211 音 楽

 音楽の歴史をのぞいてみると、むかしのそれは宗教とのかかわりが強い。特に一般に言われる『クラッシック音楽』の起源をたどってゆくと、キリスト教の教会音楽にたどりつく。

 もちろん音楽というのはそれよりずっと以前に、おそらく人が鳥のさえずりを聞いたころからあったのだろうが、とにかく現代にも伝承されているものの最古の曲といえば4世紀ころだそうだ。『賛歌』とか『聖歌』とよばれるもの。ミラノの大司教アンプロジウス、ローマ教皇グレゴリウス一世というような宗教家、学者の名が知られていて、グレゴリオ聖歌などというのがよく知られている。

 中世からルネッサンスを経て、それまでの間には歴史的に名前の残っている音楽家が多数あるようだけれど、バロックという時代がおとずれヴィヴァルディ、ヘンデル、そしてバッハということになる(17〜18世紀)。

 そしていよいよ古典主義の時代となり、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーベンということになる。音楽は宗教という密室から解き放たれ、自由な表現のためのいわゆる『絶対音楽』というのが確立されるというわけ。ようするに音楽が本来の目的のために行なわれるようになったということ。音楽が作られ、演奏され、それを聴き楽しむ、と。

 さらにロマン派の感情豊かな音楽の数々(ブラームス、ショパン)。さらに国民主義ともなると、音楽はさらに民衆のものとなってゆく(ドボルザーク、チャイコフスキー)。そして印象派をへて現代へと・・・。

 なにも音楽の学習をしようと思うわけではないんです。なにがぼくを感動させるのかというと、驚くべきことに、これらの音楽が今このときに現存しているという事実が、ただ『伝承』という作業によって行なわれてきたということ。楽譜というものもあったのだろうけれど、やはり音楽とは他の芸術メディアとちがって『形』ではないんです。単純に『伝承』されなければ消えていってしまう、それが音楽なのです。これはすごいことだとは思いませんか。おそらく未来永劫、人類が滅亡しないかぎり、バッハのモーツァルト、ベートーベンの音楽がこの世の時間的空間から消え去ることはないのだろう。

 この事実を思うと、それだけでぼくは感動してしまうのです。


212 授 業


 学校の先生なんか、いっぺんしてみたいと思っていたら、なんと機会が突然やってきたのだった。

 いつもお世話になっている、農業改良普及センターという県の農業総合試験場の出先機関から、おねがいされてしまったのだった。小学三年の生徒に『生ゴミたい肥』について話をしてほしいとのこと。これはおもしろそうだと二つ返事。

 突然のことで、安請け合いをしてしまったのだけれど、よく考えてみると小三の子供に『たい肥』だとか『醗酵』『微生物』などという言葉が理解できるんだろうか。というわけで、知り合いの小三担任の先生に、子供たちに理解できる言葉と出来ない言葉なぞを聞いてみたり・・。そして 『たい肥』と『醗酵』『微生物』をこんなふうに結び付けてみた。

 『たい肥』は畑の野菜や果物をより健康でおいしく育てるために与えるもの。畑の作物(この語もそのままではわかりません)も私たちといっしょで、おいしいものが好き。お味噌や醤油、糸引納豆、チーズやソースなどはとてもおいしいものだけど、そういったものはみな、微生物っていう目に見えないとっても小さな生き物のおかげで作られてる。この微生物っていう生き物、小さなサイコロくらいの大きさの畑の土のなかに、なんと(ここでクイズをさせながら)50000000個もいるんです(えーっ、とびっくり)。

 『たい肥』もにわたしたちが食べる『みそ』なんかのような『醗酵』食品と同じで、畑の野菜もそれをとってもよろこぶんです。微生物が土の中でたくさん生きてるおかげで、そのウンチやなんかが発酵食品みたいでおいしいんです。このたい肥の力はそれだけじゃなくて、わるい病気の原因になるバイキンなんかもおさえてくれる、とっても大事なはたらきもある。はんたいに、腐った食べ物を食べると、ぼくたちはおなかが痛くなったり、病気になっちゃうのと同じで、畑の野菜も病気になったり枯れたりする。害虫もふえる。たい肥の材料の『生ゴミ』をそのまま畑の野菜にあげると、土の中で腐って病気の原因になったりしちゃう。だから畑の野菜や果物がじょうぶでおいしく育ってくれるように、おいしいたい肥を作ってあげましょう。っといった感じで45分はけっこう瞬く間で、終業のチャイムとなってしまった。

