231 乾性肌

 世間では『乾性肌』という悩みも、保湿成分のあるクリームやら化粧品やらでお肌をしっとりとさせるて・・、などということになる。ぼくの場合もかなりな乾性肌で、それが故に小中学校の頃には人知れず恥ずかしい思いをしたもの。

 それは、体育の時間とか、体力テストの時などにぼくの『悩み』というか『羞恥心』に火が点されてしまうのだった。
まず、体育の時間。毎年冬場になるときまってあったのが、『棒昇り』。運動場のかたわらにある、4〜5mの竹棒が7〜8本垂直に並んで立っているの。これは乾性肌のぼくには苦手中の苦手なのだった。ぼくの番になると手のひらにつばきで湿り気をつけて昇り始めるのだけれど、その効果もつかの間、あわれ竹棒の中途で動けなくなりずり落ちてしまうのだった。他の子供たちはてっぺんまで昇って、余裕の子なぞ両手を離して、湿り気のしっかりある足の裏で、ぴたりととどまって見せるのだった。若干運動神経が不足ではあるものの、この状況はかわいそうというもの。

 さらに話は進んで、体力テスト(バッジテスト)の時となる。この体力テストのなかに、『反復横跳び』というのがあった。ぼくが小学校の頃はこの種目を体育館でやったもの。真中と両端に線が引かれており、その線を踏みながら左右に横跳びを繰り返すというもの。その回数が記録となる。なぜか当時は体育館シューズを履かせなかったため、あわれなのは乾性肌のぼくなのだった。右に横跳びながら足がすべり、やっと止まって左に横跳びながらまたすべる。それを繰り返すすがたは、今想像してもさびしくなってしまいそうなほど情けないのだった。測定役の先生、そんな哀れな生徒を何とかしてやればいいのに、それをだまって見過ごしてしまうのだった。50m走、垂直高飛び、背筋力、握力、ソフトボール投げ、体前屈とまあまあの成績なのだけれど、なぜか、この反復横跳びだけは他の記録と比べると・・。こいつからだのどこかに欠陥があるんじゃないかと思われそうなほどに、おかしな記録を残しているのだった。

 そんな『羞恥心』は運動と関係のない、教室でも点灯してしまうのだった。先生の刷ってきたプリントを配るとき、乾性肌のぼくの指はその一枚一枚を取るのにまたもや苦労してしまうのだった。

 今でも、自動車のハンドルがすべる、長靴を履いた中で靴下がずれて脱げてくる、等など。そのたびに、あのむかしを思い起こしてしまう。


232 遺伝子組み換えイネ


 愛知県農業総合試験場で行われている『遺伝子組み換えイネ』の開発試験について

 すでにご存知のことと思いますが、愛知県農総試では日本モンサント社との共同で除草剤ラウンドアップ耐性の、遺伝子組み換えイネ(品種名:祭晴れ)の開発試験が行なわれています。

 昨年5月、環境安全性について農水省より認可がされ、9月には試験場内隔離圃場での収穫を終えています。今後、開発中のGM祭晴れは『種』の固定のための作業を(約2年間)行い、厚生労働省に対し、食用目的の認可を申請することとなります。

 ここでひとつ大きな問題が生じてきます。GM祭晴れが認可される、ということは同じラウンドアップ耐性の他の品種(コシヒカリなど)も同様に認可されてしまうということになってしまうということです。すでに米国モンサント社ではラウンドアップ耐性コシヒカリの研究開発を終えています。不人気種『祭晴れ』でまず道筋をつけよう、という思惑もあるのかもしれません。

 ご存知のように、米の一般流通ではその表示は非常に曖昧なものとなっています。また、生産から収穫・乾燥・精米・出荷の段階でのGMイネの交雑、混入は必至で避けられません。

 とはいえ、国内での栽培以前に米国からの安価なGMコシヒカリとして、流入するのかもしれません。ファーストフードなどでは、コストダウンのための混入も行われるかもしれません。

