狩りの一団にとっては大いなるマイナス要因。ちょうど半月ほど前、ぼくがこの『兵器』でいい思いをしているので、今度は次女の彼氏にその夢を分けてあげようといういわば、親心も。

 いつものお好みの『漁場』はといえば、到着してみると人影がゼロ。もっとも、昼からは風も吹くだろうというこんな雨の中、親衛隊のような連中がそんなにいるはずもなく、はるか向こうの別の漁場にちらりとする程度(それでもいるところがこわい)。かくして酒蒸とあさりのみそ汁で腹いっぱいの宴、を思い浮かべての胸躍る潮干狩りは開始されたのだった。涙ぐましくも、これが道長のゴールデンウィークをかざる『行楽』となるのだろうか。

 よい思いは毎度というわけにもいかず、なぜか本日ははかばかしくない。『手掘り』も、肝心の『重兵器』もなぜか不発。それでも時々かかる酒蒸サイズのアサリに勇気付けられながら、彼氏の暗夜行路ともいうべき孤独な作業が続けられるのだった。ますます強まる雨、風。にもかかわらず、嬉々としてやめようともしないぼくの連れ合い。一体、何がたのしいんだろうと、少なからずの疑いの心もぼくには隠せない。かくて、凶行は干潮時まで延々と行われたのだった。決して『良』とはいい難い水揚げだけれど、なぜか軽い足取りの帰路なのだった。

 冷え切ったからだは内から温めねば、とばかり、帰りのうどん屋であついみそ煮込みをたぐりながら、早くも次回の豊漁に夢を馳せる一同なのだった。


184 CHINA


 中国を訪問するという機会を得た。初めての海外旅行であり、訪中。行き先は、江蘇省の三都市上海、南京、除州。生の姿の中国が見られる、ということで参加させていただいた。

 上海から南京・除州までの往路は自動車、除州から上海までの復路は列車(寝台車)という強行軍で4泊5日。そんなおかげで現在の中国というものを間近に見ることができ、貴重な体験をすることができた。

 上海から南京まではすでに高速道路が通じており比較的快適なのだけれど、南京から除州までは一般道なのでちょっとたいへん。上海にしろ南京にしろ、街を過ぎれば即畑で延々と続く麦、菜種のなかに点在する農家。一般道の沿道には往来の車をあてにした商店が所々並んでいて(客が寄っているとは思えない)、自動車の修理、飲食店など。

 さすがに社会主義の国だけあって、各農家に(人数に応じて)割り当てられた農地はみごとに耕されている。農耕は一部ウシも使われているようだけれど、耕耘機が一般的のよう。広い中国ではこの機械が唯一の農耕機械であり、街への買い物の足であり、運搬手段ともなる。その耕耘機の荷台に家族が乗り込み、朝の市場に向かうさまはほほえましくも反面、涙ぐましくもたのしい。やはりそれは貧しさの一面を見てしまうからなのだろうか。

 南京―除州間は自動車道とはいえ、人、荷車、自転車、耕耘機などの横断は頻繁だし、遅い車を二重に追い越したりであぶなっかしくてしょうがない。よくこれで事故が起こらないものだと感心させられる(実は頻繁に起きている)。往来のトラックなど過積載などあたりまえで、中国製のオート三輪なぞを運搬するのに、4トン車に毛の生えたようなのに幅の広い台のようなのを載せた上に9台づつ2列に積んでなんと18台も。

 中国の現状を見てしばらくは唖然とはしたものの、こんな風景どこかで見たような気がすると思ったら、ぼくの幼いころ、身の回りでおきていたことそのものなのに気がついたのだった。戦後の焼け野原から、ただ夢中で復興以外のことは何も考えずに突き進んでいた日本。公害は垂れ流され、環境はひたすら破壊され、ただ経済を発展させただけの時代。今も懲りずにそれをくりかえそうとしているのだけれど、良くも悪くも、中国の人民のエネルギッシュな姿に感激させられ、じわーっと目頭が熱くなってしまうのだった。


185 人 力


 米を作ってみたいということで、今年初めての試みなのだけれど、いまさらながら実感してしまう。道長が借りた田んぼは約一反ほどで、その半分を『コイ除草』、あとの半分を手押しの『草取り機』で。

 田植えくらいは自分で(やっぱり田植え機を使う)ということなのだけれど、田起しや代かきは音羽米研究会の鈴木さんにお願いした(鈴木さんはお父さんがイネの苗、息子さんが田んぼという役割になっている)。