 ぼくにはとても勉強にもなったし、なんといってもあの子供たちの輝く瞳が忘れられない。また機会があったらぜひ、と思ってしまうのだった。


213 農作業


 むかしから、農作業というのはつらいものというイメージがあり、ぼくなぞは米作りにはじめて取り組んでみてつくづくそれを実感もした。

 代かき、苗代、田植え、草取り、稲刈りなどの主だった作業のほかに、気配りのいるいろんな作業がある。今では多くの作業が機械化されたり、農薬などで省略されたりする時代になっている。中大型のトラクターなぞにはエアコンやカーステレオまで完備され、灼熱の夏も、寒風の冬でも快適に仕事ができる。

 かつての農作業は今にして思えば、3Kの代名詞のようにも思えてしまうのだけれど、にもかかわらず、あまり暗いイメージがないのはなぜだろう。

 各地に『田植え唄』や『稲刈り唄』などが、消えつつある文化として伝えられている。思い出してみると、ぼくらが子供の頃、農作業の集中する時期になると農家の子供たちは公休だったり、半ドンだったりで、ぼくらのような会社づとめの親をもつ身には、いささかうらやましい限りだった。時期も春だったり、秋だったりで青空の下での皆の明るい笑い声が連想されたりしたもの。

 『結い』というものがかつてはあったもの。田植えや稲刈りなど、一人ですると手間と時間のかかる大きな作業を、部落で総出で協力し合って行なうというもの。今日はうちの田んぼの番というような日には、嫁に行った娘も孫を連れて、行商に遠くへ出稼ぎに行った者も帰って来、久しぶりに皆の顔がそろうなか、稲刈りがすんでゆく。農業人口も豊かで、農と生活が密着していた時代には、農作業は今の感覚とはかなりちがっていたのだろう。

 いつのまにか農が『経営』とか『利益』などという部分で計られる時世になり、割が合わないとかなんとかいう理由でそれからはなれる者も増えていってしまった。そんな結果、現代の農作業は機械こそあれ、孤独な作業の連続というようなことになってしまった。かつての『稲刈り唄』の代わりに、コンバインのキャビンに流れるステレオのリズム。味気ない気もしないわけでもないが、それでもやはり都会の喧騒の中での『作業』よりずっといいとおもう。


214 ガマ吉


 残暑は一体どこへいったんだろうと思って、ふと花梨の根元を見てみると、うわっと、大きなガマガエルがいる。彼の名は『ガマ吉』といって、この界隈ではおなじみ。回りは草が生えていて目立たないとはいえ、昼下がりの太陽がさしてポカポカの場所。さすがのガマ吉も日向ぼっこかしらんと思ってよく見てみると、そうではなかったのだった。

 不動のガマ吉の視線の向こうになにやら動くものが、っとそれは毛虫。さらに観察していると、一瞬、ガマ吉の口からかなりの長さの舌が伸びたと思ったら、すでに毛虫の姿はあと形もなく・・・。気が付いてみると、そこに立っている花梨の木はたくさんの毛虫にやられて、散々なありさま。あわれにも葉がかなり食い尽くされている。そこから落ちた毛虫を、ガマ吉は狙っていたのだった。

 それではと、花梨の木(といってもまだ2.5mほどの丈)にとまっている毛虫をたき火用の火バサミでつまんで、ガマ吉の目の前に置いてみる。しばらくの沈黙のあと、ガマ吉の長い舌がさっと毛虫を消滅させてしまった。もう一匹をためしてみると、またも。

 これはおもしろいと、次々に木から摘み取った毛虫をガマ吉に。毛虫を目の前にして、ガマ吉は決まってしばらくの不動、沈黙の時をながす。そして瞬時の業で完結。

 考えてみるとその間、ガマ吉の回りでは、これはおもしろいとばかりに二人三人という見物人が右往左往しているわけで、そうとう騒々しい。にもかかわらず、このガマガエル、ガマ吉はいったいどういう心境というか肝というか神経なのだろう。まるでもしかすると自分に降りかかるかもしれない『危機』というものを、まったく認識していないかのようなその態度。その間、15分や20分はたっていたのだろう。いつのまにかガマ吉の腹は鱈の腹のようにふくれ、相当な貫禄という体裁となっている。このガマ吉、この界隈では相当ブイブイ言わせていて、時々、なにかの物陰からそのからだの一部をのぞかせてはぼくらを『ギョッ』とさせたりもしているのだった。秋も深まり、冬へと。あと半月ばかりは食いだめをして、おごそかな眠りにでもつくのかしらん。


