201 中 干

 こちらの勉強不足なのだけれど、気づいてみると田植えをしてからすでに45日間が過ぎたことになる。このころになると『中干』という作業をしなくてはならない。

 中干というのは、水中につかりっぱなしの酸欠状態のイネの根をじょうぶにしてやるため、一時的に田の水を抜き取る作業。2〜3日日干しにして泥が乾いてヒビがはいるほどにしてやるとよい。それには田の畦を切ってやり、田への注水を止めてやればいいわけなのだけれど、いかんせん、田んぼにコイが入っている。そのまま中干をすると悲惨な結果となることが火を見るより明らか。

 道長で借りている田は5畝づつが2枚で、水下の田んぼにコイが入れてある(さすがにコイ田には草は生えてない)。中干をするには水上の田の水を切らなくてはいけない。水は上の田からコイ田に落ちているので、20mはなれた注水口(上の田にある)からパイプをコイ田につないでやらなくてはいけない。さらにコイ田も中干をすることにしたので、最後に水の残る深場へ水温の上がらない水が流れ込むようにくふうをしてやらないと。用水が豊富ならばあまり心配の無いことなのだけれど、いただける水というのが乏しいため、四苦八苦をしなくてはいけない。とにかくこの時期、田の水温はうなぎのぼりで、『鯉のぼり』ならぬコイダウンという悲惨な結果にもなりかねない。

 中干をした当日は日差しも強く、とにかく暑かった。一応の日課なので夕刻、イヌの散歩がてら田んぼを見にいってみる。・・・・なんとこの暑さで犠牲者が・・・出てしまったのだった。あのコイを放流した日の悪夢再来!。上の田を中干するためにコイ田に水を落としてしまったのがまずく、干上がり状態の温水が我等がコイを直撃してしまったらしい。

 今回の犠牲者は4匹。たいした事は無いのだろうけれど、田んぼに白い腹を横にして動かないコイを見るのはなんとも情けなくも申し訳ない。田の中干では、おびただしい数というか量のオタマジャクシが日干しになるわけだし、除草の道具として使われるコイにしてもこのありさま。まったく農薬を使わないから自然にやさしいなどと思っても、実際は多くの自然のいのちを奪ってしまっているわけであり、その上での自然の『恵み』なのだと深く実感をする。


202 稲の波
01/06/26


 季節のうちでいつがいちばん好きか、といったら、ぼくは『冬』が好きと答える。冬といえばなんといっても寒いし、そのおかげで精神がピリッとするから。漬物の仕事にも、たしかに手は冷たいけれども、漬物にはよい。

 けれども音羽町で仕事をするようになって『夏』も好きになった。その理由は夏は緑がきれいだから。それが毎日の生活で実感できるからなのだろうけれど、さらに、決定的にぼくに夏を好きにさせたのは『田』の緑。

 春、4月5月に田植えがすんで、梅雨になり、7月にもなれば苗だと思っていた稲が、いつのまにかすくすく育って、なんとあたり一面が緑のじゅうたんを敷きつめたように青々と生気にあふれて美しい。それに山から下りてくる風が駆け抜け渡ると、緑のじゅうたんに波がはしる。波がさわさわと音を立てながら、まるで風が「ぼくはここにいるんだよ」とおしえてくれているのかもしれないと思えるほどに、くっきりとかたちをあらわす。イネが風を楽しんでいるようでもあり、風がたわむれているようでもあり、そのたびにひそひそさわさわ聞こえるのは稲と風のささやきなのかもしれない。そのささやきが一体何のおうわさなのかは、わかりにくいのだけれど、なんともほほえましくもまた力強い躍動感をも感じさせてくれる。

 照りつける日差し、渡る風、起こる波、一面の緑、蝉の声、もこっと重量感の雲、そして限りなく青い空。そんな夏の暑さにぼくの額からはスカッとした汗がふき出し、なんとなく既視の世界に入り込んでしまったように、しばらくの間ぼくのからだと精神と・・つまりすべてが静止してしまって・・ふたたび動き出すきっかけさえ失ってしまったような。そんな状態をふっきるきっかけといえば(自身でもできるのだろうけれど、なぜか外からのきっかけを待ってしまう)、たとえば犬の散歩の途中なら犬が引っ張ったとか、自動車の往来なんか。でもやっぱり稲の波のさわさわの音におもむろに・・・というのが自然でいい気もする。