 代かきのとき田んぼに水が少なかったとみえ、『液状化』しなかった土が盛り上がってしまったところがあるためレーキでならす作業をすることに。田植え作業用の長靴を履き、「こんなのちょろい」と作業をはじめてみるものの、ちょろいのはじつはこのぼくなのだと気づくのにいくらも時間はかからなかったのです。盛り上がりのきついところの泥は少しづつレーキであぜに取り上げたりなんかしていたら、けっこうたいへん。泥をならしたり取り上げたり、ほんの一時間もあればできると思っていた作業が、時計を見てみるともうすでに二時間も。とにかく作業を終わっておかないと田植えができないから、なんとか終結、へとへと。機械で片付けられない作業となると『人力』ということになり、ほんとにたいへん。さらにあしたは田植え機を使っての『田植え』。なれない作業でたいへんなのだろうけれど、ちょっとたのしみな気も。

 考えてみれば、人の歴史の中で人力・手作業という部分のいかに多かったことか。そして、それらの作業はわたしたちの生活文化と深くかかわってきた。日常的に続いてゆくつらい仕事の数々。わたしたちの先達たちはそんな毎日をあたりまえのこととして受け入れ、すごし、そしてそのなかからよろこびさえ得ていた。そのよろこびとは、まちがいなくわたしたちが機械やメディアなどを小手先で利用するうちに得ているよろこびなどとは、比べものにならないくらい大きなものであったのだろう。

 そんな視点で、わたしたちの仕事や生活も見つめなおす必要もあるのだろう。今年の米作りはそれをあらためて学べる、ぼくにとっていい機会となるかもしれない。


186 恵みの雨
01/05/22


 田植え時からもうじき入梅、というのにさっぱり雨が降らず、音羽では顔見知りが会えばきまって話題はまずは水のことから。道長では今年米作りをはじめたばかりのくせに、やっぱり雨のことが気になる。

 朝と夕には田の水の具合を見に行き、ちゃんと水があればほっとし、でなければどうしましょ。とにかく田舎ではこの時期、水の話題で持ちきりという具合。

 音羽米研究会の鈴木さんのおじいさんが亡くなり、お通夜、お葬式という運びとなった。享年87。すでに3年以上寝たきりの末のやすらかな往生ということで、しめやかではありながらおごそかなお式ということになった。こういったときにはなすすべを知らず狼狽気味の遺族を尻目に、近所の者たちのすばらしいチームワークにより、事は手はずどおり順調に進行してゆくのだった。

 そんな人の集まる場所で、話題に上るのは今は亡き人信吉(のぶきち)さんのこともさることながら、久しぶりに集まった親戚筋を「あれが新家のだれ」「それが息子の農生雄(のぶお)さんのなにのなに」などとささやきあう近所の手伝い集たち。挙句の果てには最近見慣れない町内の顔ぶれの照らし合わせまで始まったりして。

 そしてやっぱり話の核心は田んぼの水、天気予報の雨ということになる。「うちの田んぼはどこにモグラの穴が開いとるのか、水が干ってしまってどうも具合が悪い。ペットボトルの風車がいいっちゅうがどうだ、云々」。おりしも明日の天気予報は『雨』ということになっていて、一同の視線は縁側から見える曇り空に集中する。そんなこんなでお葬式のあとの『三日』が折り詰めと飲み物でゆったりとおこなわれる。親戚筋の退席のあと、すみやかな後片付けで『お開き』ということになった。

 明けて翌日、朝方のぐずついた空模様はおごそかに雨模様ということになる。パラパラとして威勢はないけれど、次第に雨らしい天気となってきた。そのうちに雨は確かに『しとしと』とおごそかに降り続いていくのだった。これはよいお湿りになるのかも。それは信吉さんのあの世への置き土産のように思えてしかたのない恵みの雨なのだった。


187 コイの悲劇


 先日、いよいよ田んぼに入れる(除草用に)コイが入荷した。仕入先は長野県佐久市の養殖漁業協同組合。佐久では水田を利用してフナやコイを放養したり除草用に利用する農家が多いため、養殖もさかんなのだろう(他の地域では、方流用としての養殖はしていないようで、観魚店経由で仕入れようとすると非常に高価なものについてしまう)。