215 中国琵琶


 深夜放送のつぶやきを枕もとのラジオで聴いていたら、なにやら広大な大地を思わせるような弦楽器の音が流れてきてふっと目がさめた。中国琵琶の『邵容(シャオロン)』という奏者がゲストで出演していた。中国では琵琶のほかに胡弓という弦楽器もあり、その音(ね)は日本にはない、広大なものを連想させる。

 とくに民族音楽というのは、それぞれの民族の性格、感性、精神といったものを知るうえで役立つ。クラッシック音楽の歴史のなかでも、19半〜20世紀初の国民楽派という運動から生み出されたドボルザークやチャイコフスキーなどの音楽からも、存分に受け取ることができる。

 中国は国土も広く、民族も多様。移動民族もいれば、農耕民族もおり、音楽性も多様なのだろう。各地方につたわる民謡というものが、現実的な日常性を表現したものであるとすれば、民族音楽というのはさらに厳粛な部分、とくにその精神性を表現したものということができると思う。

 胡弓や中国琵琶からイメージされるものは中国の多様な民族性、やはり、広大な大陸。そこには空気が風があり、大河があり、おおらかで感情的な躍動を感じることができる。悠久の・・。

 日本の民族音楽を表現する楽器といえば、琴や各種の三味線、古楽器の笙子(しょうこ)、篳篥(ひちりき)など。そんな日本の民族楽器が表現する精神性というと、気というか空というか、静と動というか、やはりそこには躍動というものもある。音楽で表現されている日本の精神性というのは、広大な空間、大地というよりは、『ひとつの空間』というか、実際は大きいのかもしれないけれど、なにかの『部分』というような空気、その動きのような。非常に透徹として厳粛というような、なんというかかんというか。

 とにかく、中国琵琶のメロディーを夢見枕に聴いていると、なんとなく日本民族なのにもかかわらず、すごくなつかしいような帰りたいような思いがした。ひょっとすると、中国の民族音楽というのは日本にいるぼくをも包んでしまうんじゃないか、と思うほど。
 日本もそうなのだろうけれど、中国はもろにアジアなのだなと思う。


216 遺伝子組み換え


 遺伝子組み換え作物のうち、食品に使用することが許されているものが現在7品目あるそうだ。大豆、とうもろこし、ジャガイモ、ナタネ、トマト、テンサイ、綿。ナタネと綿は食用油として、テンサイは糖として利用されている。トマトの遺伝子組み換え体は現在日本では利用されていないそうだ(メーカーが撤退)。

 遺伝子組み換え作物を使用した食品を流通させる場合、その表示の義務というのがある。表示の方法としては、たとえば大豆の場合、『大豆(遺伝子組み換えのものを分別)』『大豆(遺伝子組み換え不分別)』または『大豆(遺伝子組み換え)』といった具合。そして、非組み換えの場合の表示は、『大豆(非組み換えのものを分別)』、『大豆(非遺伝子組み換え)』などといったように。

 ここまではいいのだけれど、最近問題になったことがある。飼料用のデントコーンの種子に、禁止されている組み換え品種の遺伝子混入の事実が発覚した。そのための検査が民間の側からなされてしまったため、混入率についてのガイドラインというものが不鮮明なものになってしまっている。

 今春、輸入農産物の場合、混入率が5%以下ならば非組み換えと認める。という見解が出された。しかしながら国内で栽培される動物用の飼料に使うデントコーンの種子から、認められていない遺伝子組み換え体が検出されてしまったために、今度は『有機認証』という点で収拾がつかない状況が生まれてきてしまっている。たとえ1%以下でも検出されれば有機認証は得られなくなってしまうため。

 そのうち、『スターリンク(米国で栽培禁止となった)』の遺伝子まで検出されてしまったりということにもなりかねない。こうして、種子にまで混入しているということになれば、国内産だから安心だとか、『分別』だとか『不分別』だとか、もう訳がわからなくなってしまうことになる。この遺伝子の種子汚染の程度というのは、現在、デントコーンだけで明かされたにすぎないけれども、まだ食用とうもろこしやその他の作物については、まったくの手付かずの状態といえる。今後明かされるであろう、種子汚染の現状が楽観のできるものであればいいが、というところ。


217 狂牛病


 日本でも一頭の肉牛の狂牛病が確認され、さらに擬陽性のものがあらわれるということとなってしまった。その擬陽性は結局シロと確認されたもののおかげで世間は大騒ぎとなり、牛肉の消費は落ち込み、不景気の波に拍車をかける。