 また、厚労省のガイドラインによれば、5%以下の混入率ならば『非組み換え』として認められてしまうという現実もあります。

 BSEの不祥事からもわかるように、今回のGMイネの研究、そして商品化は、各業種、農家に対する経済的損失を引き起こし、しいては日本の農業の根幹をも揺るがしかねない、重大な要因ともなりかねません。とりわけそれが日本人の主食たる、コメに対して行われている点は見逃すわけにはゆきません。

 そこでわたしたち生産者も『反GMイネ生産者ねっと』を立ち上げ、活動をはじめております。各業界の方々にもご理解いただければ幸いです。愛知県での活動は『遺伝子組み換え食品を考える中部の会』と同調しておこなっております。

 『反GMイネ生産者ねっと』では、今のところEメールを介してのみですが、GMイネ、GM食品などについての情報などの配信をしております。ご希望の方はお知らせください(連絡は道長まで)。


233 さとねっと(仮称)


 昨年の夏と秋、『さとねっと(仮称)』と称して、主に愛知の三河地方の農業生産者やそれに関連した生産者ばかりを集めて、交流会をひらいた。とはいえ、その2回ともを、バーベキューと芋煮会というレクリエーションで費やしたために、もうそろそろその目的をはっきりしようということで、近々『第3回』を行うことに。

 今や巷の『リストラ』はとどまるところを知らず、行き着くところを知らないといったところ。その波はやがては農業の世界にも及んでくるのだろう。いわゆる『専業農家』として生計を立ててゆくには、ひじょうにきびしい時代がやってくることになる。そんな中で、にもかかわらずそれを継続し、後継者にその意志を託してゆけるようなものにしてゆきたい。そのために余力を持ち合ってなにかを実行してゆこう、というのがこの会の主旨。

 合併などで巨大化することでリストラを図る波があるのだけれど、考え違いをしてはいけない。『寄らば大樹の陰』式で弱いもの同士が集まって強くなろう、というのでは何も解決されない。農業と関係のない量販ビジネスによる、安全な農産物の生産・流通のシステムが企てられる中、従来の農協主体の敢行農業はますますその存在意義を失っても行くだろう。また逆に自分だけが大規模化し、省力化し生き残ればよいというのも、文化としての農業の破滅をも意味する。

 では、われわれ生産者が取りうる道とは、一体なんだろう。まず、あるレベルの生産物が可能であること。それを生業として続けてゆく強い意志があること。社会的にその役割を強く認識すること、など。以上のようなことが可能か、または志向する生産者の集まりならば、意義のある、実際的な組織も可能なのではないか。あるいは、それは数少ない『選択肢』のうちのひとつとなるのかもしれない、という気さえする。そのための『リストラ』が必要なのだろう。
 『リストラ』とは単なる合理化では済まされるべきことではないと思う。少なくとも農業でのそれは、本質的な部分では、その人たちの活動がその『地域』を彩ってゆくものでなくてはいけない。

 どうも話が理屈っぽくなってしまうけれども、そんなことはだれもがあたり前のことという意識で、とにかく経済的・意識的に向上できるように、お互いが協力し合える組織作りをしてゆこう、と動き出そうとしている。


234 えーねっと


 第3回目の生産者のネットワーク会議が開かれた。これまでは『さとねっと』と仮称していたものの、すでに商標登録されているため、名称も今回決めるということに。

 当日、出席者は30名を越え、その関心の深さがうかがえた。そもそもこの会は、安全でおいしい農産物作りをめざす前向きな生産者同士がお互いに結束しあい、情報交換をしあう中から、確信の持てる将来像を築き上げてゆこうというもの。出席者のうち、3名は流通関係の方たち。