 クロネコ宅急便で朝10時前に到着したものの、ふたを開けてみると魚体に痛みのあるものもあり、瀕死状態のものも多かったため、夕刻の田んぼの水温が低下するのを待てるわけでもなく、11時ころ放流ということになってしまった。

 田んぼに手を突っ込んでみると、すでにぼくの体温より高い様子。コイの移送用のポリ袋のまま、しばらくは田の水に浸して温度差をなくしてやるのだけれど、いかんせん水温が高すぎる。他に一時的に放すところもないので放流慣行。だがしかし、心配したとおり悲劇は起きてしまったのだった。結果的には放流した半数ほどが犠牲になってしまい、当の本人はしばらくショックでがっくり。

 大量に死なせてしまった原因を考えてみた。@コイは長野からの長旅で疲れていた。A放流の時間帯が水温の上昇する昼近くとなってしまった。Bコイを入れる田んぼへの引水が用水から直接でなく、となりの田んぼからの溢れ出しで水温が高すぎた。C田んぼへの引水の量が少ない(これは解決不可)。この場所でのコイ除草は難しいんだろうか。

 いつまでもうなだれていても仕方ないので、改善策を考えてみた。@近隣で放流用のコイが仕入れられないか。A水温の上がらない早朝にコイの放流を済ませる。B用水から直接水が引けるよう、別に水路を作ってやる。

 というわけで、雨どいを利用して用水からの水温の低い水がコイ田に入るように工作完了。少しはましになった。あと近隣でのコイの仕入れと放流する時間帯については、まだ未解決。

 ぼくは魚を飼うのにはよほど慣れているつもりではあったけれど、今回のようなことになってしまった。やってみてはじめてわかったのだけれど(もっと前にわかってればよかった)、ほんとに残念なことをしてしまった。とはいえ、これで終りにするわけにもいかないから、何事も経験だと思ってとにかくやってみよう、と。


188 組換えイネ説明会


 愛知県農業総合試験場(以下農試)で6/5日、遺伝子組み換え研究の説明会が行なわれた。これは5月はじめ、昨年隔離圃場での栽培試験が行なわれていた、除草剤耐性遺伝子組み換えイネの一般(開放)圃場試験の認可が厚生省からおろされたのを機会に、一般への啓蒙を目的とするもの。

 昨年の組み換えイネの隔離圃場栽培試験の結果は、厚生省に対して行なわれた一般圃場での試験の許可申請資料(最近情報開示された)から見ても当り障りのないものになっている。

 組換えイネの開発趣旨、経過など説明の後、質疑応答という段となる。大方のQ&Aはつぎのとおり。
○商品化のメドは:長期のモニタリング(収量の把握、種の固定などのため)も必要なので、3年くらい。
○モンサント社による種子支配は:特許権は農試とモンサント両者にあるので、そういうことはない。
○交雑について:交雑距離は20m。
○研究段階での安全性は、またその責任の所在は:文部科学省の実験の指針にしたがっており、農水省の基準に基づいて隔離圃場実験も行なっており、問題ない。安全の責任は開発者、認可した国の機関にある。
○コストダウンになるのか:除草剤の使用基準が定まっていないので、はっきりとはいえないが10〜20%くらい。

 一連の質疑応答のあと、梅雨入りの雨の中、それぞれの栽培実験施設を見学。閉鎖系、開放系温室。直播のイネの栽培試験もしているという一般圃場。現在、問題の組換えイネを試験中の隔離圃場などをそれぞれ説明していただきながら見て回った。

 農試では組換えイネの試験は整然と行なわれているし、この種が商品化されて世に出る可能性は少ないかのようにもうけとれないことはない。しかしながら、これはあくまでも農試サイドの見解であり、そのパートナーたるモンサント社の声は今回一切聞くことはできなかった。ただ、いちばん恐れなくてはいけないのは、それが評判の良くないモンサント社であるということ。利権の問題など、なんとでもしてしまうしたたかな会社でもあることをあらためて認識しておかなくてはいけないのかもしれない。

189 鳥川(とっかわ)の蛍狩り


 今日はちょっと早めに仕事を終わって帰ろうと思っていたら、次女から電話。鳥川(音羽町と一山へだてた額田町の地区)へ蛍を見に行くのだそうだ。何日かまえ、ぼくが音羽からの帰りに鳥川を回ってみたところ、源氏蛍がまあまあの数見物できたとはなしていたため、さっそくでかけたらしい。