 危機意識がないのか、自らの責任を逃れたいからか、ただ発覚するのが怖いだけなのか、民衆を心配してなのか知らないが、あるいは頭が悪いのか、問題の肉骨粉は焼却処分したなどとあとでバレるとわかっているような省庁。その揚げ足を取るかのような大衆報道。

 ここで、すごくはっきりとした図式が現れているような気がする。「何も起こらなければそれでよい」という行政、「そんなことではたまらない。そら見たことか」という報道機関。そして『寝耳に水』「そりゃたいへんだ」の大衆。そんなわけで、事は一気に『不安』という方向へ行ってしまい、不買。哀れなのは関連の業者ということになる。

 イギリスでは食牛で感染したとされるけっこう多くのクロイツフェルト・ヤコブ病の患者がでているらしい。そしてその感染率については潜伏期間が長いことがあるため、わかっていない。けれども、肉骨粉を食べて牛が狂牛病にかかる確率から、人への感染の確率というのはかなり低いといわれている。

 たとえば、フグという魚がいる。おいしいけれどもその内臓の一部に、テトロドトキシンとかいう猛毒を持っていてそれを間違った調理で食べた人が死亡したりしている。その確率というのはフグを食べる人の数からすると、ひょっとしたら日本人が牛を食べてヤコブ病になる確率よりも高いのかもしれない(まだ狂牛病の日本での実態がわからないのに軽はずみなことはいえないのだけれど)。あるいは、飛行機事故やタバコが原因でガンになる確率のほうが、ずっと高いのかもしれない。だからといって、フグを食べないわけでもなければ、タバコも公然と売られているし、飛行機だって飛んでいる。そういういろいろな危険性を持ついろいろなものの中のひとつが、・・ヤコブ病というように。

 問題は、今までどうだったのか、どの部分が危険なのか、今後どうすれば危険を最小限にできるのか、何を禁止すればいいのか、を明確にして徹底するだけのことであろうに。行政はまず、冷静に判断しないといけない。


218 思い出


 仕事で、名古屋へ行った。名古屋へは時々行くのだけれど、いつも用事を済ませたらそのまま帰ってしまうので、寄り道をすることはめったにはない(都会はちょっと苦手なので)。

 仕事を終え、さあかえろうということになったのだけれど、そういえばちょうどこの界隈、○×町というところには、ぼくにとって忘れられない思い出があるのだった。思い出というのには楽しく良い思い出、悲しい思い出など、いろいろあるのだけれど、この思い出というのは『にがい思い出』といったらいいのだろうか。とにかくふと、この近くのかつての思い出の場所といったものを訪れてみようか、と思いついたのだった。

 23歳で学校を卒業し、その春、名古屋の○×町のある通信機器メーカーに華々しく就職したのだった。その会社の社長が一代で築き上げたその会社は業界でも小規模ながら、努力と活力で業績を挙げていた。輸出も総売上の1/3を超えてしまいそうな勢いでまい進しているのだった。

 期待の新入社員のぼくはその輸出課へ。いいかげんな語学力と性格のおかげで、上司と先輩からの猛特訓の連続というのかはたまた、無能さに対する彼らの怒りの嵐というのか、罵声というのか、とにかくそういった雨あられがぼくに浴びせつづけられる毎日なのだった。それまでは『まんざらではない』と自分のことを思っていた己の世間知らずさを、骨の髄まで思い知らされることとなり、入社3年目にして脱サラ、というよりは哀れ脱落、ということとなってしまったのだった。その2年半という時間を思うと『空転』という言葉がまず連想されてしまい、今でもちょっと情けない。

 ちょっと記憶がおぼろげのためそこらを廻ってしまったけれど、なつかしいというのか、というよりは思い出の社屋はまだそのままで、人影のない本社ビルと工場が日曜日の夕刻に、なんとなく無表情に、でもどこかあったかげにそこに存在しているのだった。もしやもするとトラックの着けられるプラットフォームのあのシャッターの向こうで、お得意に送るカタログの数を数えている若いころの自分でも見つけられるのかもしれない。なぞど思ったりして。

 とはいえ、なんとなく今の僕にはたいして熱烈な思いがあふれてくることもなく、ここへ通っていたことがあったのかな、といったような覚めたというか、でもほのかな温かみもあるような、でももう二度と来る必要もないのかなというような複雑な心もちに戸惑う自分があり、でもなぜか新鮮な気持ちで思い出の場から立ち去ったのだった。


219 さとねっと交流会


 農産物とその加工品を扱っている『生産者』ばかりのあつまり『さとねっと』というのがあり、その第二回目の交流会がおこなわれた。道長も生産者のつもりなので参加させていただいている。先回の交流会は渥美半島で、そして今回は知多半島の美浜というところで。