 稲の波を見ていると、その波紋の一つ一つが一つ一つの風のよう。山から降りてきた風の子たち、しばらく緑の稲とたわむれて、また上昇気流にでも乗って山へ帰ったら、また明日、また明日。


203 試験結果


 愛知県農業総合試験場といえば、GMイネを開発研究中ということで、一部消費者などからつめたい視線をそそがれているという昨今。とはいっても、農業者や道長のようなそれに準じた仕事をしているものにとっては、いろいろな部分でお世話になるというケースがあるもの。

 ぼくたちの場合、『生ごみ生かそう会』という会で生ごみなどをたい肥化して、農業に役立てようといろいろと試みている。最近の家庭の生ごみ処理の傾向というと『行政主導で』、というのはあまり流行っておらず、『各家庭で』ということになっている様。

 そんなわけで機械式コンポスター(3ヶ月で600Kgほどの生ごみを醗酵処理可)を使った生ごみたい肥化のかたわら、衣装ケースを利用した手軽で確実な方法も試している。その衣装ケースで作った生ごみたい肥の成分分析と発芽試験の結果を農業試験場からいただくことができた(ときどきぼくらの会で作ったたい肥やボカシをテストしていただいています)。結果は良好。

 今回、いただけた試験結果は参考になるだろうからということで、ぼくらのを含めて他の地域・団体などからの14箇所、18検体のものまで(すごい)。それも幼植物試験(発芽試験)写真付で。成分分析表については、難しい部分が多いのでいろいろ教えていただかなくてはいけなかったものの、写真をみて感激してしまった。全18検体のうち、2番目くらいにすばらしい結果。この発芽試験の方法は、■無施用、■標準施用、■2倍施用、■3倍、■4倍という5段階。テストのたい肥が未熟な場合、施用量が増えるにしたがって発芽生育に障害が出るため、このような段階がつくられている。

 生ごみ生かそう会の生ごみたい肥の場合は、施用量が増すほど生育が良くなるほどですこぶる良好。写真による試験結果は一目瞭然で、未熟な検体は見るもあわれ、施用量と生育があきらかに反比例している。

 衣装ケースの生ごみたい肥、しかと自身を持ちました。


204 米作り
01/07/21


 今年初めて、米作りに挑戦しているのだけれど、これはちょっと苦戦気味。はっきりいって勉強不足、認識不足、技術不足人手不足、時間不足。

 とにかく途中でいろいろと聞いてやってゆけばいいだろう。などと気楽に構えていたのはいいけれど、最初の45日間は田に放流したコイのことで精一杯で、元肥を入れてやることすら知らずに中干となってしまった。とうとう見かねたのか、音羽米研究会の鈴木さんに「道長さん、肥料を少し入れたほうがいいよ」といわれてしまった。このときになってはじめて自分の田んぼのイネがやせているのに気が付いたほど。

 こちらとしては、その都度、鈴木さんが逐一教えてくれるんだろう(こちらははじめてなんだから)。ぐらいに頼りきっていたのだけれど、あちらはあちらで、「なんか考えがあってやってるんだろうから、口出しせんほうがええ」ということだったのだそうだ。本来のパターンでは、田植えの前に元肥、45日経過して中干のころ補肥なのだそうだ。

 おまけにエンジン式田の草取り機をかけたとき、肝心なイネの根を痛めてしまったようで、それと思しきところのイネはまったく貧弱そのものといったところ。田の草取り機は、田植え機の植え幅にあわせて草取り用の回転式爪が取り付けられている。うちのように田植え機でうまく植えられなかったことろを補植したりすると、その間隔が大幅に狂い、田の草取り機がうまく入ってゆけなくなってしまう。それに若干無理をしてしまった、というのがどうやら原因らしい。となりのコイ田は(田植え後45日でコイは出してしまったのだけれど)、コイが入っていたおかげで草は少なく、それなりの成果があった。

 中干のあいだに、道長で借りている5畝づつの田んぼに20Kgづつの補肥をほどこしてあげたのだった。コイを入れなかったほうの田は、このところのひどい干ばつで減水していたおかげで田の草が茂りだし、放っておけない状態。さっそくというかおもむろに、草刈機で畦の草刈と、大着鎌で田の草取りということに。暑さと、ひざまで沈む泥の田との格闘で、どろんこ、くたくた。ほうほうの体の米作りに、端から見たら笑っちゃいそう。