 こちらもついでなので、鳥川経由で帰ろうということで軽四で出発。鳥川への峠越えの細い林道は普段、この時間には真っ暗で怖いくらい。なのに、今晩はばかに車の往来が多い。と思っていたら、峠まで行かぬ先に車が渋滞。そういえばぼくの先行の車は名古屋ナンバー。ひょっとして『蛍狩り?』、なのだった。なんでこんなところまでくる必要があるんだろう、と往来に立ちふさがった障害物の列になかば『怒り』までおぼえてしまうのだった。

 これではたまらないので鳥川経由はあきらめて、峠の手前の三叉路を左折して引き返してしまった。こちらの道は地図には載っていないので、車の往来は皆無。

 音羽とちがって、額田町は山が深いため、水には恵まれている。そのため、集落を縫って流れる清流には蛍の幼虫の好物のカワニナなどの巻貝が豊富。それに鳥川には蛍の保存会があり、養殖までしている。その地道な活動のおかげで初夏の夜の静かな『おまつり』ということになるのだろう。毎年この時期のウィークエンドには騒然と車のヘッドライトの行列。夜店まで出るありさま。これでは蛍の光だか電気の光だかわからない。

 おそらく、この蛍狩りは地元の人たちが子供たちに残してやろうという自然、文化なのだろう。それを都会の人間が知り、『観光まがい』にまで発展してしまったものだと思う。こんなことまでしないと日本の文化というか、風情というのか、実感できないんだろうか、と思うとなにか複雑な気持ちになってしまう。

 まだ可能な環境のもとで野生生物を人工的に保護をするという行為はいけないとはいわない。けれどそれ以前に、この日本では環境を守る、回復する努力がされてもいいと思う。

 仕方なく音羽に引き返したぼくは、田んぼ脇の水路に今年も数少なく浮遊する蛍光をながめ、なんとなくさみしい気持ちになってしまうのだった。

190 鳳来の梅採り


 いよいよ梅の季節となり、今年は『成り年』ということもあり、巷は値打ちな梅の実であふれ返っているのです。そして、今年も鳳来の河西さんの梅を収穫ということになった。今年はがんばらなくちゃっ。

 河西さんは新城市に家族がありながら、ぜいたくにも鳳来湖畔のキャンプ場の管理人という立場で、そちらに単身住み込みということになっている。5月を過ぎれば田植えだ、キャンプ客だということになり、ウィークデーの百姓、週末のキャンプ場支配人と忙しい。

 「梅も色がついてきたよ」という河西さんの知らせをいただき、さっそく梅畑のある鳳来町の千枚田へ。今年は娘二人のカップルと、その友だち夫婦(笠原さん)、そしてまたその友人(独身デンマーク人、スティン)と一番下の息子の合計8名の助っ人のおかげで、たいへんに気強い。

 片やぼくらのように職業で梅採りを敢行するのと、研究室で(笠原さんとスティンは基礎生物学の研究員なのだそう)の仕事から解放された日曜日のアウトドアでの梅採り。ちょっと対照的な気もするものの、そろってお昼のお弁当をいただくとき、やっぱりとっても気持ちいい。初夏のけっこうするどい日差し、心地よい谷風、新緑の香り。ん〜ん。すがすがしい気分。・・・なんて思っていたら、突然遠くで銃声がしたりして。でも、暴力団の抗争でもなければ、乱射事件でもありません。最近多い獣害に耐えかねた農夫たちの常套手段。鹿か猪か。夏の猪はあまりおいしくないけれど、鹿はなかなかいけるんです。猟の当日は刺身で、翌日はカレーかなんかでいただくのかしら。でもちょっとかわいそ。

 ところで今年の収穫量は・・・。昨年の2倍ほどと多く、豊作。梅の作柄も良好で、粒も大きめ。梅はおおかた完熟気味。今年もおいしい梅ぼしがたくさんできることでしょう。

 そうそう、梅採りの仕事を手伝ってくださった方たちには、やっぱり梅のおすそ分け。漬物屋のぼくの立場としては、梅ぼし作ってほしいところだけれど、でもやっぱりすっきりと梅ジュースか梅酒。砂糖たっぷりで作ったすっきりジュース。それとも焼酎効かせて一夏寝かせて・・・。ひととひととのふれあいって、ほんとにいいですね。