 今回の幹事は美浜町の『げんごろう農園』の河合さんで、秋の味覚『芋煮会』を企画してくださった。知多半島というと、海水浴などの目的で往来する街場の人間にとっては大した田舎とは思えないのだけれど、『知多半島自動車道』やその他の幹線をちょっと外れると、とたんになつかしいたたずまいがパノラマ画面でお出ましとなる。

 音羽やその奥の額田町などの山と知多半島のそれとのちがいは、知多の山のほうが低いところと、それらが手付かずなこと。これは知多の山は雑木林で占められていて、植林されたスギヒノキがほとんど目に付かないことで察しがつくところ。おかげで、深まりつつある秋の景色ははじまりかけた紅葉でにぎやかで華やか。そして今日の午後はなんて穏やかなんだろう(ほんとはこのあたりは風の通り道ということで、いつもは風びゅーびゅーなのだそうだ。

 このあたりには杉浦 剛さんの畑がたくさんあり、今日の『芋煮会』も彼の農園の中。杉浦さんは代々の農家で、自ら有機を実践してみえ、水田5町歩、畑1.7町歩を耕してみえる。水田はまだしも、この規模の畑作というのはかなり気力と体力のいるもの。とくに夏は草との戦いでたいへん(ありがたいことに獣害はないそうです)。

 そんなハードな仕事にプラス、杉浦さんのところへは農家として入植を希望する家族や、都会での仕事のかたわら、田舎での百姓仕事を希望する人たちが少なからずやってっくるためたいへん。ちょうど今現在、アメリカから焼物を志して訪れている夫婦による、焼物を利用した野外音楽劇場作りまで進行している。夕刻からはブルースバンドのコンサートまで予定されていた(残念ながら参加できず)。音羽もいいけど知多もすばらしいところなのだな、と思えるのはきっとそんな杉浦さんのような人たちがいてくれるおかげなのだと思う。

 秋深まる知多の午後。赤鶏のだしの芋煮と季節をそのまま載せたようなにわかづくりの食卓はあたたかく香り、皆の笑顔と話声が秋空に静やかにこだまするのだった。


220 レクイエム


 久しぶりに釣仲間と楽しみな夜釣りの約束をしていたのだった。前の日、雨がしっかり降ったおかげで、今日は風が強くなりそう。でも何とか行けるかも、と空模様でも眺めたりしてしていたのだけれど、なんとその夜にはすでにクラッシックコンサートに行くためのチケットが買ってしまってあったのだった。

 町内のコーラスクラブ(うちのかみさんが行っている)の顧問の先生(この方も釣仲間)もモーツァルトのレクイエムで出演するので、もう一ヶ月も前から『予定』が組まれていたのを忘れてしまっていたのだった。仕方なく夜釣りの約束はキャンセルということに(不謹慎ですいません)。

 モーツァルトのレクイエムを歌うのが『豊川で第九を歌う会』とあなどってはいけない。なんとそれを演奏するのが『ポーランド国立放送交響楽団』という代物だったのだった。演目は『レクイエム』のほかにウェーバー『魔弾の射手・序曲』、シベリウス交響詩『フィンランディア』他。

 先生とかみさんとの付き合いだから、気楽に席に座って、気持ちよく寝入ってしまってもいいだろう、などと不真面目なことを考えていたのだけれど・・。三曲目に『フィンランディア』。19世紀、ロシアの支配下のフィンランドがその圧政に対し独立を勝ち取ろうとする、その旗印ともいうべき国民的な曲がまさにこれで、ぼくなぞは感涙してしまったのだった(さらに最終のアンコールでこの曲に詩のつけられたものが高らかに演奏されたのだった)。

 肝心なモーツァルトのレクイエムももちろん演奏された。モーツァルト自身の鎮魂歌なのだし、重いし、なぞめいているし・・・、今回は真剣に聴こう。・・・と思うのだけれど、ほんとに情けない限り。ところどころで気持ちよくなってきて眠気が襲ってきてしまうのだった。シベリウスでは感涙、モーツァルトでは眠気とあまりの対照にわれながら情けなくなってしまうのだった。感情的というよりは、感性的、精神的な部分の表現に重きが置かれているモーツァルトなどの場合、ぼくにはすこし退屈になってしまうのだった。実はその『退屈』をリラックスした気分として楽しめばいいんですけど。

 とにかく久々美しく、迫力のある『生』の空気を堪能したのだった。