 今回の会合の結果としてできる限り明確な結果を、とも思っていたのだけれどやはり無理で、にもかかわらず今後の方向性というものがおぼろげに見えてくるものとなった。今回の会での意見をまとめてみると、「今後、有機認証のある安い農産物が輸入されるようになると、単に安全安心というだけでは売れない時代になる」「価格の問題」「野菜の宅配を自らしていては限界がある」「一般の流通はあてにならない」「地産地消をめざし、地元で学校給食などでの消費を促す」「流通側に対して要望もいいが、あまえられても困る」「就農して経験が浅く、現在活路をどこに求めるかで悩んでいる」「技術の指導をしたり、勉強会などの機会がほしい」など。

 会の休憩時間を利用して、人参のジュースの試飲、転作作物の加工品の冷凍うどん(うまい!)、パン、漬物(道長の)、イチゴ大福用のイチゴ、生麸(麸屋藤さんの)、タマゴなど盛りだくさん。

 今回の締めくくりとして、会の生産者の生産状況と余剰作物のリストアップをすることとし、会の名称を『えーねっと』ということに決定した。この『えーねっと』とは、アグリカルチャー(農)、愛知の頭文字のA、そして、えーなーのえー(これは、わっぱ知多共働事業所の黒田さんの案)。

 すでに何代もつづいた農家で、生活基盤が出来上がっている生産者もあれば、自立すらままならずに農閑期にはアルバイトを余儀なくされている方もある。国の保護政策もあてにならない今後だけれど、なんとか愛知の安全な農業が地域としてともに栄えてゆけるよう、みなで努力しあってゆこうと今回の会は締めくくられた。


235 最終電車


 名古屋へ用事で行くことがあるとJRや私鉄を利用する。電車の便利なところは、乗りさえすればあとは何もしないでいても目的地の近くに連れて行ってくれる。よほどのことがない限り遅れることがない、など。自動車で名古屋の中心部へ行こうとすると散々な目にあう。渋滞による遅れ、法外な駐車料金。

 本来『電車で行く』というのは、ぼくは好きではない。これはぼくがかつては会社員であって、ラッシュの中をいやいや会社に通勤した経験があるからなのだと思う。ぼくが実は会社勤めに向いていないとわかってからというもの、それはそれは電車通勤が嫌で嫌でしょうがなかったもの。サラリーマンというのはとにかく、何かに疲れてしまっているからなのか、とにかく座席に異常な執着を示す。人いきれとながらくの乗車で座れる、と座れないとでは大違いの通勤のひとときとなる。座れたときの幸福感といったらない。とはいえ、そんな心もちもつかの間で、じきに仮眠状態となる。それを立ったまま見る立場となると、なんとも悲哀感の立ち込めるのはなぜだろう。

 ぼくがサラリーマンだった頃。ぼくも何の用事でか、最終の各駅普通電車にさびしく乗ったのだった。その雰囲気をかもし出すにふさわしいほどに、その電車はすいていた。ご多分に漏れず、ひとりのサラリーマンがアルコールの補給のし過ぎで寝入っていた。二人掛けの座席に横になって、通路側のひじ掛けを枕代わりにして。その片手には、家族を思ってのおみやげの折詰めがぶら下がっている。ぼくなぞは下戸で酒が苦手なおかげで、こういう夢見ごこちなひと時の幸福感なぞ味わったこともないのだけれど、それは当の本人には実に満ち足りたひと時なのだろう。電車はもったいぶったテンポで最終確認でもするように、各駅を読み上げては、三々五々乗客を吐き出してゆくのだった。車内は靴音さえ響くほどの静寂に・・・。次に電車が止まったのは、全くだれも降りそうもない無人駅だった。つぶやくような車内アナウンス。「○×、○×です」。その時だった、あの折詰め片手のサラリーマン氏、突然飛び起き、呆然としたかと思うと、あわてて降りていってしまったのだった。間もなく無常な自動扉はゴロゴロとしまるのだった。あのサラリーマン氏のその後は、いったいどうだったのだろう。なぜか今も気になって仕方がないのです。