205 米作りU


 田植えをしてからかれこれ70日以上が経過した。まったく月日のたつのは早いもの。ここ音羽町では近年にちょっとない、というほどに6,7月に雨が少なく、深刻な水不足に悩まされている。音羽町の稲作のために使われる水は100%山からの沢水で、その山も深いとはいえない。

 音羽は3つの地区に分かれていて、北と東の奥に(道長のある)萩。西に長沢。そして南の平坦地に赤坂。山からの沢水は、萩の奥から『山陰川』。長沢の奥から『音羽川』と、まあまあの水量の川といえばその2本。

 道長で借りている田んぼは、残念ながら山陰川には沿っておらず、そこから200mほど離れた用水路が水源。この水源というのがこの干ばつ時期には情けないほど少なくなってしまう。なんとこの用水路、日照りが続くと上からの流水が止まってしまい、その途中から湧き出す(なんと用水路のU字溝の継ぎ目から)水だけがたよりとなる。

 とはいっても幸か不幸か、コイを入れなかったほうの田んぼの奥のほうから、水がじわじわと湧き出しているらしく、用水路の水が止まってしまっても、水がたまっているからありがたい。ただし、コイを入れていた田までは潤うというわけにはゆかないのだけれど・・・。もっとも湧水のおかげで田の泥が深く、それと思しきあたりへは立ち入りがむつかしい。そのため、田の草取りもままならず、苦しい状態となってしまっている。本来ならこちらの田にコイを入れたほうがよかったのだろうけれど、こちらは『又貸し』で借りた田んぼなので、コイのための深場用の穴を掘るわけにもゆかず、人力の草取りということになってしまった、というわけ。

 こんな水不足のなか、水だけはなんとか心配せずにいられてよかったと思う。ほかの田んぼはまったく涙ぐましいほどの水取り合戦で、これがほんとの『我田引水』というありさま。ほかの用水路からそれでなくても乏しい水を、エンジンポンプでいただいたり、夜中のうちに我田引水といった具合でたいへん。よくも『血の雨』が降らないもんだ。

 70日以上経過した土用の最中、出てました、出てました。うちの田んぼのイネにも『穂』が出てきているではありませんか。このあたりでいちばん出来の悪いこの田んぼにも『穂』が。いじらしいことこの上なし。


206 さとねっと


 愛知県なぞ狭いと思っていても、さがしてみるとおどろくほど多彩で個性豊かな生産者を見つけることができる。ぼくなぞは、原料の調達の目的もあったりするので、けっこういろいろな生産者を知っているつもり。

 生産者というのは普段、どちらかといえば黙々と土、自然に向かっていて、またその個性の強さゆえに外部に対しては排他的であったりもする、というようなイメージも否めない。

 いやいや、そうばっかともいえない、生産者はもっと他の人間とも心をひらいて、交流しあうべきだ。外に対しても発言すべきことは発言してゆこう。というわけで、『さとねっと』というものをたちあげたのです。ぼく自身、農産物を加工して出荷するという生産者であるわけだし、これからさらに『消費者と生産者』、『生産者と生産者』が固いきずなで結ばれなくてはならない、という必要性を切実に感じてきたことから、こんなことを思いついたという次第。

 この『さとねっと』の第一回交流会、渥美町は江比間のどろんこ村というところで開催のはこび、ということに。この『さとねっと』、自然発生的というよりどちらかといえばぼくの独断で立ち上げてしまった感もあり、実際、生産者が集まってくれるのかどうか心配もしていた。が、しかし、その心配もみごとに吹き飛んでしまったのだった。参加者が優に30名を越してしまうありさまで、それぞれが奥様と同伴だったりするものの、13の生産者があつまった。

 酷暑の会場では、バーベキューもあり、飲み物もありということで、それぞれ生産者同士、いろいろな話題で盛り上がっていた様子。

 この『さとねっと』のあつまりがどのような可能性を見せてくれるかは、今後の流れに任せるとする。とにかく、次のような点についてつなげてゆこうと思う次第。■生産者同士の日常的交流。■農業に関する学習会、勉強会などの企画。■産地から消費地への発信。■その他農業関係の情報の配信、など。当面はEメールかFAXを使って情報交換をしてゆこうと考えている。さらには、産直流通にまでつなげられたら、とおおきな希望もあるけれど、とりあえず次回の交流会は『知多で』という合言葉で第一回『さとねっと』交流会はお開きとなったのだった。