236 吉良商店


 市川さんという音羽町のとなり町(一宮町)で農家をしている方といっしょに、光合成細菌を使って安価に堆肥作りのできる設備を見に行こうということで出かけた。愛知県の幡豆郡吉良町というところの『吉良商店』というところ。

 通常、堆肥舎での醗酵には雨の影響がなく、日の当らないところで行うことが多い。むしろ日光を当ててはいけないという人までいるほど。

 ところがこの吉良商店の神谷氏のところでは、反対に日光をなるべく当てるようにして堆肥作りをしている。しかもあっとおどろくような仕掛けで。まずひとつの堆肥舎を透明な波板張りでつくる。そこにブロアーによる送風の設備(積み上げた堆肥の原料の芯部に空気を送る)。そして(ここからが肝心)、光合成細菌が好む波長の光エネルギーを空気といっしょに取り込む装置がある。その先にプラズマを起こさせる装置があり、そこから発生するマイナス電子を帯電させた空気を作る。(うまく説明できないけれど)酸化チタンの触媒を通しながら、オゾンの除去(オゾンは殺菌をしてしまうため)、発熱、温風を作り、堆肥の中にブロアーで送風するというもの。切返しは一切しない!

 ここからがおどろきなのだけれど、その状態の送風を続けてゆくと、堆肥の山の芯部ではなんと300℃を上回るとのこと。その部分には直接太陽光が当っているわけではないのだけれど、光合成細菌が好む波長の光エネルギーが、マイナスイオンと空気とともに補給されるため、活発な醗酵が行われるのだそうだ。

 この光合成細菌のすばらしいところは、醗酵による有機物の分解速度が異常に速いこと。300℃以上の高温になること。空気中の窒素を固定し、作物の吸収しやすいかたちにしてくれること(なんと空気中には無尽蔵の窒素があるのです)。この光合成細菌を利用した堆肥を施した圃場では、地温は間違いなく上昇し、寒い冬でも植物は活発に生長することができるという。

 とにかく、この田舎の山奥にこのシステムの特許管理をするNTTや、大学の教授、農業生産者、企業、自治体と、ひっきりなしに見学に、話を聴きに来ている(農業についての知識と経験は見学のジャガイモ生産者をもうならせるほど)。この吉良商店のノウハウは50年来の経験のお陰で、やっとこの3年ほどで完成できたのだ、と神谷氏は語るのだった。70才にもなる老人は20名以上の見学者を4時間以上も相手にしてしまったのだった。


237 独楽オニ


 むかし、ぼくが小さかった頃、ぼくが住むまちにはまだ『ガラ紡』というのがあったもの。インターネットで調べてみるとどうやらこのガラ紡というのは岡崎が発祥の地とのこと。明治8年に臥雲辰致(がうんたっち)という元僧侶の発明した、当時としては画期的な紡績機械であったらしい。

 おかげで矢作川や青木川(矢作川の支流)川の流れを利用しての紡機が発達。ガラ紡の名前の由来はこの紡機が回るときにガラガラと音がしたことによる。戦後、ぼくらが生まれて少年になる頃には、西洋紡績機の普及ですがたを消してゆくのだった。一時は『ガチャ万(一回紡機が回ると、万金が儲かるほどの時期があった)』とまで言われたほど。

 そんなぼくらの住んでいる街では、独特なあそびが流行ったもの。そのあそびには、特別な独楽が使われたのだった。ガラ紡の機械からはずされた消耗済のベアリングのリング部分を、その独楽の『カツラ』にする。するとその独楽はとんでもなく良く回るのだった。

 頃合のリングを手に入れると、ぼくたちはそれをもってオリジナルの独楽を作ってもらうために『キジ屋』というところへゆくのだった。キジ屋というのは、紡機のプーリーなどをロクロで木を削って作る職人で、ぼくのとなりの町に二軒ほどあったと記憶する。そこではキジ屋さんが、見る見るうちに立派な独楽を作ってしまうのだった。その独楽のまわりにはベアリングのリングがきっちりとはめられ、今にして思えば、すばらしい工芸品ともいえる代物だった。

 そんな風に作った独楽は、紐(ボーケンと呼ばれていた)を使ってひとたび回してやると、おどろくほど良く回る。ぼくらはその独楽に紐を巻き、投げまわしながら引き、江戸むらさきかなんかのブリキのフタで受け止めるのだった。『独楽オニ』というのがそのあそびの呼び名で、要するに『鬼ごっこ』をしたのだった。手のひらのフタの上で独楽が回っている間だけ、走り回れるというルール。各々が回転する独楽を片手に逃げ回り、あるいは追いかけるという、実にスリリングな鬼ごっこだったと記憶している。自分の独楽が力尽きて止まり、オニがすぐそこに迫る緊迫感と、紐で投げ回すときの独楽のブーンという低い音が、冬になるとふと思い出される。



238 


 日の暮れるのもすこしおそくなったのと、いつもよりちょっと早めに愛犬きくの散歩に出かけたのであたりもまだ明るく、夕方までちょっと間があるといった感じ。風も無く、まぎれもなくこれは春の陽気。

 あたりに目を移してみれば、道端ではいつもより緑が多いよう。きくの歩む足音というか爪音もなんとなく軽やかで乾いた音質。それにきくの息遣いもいつもと違ってハッハッと、これもいつもよりルズミカル。そういえば、いつもと違ってぼくが歩くその足音までもが聞こえてくる。あちらに見える竹やぶの向こうには道長の作業所があり、おきまりのチャボの鳴き声。今日はそれがおどろくほど耳元で。

 野焼きをした田んぼの土手を、白いスーパーバッグ片手に物色する中年女性発見。なにやら地面から摘み取るしぐさに「出てますかぁ」と声をかけると「出てますよぉ」と返事がかえってきた。ぼくも目を凝らせて黒く焦げた土手の面を見てみると、あったあった土筆んぼ。そういえば、いつも土筆採りをする例のひみつの場所はどんなだろう。もうちょっと経ったら採りにゆこうかな。というふうに、毎年今ごろになるときまってこんなのんびりとした春が到来する。それはここ数年続いている。思い起こしてみると、ぼくが音羽に作業所を移した頃、春は今よりずっと感動的だったような気がする。はっとして辺りを見回すとパノラマの季節がどっと押し寄せてきたもの。そんな感動も時を重ねるとともに、気づいてみるとあたりまえなものに・・。これはいったい問題なんだろうか問題じゃないんだろうか。

 これだけ、はっきりといえることは、すべての生物がこの季節の移り変わりのサインというか『合図』にあわせて生きていて、その『種』を守りつづけているということ。その『合図』とはまぎれもなく、太陽や月の運行、気温の変化に応じて生物たちが感じ合い発しあうもの。だれからともなく発せられるそのサインは、またちがう生物が受け、そしてまた発せられる。その合図がかくも明確であるところをみれば、それはやはり感動的だからじゃないんだろうか。

 寒く凍え飢える冬、そして命あふれる春。きっとあらゆる生物たちは、この春の移ろいにときめいているのにちがいない。ふと振り返ると、背後の山が新緑に色めいて、もこもこっとぼくに笑いかけているのだった。


239 フィリピンロック
02/03/25


 いちばん上の娘が結婚したからということでフィリピンへ旅行に連れ合いとでかけた。新婚旅行というのだそうですけど。そのおみやげをもらってうれしくなってしまったのだった。

 海外へ行く人に「おみやげは何がいい」ときかれたら、ぼくはいつもその国のロックのCDを買ってきてということにしている(とはいってもそんなにやたらに海外旅行に行く身内があるわけではないのだけれど)。

 フィリピンといえばほとんどアメリカの影響で、音楽の嗜好もそうなのかと思ったのだけれど、そうでもなかった。フィリピンは南国の国なのでやはりその音楽性は明るくポップなものとなっているけれど、その一枚のCDを聴いてみて意外なのに驚かされるのと同時に、その生真面目さというか誠実さに感服もしてしまったのだった。