207 ホタル


 よる年波なのか、最近とんと物忘れがはげしくなってきた。もっとも、生まれつきその傾向は強めなのだけれど、最近とくにひどい。

 パソコンでホームページを作るソフトがある。うちではよりにもよって、『ホタル』などという、今となってはパソコンソフトの売り場でも決して見かけることのなくなってしまった、超マイナーソフトを使っている。当然のことながら、ホームページを作るのにはソフトにいっしょに付いている『説明書』というのが必要となる。この『ホタル』というソフト、売れていないだけあって、とにかくこの説明書がわかりにくい。まったく悩んでしまうほどで、『だれにでもできる手作りソフト』という振れこみにたいして、「ひょっとすると自分はバカなんじゃないか?」という疑惑を自らに感じてしまったりして。

 だいたいパソコンソフトなどというものは、誰かが買ってあとは仲間内でたらい回しというのが相場。このホタルもその調子であちこちのお宅のパソコンを渡り歩いた挙句、その持ち主にぼくが抱いたと同じ疑惑をもたらしてしまったのだった(このソフトでまともにホームページを開設できた仲間はひとりもいないのです)。

 にもかかわらず、いったんこのソフトでホームページを作ってしまった関係上、いまさら他のに乗り換えるわけにもいかないから、仕方なく仲間内でも『ご愛用』となってしまうというわけ。

 そのソフトを仲間内に貸す。・・・としばらくして、だれかが説明書を見たいから回せだの、パソコンがこわれたから再インストールするから貸せだのということとなる。説明書を「たしか○×くんに貸したはずだったな」とその彼にたずねると知らない、という。「じゃ、あいつだ」とたずねると、やっぱり知らないっと。何人も電話して、「そういえばそれらしいのを借りてました」というので、ああよかったと一安心。返してもらってみると、それはなんと『ホタル』の説明書とは似ても似つかぬものだったりして。

 貸した時には「ぜったいににわすれない」自信があるのに、まったく情けない。というわけで、『ホタル』の説明書は今も行方不明なのだった。


208 広島・長崎


 2001年、21世紀といえばまさに新世紀、人類の時代としてはやはり節目というか転機となっていかなければいけない時といえる。19・20世紀で起こった事柄は、いろいろなことを劇的に変えることのできる技術を人類が獲得した、いわばドラマチックな時代。

 原子力というものがある。自然界ではまことに緩やかにしか進まない原子の変化を、一瞬の間にさせてしまうことで巨大なエネルギーを発生するというのが核技術のたいした部分。そして副次的に生まれる『害毒』は困りものであると同時に、使い道によっては非常に有効となる。今から56年前、その手段が使われ、ナチスのホロコーストにも匹敵するともいえる大量殺戮が日本の広島と長崎で行なわれた。それも空爆というかなり『手軽』な手段で。事実、その結果もたらされたものは地獄そのものだった(といわれている)。

 今年も8月6日という日がやってきて、あの暑い夏の日が思い起こされる。広島・長崎の思い出はあまりに悲惨で、生き残った人にとって、そんなこと無理にきまっているのだけれど、いっそのこと忘却としてしまいたいほどであるのかもしれない。にもかかわらず、広島・長崎はあの情景をまるで昨日の出来事のように保存し継承しようとしている。一体全体、なんという苦痛な作業なのだろう。

 あのとき助かった人たちも、確実に進む年月の経過の中で少なくなってゆき、将来絶えてしまうのだろう。にもかかわらず、そののちも世界の平和のため、自らの子や孫のためにつづけられてゆく平和記念日。むなしい努力とも思い違いされてしまいそうな、継続的なこの8月6日のくり返し。だけれど、この平和記念日がなかったとしたら、あるいは行なわれなくなったとしたら・・・、少なくとも今後も起こりうるであろう無益な戦争の幾ばくかは、まさにそのおかげということにならざるをえないだろう。その事実が明白である以上、この夏の記念日は続けられてゆくのだろう。

 もしかしてぼくにもありえたかもしれない現実を想定してみる。ぼくは現在、昭和20年8月6日、広島市内でいつもどおりの生活をしている。そして突然目の前に灼熱の閃光とキノコ雲が現れる・・・。