 どの国でも、音楽には良いものもあれば、首を傾げたくなるものもある。今の日本をながめてみてどうだろう。はっきりいってぼくは、この音楽状況には納得ができない。韓国のロックも少し聴いたし、中国のものも。商業的にも価値がなければいけないのは当然だが(これは遠くはベートーベンの時代においても同じであったと思う)、なんといってもその音楽が何のために発せられたのか、というところがいちばんの肝心要なんじゃないだろうか。

 音楽はなんのために発せられるのだろう。それは音楽ばかりではなく、絵画や写真、文学、映画なども同じだと思うけれど第一の目的は『表現』ということに他ならない。あらゆる芸術活動の中で、音楽とは最も直接的で、人の心を打ち、感動的なものだろうとぼくは考えている。その理由として、こんなに形として有形でなく無形で、人々がそのつもりでなければ、いつのまにか消えてなくなってしまうはかないものであること。にもかかわらず、音楽は大切に伝承されたり、人をも救ってしまう力があるのです。

 先ごろ、3番目で長男の息子をインド旅行に行かせた(ぼくが行きたかった・・)。インドにはロックと呼べるものはなかったのだけれど、彼の持ち帰ったミュージックテープ(CDはまだ無い)には、民族色の豊な、文化としての音楽のにおいが充満していたもの。

 日本にももっと、表現としての音楽がほしいと思ってしまう。



240 学 習 会


 『あいちあぐりねっと』という農業者ばかりのネットワークを発足したのだけれど、その会で学習会を行った。今まで、音羽米の関係者ばかりで高校の生物の先生(環境問題、BSEにも詳しい)を中心に行っていたものを、あぐりねっとで・・ということにしたもの。今回の受講者も15名以上とすごかった。

 今回のテーマはなんと『蘚苔植物(コケ)』について。苔については国際的にも権威である、服部植物研究所の主任研究員、岩月善之助氏(保育社の図鑑も監修してみえる)をお招き。なぜこんな方を、と思ってしまうのだけれど、鈴木ライスセンターで稲作農家として修行中の岩月要ニ郎くんのお父さんがその方なのだった。

 講義の冒頭、日本で苔が学問として扱われはじめた戦後間もない頃の話もしてもらえた。当時、苔の研究者を求めてのはじめての渡米の折の道中話なども交えてのひととき。また、日本ではそれぞれの苔に学名というものがなく、ひとつひとつ命名した話。たとえば
、分類しきれないコケを分類するのに、わけがわからないという理由から『ナンジャモンジャ目』などというのにしてしまった、とか。もちろん講義は素人でもわかるような内容で、スライドを観ながら興味深い苔の生態や美しさなどを話していただけた。

 こういった生物の話を聴くにつけ、さらに進化論的な話を聴くといつも感心してしまうと言うか、ふしぎになってしまっておどろいてしまうことに、その生殖メカニズムがある。たとえば、コケ類では大きく分けて3つの生殖方法があるそうだ。スギゴケの仲間は花弁状の造精器があり、それより高いところに造卵器がある。雨が降るとまず一滴目が造精器に溜まると、精子が滴の表面に泳ぎ出る。そこに次の二滴目の雨しずくが落ちて、飛まつをとばす。それに乗った精子が造卵器に到達して受精し、胞子をつくる。もうふたつの生殖方法は風によるものと虫の媒介によるもの。花をつける種子植物は甘いにおいで蝶や蜂を誘うのだけれど、コケの場合はくさい臭いでハエなどを誘うのだそうだ。

 ルーペや顕微鏡下の植物なのに、よく見ればその美しさにおどろいてしまう。その生殖のためには虫を誘う必要もないのに、なぜかそれらは美しかったりする。一体、何に対する美しさなのか不思議としか言わざるをえない。