209 日焼け


 ひさしぶりに海水浴にいった。お盆に和歌山の那智勝浦町の共同畑研究会を訪問した折、いつもお世話になってる平岡さんに連れて行っていただいた。場所は、国道42号線沿いの那智駅(紀勢線)から車で1時間あまりの串本、大島で、2年ほど前本土と地続きになったばかり。

 とはいえ、島の観光はほとんどおこなわれておらず、立派過ぎる連絡橋とさらに島の高所へのループ状の誘導路とは裏腹に、島内、地味なたたずまいとなっている。海水浴場もひっそりといった感。
 海はさすがにきれいで、小砂利の浜と岩場がいかにも黒潮当たる熊野灘、といったところ。

 同行の連中は岩場での漁(?)にはなれた様子で、水中マスクとシュノーケル、さらには足ひれという充分な装備。こちらはおもちゃまがいのマスクとシュノーケルのみ。とはいえ、はじめは恐怖感で行けなかったかなり水深のある岩場へも、なれてくると行けるようになり、ひさびさ童心にかえり楽しいひと時(それでもちょっと外海の方へでるとうねりがあり、怖い)。

 ぼく以外の常連さんたちは、平気で岩場をシュノーケルをつけたまま素潜りを繰り返している。時折打ち寄せる大波もあり、とてもじゃないけど潜れない。獲物は・・・サザエ(けっこういるんです)。ぼくの住んでいる愛知県の伊勢湾、三河湾ではとてもじゃないけど考えられないほどの別天地。

 海から上がれば、みなでお決まりのバーベキュー。いま採ってきたばかりのサザエや貝の活け造り、ハコフグの丸焼き(皮を避ければ毒は無いのだそうです)。うまい。熱くなったからだは海に入れば涼しく、疲れたらまたあがって休む・・。よくもまあ遊んだもので、まるまる半日も海水浴を楽しんでしまったのだった。

 勝浦へ帰り、ホテル『浦島』の温泉へ。湯に入ろうとしたときに気が付いた。しまった、うかつにも上半身はシャツで日焼けを逃れたものの、ひざから下が真っ赤に・・・。これはもうほとんど火傷で、翌日からしばらくの間、立ち上がるたびに両足を襲う針を刺すような痛みに顔をゆがめる無様な中年男が目障りな姿をさらすのだった。


210 秋です


 暑い暑いと思っていると、いつのまにかあたりの風景がちがってきている。つい最近まで緑におおわれていた田んぼが、黄色っぽい色になっている。さらにはもうそれも刈り取られてしまって、あとにのこった黒い土と幾本もの切り株の列が殺風景に並んでいるだけ。

 夏のあいだ水の張られた、緑の茂ったそこにはたくさんの水棲生物がいたもの。ところが、イネの刈り取りを前に、注水が止められ、畦を切られた田んぼは見る見るうちにいままでとはちがった世界へと一変してしまう。つまり以前は『生』だったものが、以後は『死』とでもいうんだろうか。殺伐とした光景。いやいや、まんざらそうでもないのかもしれない。どういうことかというと、一見人間がしているわがままな行為なのだけれど、自然界でもこんなこと平気でくりかえされているわけだし、別に大したことでもないのかもしれない。

 とはいえ、田植え後45日ころの『中干』という水切りの作業にしろ、秋の稲刈りにしろ、少なからず多くの水棲動物の生命が失われることとなる(中干の時なぞ、おびただしい量のオタマジャクシが日干しになるのです)。でもそういった生命の犠牲というものも、考えてみればイネの生長のための有機物となるわけだし、けっして無駄にはなっていない。

 というわけで、ぼくの今年初めての稲田の稲刈りももうじきにせまってきて、今日、水切りをした。今まで開けたことのない(それを開けるとぼくの田に水が行かなくなってしまう)『堰』を取り外す。すべての水が今までとちがった方向へと流れてゆく。いよいよ収穫なのだ、といううれしいような気持ちと、緑の夏が終わってしまうのだというさびしい気持ちとが、妙に複雑に感じられてしまうもの。

 時代が進み、技術も進み、多くの農作業が楽になったけれど、やはり4ヶ月あまりの期間、イネの世話をすることのたいへんさはよくわかった。そしていろいろと知らなかったたくさんのことを理解することもできた。まだ収穫も終わっていないのだけれど、とてもたいせつなものを得ることができたと実感をしてしまう。