241 自爆テロ
02/04/08

 パレスチナでは、再びイスラエルとアラブとの間で戦いが起こっている。イスラエル側からは物量的な兵器による武力行使。そして、アラブ過激派からは、あとを絶たない悲惨な自爆テロ。そのたびに双方で多くの死傷者がでる。

 イスラエルを『こちら側』、アラブやイラク、を『あちら側』と呼ぶとする。昨年9月には、こちら側の米国で同時自爆テロが起き、それに対する報復攻撃がアフガンに。その延長線上にパレスチナ。

 こちらの視点からすると、あちらの行う『自爆テロ』というのは全く悲惨というほかない。テロリストは自らの命を『何か』に捧げつつ、敵対する民族を道連れに散る。それが白昼街路で展開されるものだからたまらない。こういった行為は人道的に許されるべきではない、とはあたりまえのことなのだけれど。

 かつて太平洋戦争末期、この日本でも似たようなことがあった。そういう行為を正義として教育した国家というものを、日の丸、君が代を代名詞に犯罪行為として、わたしたちは銘記している。とはいいながらも、反面「祖国のために死ぬ」とは愛国心の表現としてはもっとも崇高であるともいえる。これは特攻隊や自爆テロでなくても、アメリカの西部劇だ、第二次大戦記だと、国のためにわが身を犠牲に命を捧げた数知れぬ兵士たちの物語が、娯楽映画の中でさえ繰り広げられている。戦争のために死ぬなど『愚かしい』といいながらも、その行為に賛美の心をおぼえてしまうのはどうなんだろう。

 自爆テロで人が死ぬ。そして、重戦車と砲火で無差別な殺戮。どちらもその目的は、敵対する民族を殺傷すること。ちがうのは『あちら側』の場合、攻撃する本人が『死』を選ぶこと。このちがいは一体、どこから起因するのだろう。もしかすると『こちら側』に有り余る『物量』というものが『あちら側』にないから、だけなんじゃないだろうか。その原動力はほかならぬ『貧困』であり、憎しみなのであって、精神的に、思想的にねじまげられている。それに対する、『こちら側』の戦争行為とは一体なんだろう。百倍返しのいじめの論理よろしく、装甲車に守られての、またはコンピュータゲームまがいの航空機からのミサイル爆撃。そこでは自爆などする必要は全くもなく、本人は帰還して肉料理。

 どちらがいい、いけないなどそれこそ論外だけれど、そんな殺戮が国家だ民族だ、正義だという賛美歌のもとで正当化されることの恐ろしさを問題にしたい。


242 露 店
02/04/15


 もう今から40年もむかし、ぼくが小学校へ通っていたころ。いま考えてもなんとも理解のしがたいというか、頭の痛くなるようなビジネスをよく見たもの。その一つ、それは平日、学校帰りの小学生をめあてに行われるのであった。

 冬の寒い時期、下校の頃合、ぼくらの通学路に忽然とあらわれる露店があった。校門を出て200mほどの目抜きの田んぼ道の突き当たりに、当時ガラス工場があり、その塀を背にその露天商氏が。露店といっても小さな腰掛とリンゴ箱を2、3個並べただけのわびしいつくりで・・・、問題はなんといってもその商品。

 焼きが入っているかどうかわかららないのだけれど、ちょうど厚さ1cm、たてよこ3×5cmくらいの粘土の板に凹状に型が入れられているのだった。露天商氏はぼくらに話し掛けるでもなく、その型に親指で粘土を押し込んでみせる(黙々と、丹念に)。それを木の板に「カン」と伏せると、なんと工芸品とも美術品とも見紛うような『般若の面』や何かが、ミニチュアサイズで出来上がる。粘土さえあれば同じ物が何個でも・・・。氏の行っている巧みな技を目の前に、ぼくらの頭の中では自分にも好きなだけ作れてしまう、夢のような工芸品の数々がめくるめいているのだった。

 とかくしている間に氏は小さな薬包のような新聞紙で包まれたものを取り出しあける。と、なにやら黄金の粉が入っている。金粉と称する別売りのそれを、さきほどの般若の『型』に人差し指で塗りつけ、また親指で粘土を押し込む。「カン」という音とともにあらわれたのは、黄金に輝く般若の面。一同、どよめきにも似たうなり声をあげてしまうのだった。この金粉のほかに銀粉も用意されており、なにげないデモンストレーションに花を添えるのだった。

 学校帰りでお金など持ち合わせるはずもないため、近くのもの達は急いで貴重な小遣い(安くはない)を取りに走ることとなる。その他のものは、翌日こっそりと・・・。その道を通り掛かる少年たちはことごとく、このわけの分からない商売に動揺を得ることとなり、翌日の学校は金だ銀だのうわさで持ちきりとなるのだった。

 そんな風にすごいような代物なのだけれど、しばらくの後にはその『型』もポケットの中で割れてしまい、無残な残骸をさらすのだった。どうしてこんなものを買ってしまったのだろうと、子供心にも不思議なのだった。


243 雨中の凶行(再び)
02/04/22


 毎年今時分の時節になると、道長の女将はそわそわしはじめる。なにも木の芽時の発情でもなんでもなく、海の砂浜で熊手をもってガリガリやる『あれ』、潮干狩り。

 釣好きの亭主を持ちながら、日頃は海などには全く興味すらなく、ましてや『大潮・小潮』の潮廻りなど月と太陽のめぐり合わせで起こる現象などということさえ考えたこともないくせに、この『木の芽時』だけはこの女将、『我は海の子』という身の上と変身する。

 そんなわけで今春すでに2回の潮干狩り行となっている。一人での出漁は心細いとばかりに、その都度道連れを誘うものだから、同行の輩のうち誰かは『仕方なく渋々』ということになる。どういうわけでか一般に、女性のほうがこの手のレジャーを好むのはなぜだろう。

 とにかく、先回、2度目の出漁にはやはりこの浅利漁の好きな愛する次女も繰り出すという事態となった。しかも、仕事の都合でどうにもこうにもこの日しかないということで、道長の仕事を無理やり半日で切り上げての出漁。もちろんぼくは仕事(でよかった)。

 折りしも、どういうめぐり合わせというべきか当日は雨模様となったのであります。電話の天気予報では「午後からは風雨も強まり、所によっては雷も」というありさま。そんなデマなど知らぬ存ぜぬとばかり、ふたりの欲深女どもは昼食も忘れて出発していったのだった。1時間半もしたころか、今ごろは潮の引いた砂浜で目を輝かせていることだろうと思ってみると、なにやらそとではビュービューバラバラという雨音と風音。しかもその雲行きたるや尋常ではなく『吹けよ風呼べよ嵐』よろしく、まことに騒々しい荒天とあいなったのであった。

 今ごろどうしているのかしらん、と電話を掛けてもコール音ばかり(それどころではないという状況なのだろう)。後で聞いてみると、この手のキ印女たちは他にも複数居たとみえ、おかげでその凶行が気違い沙汰などではなく、りっぱなレジャーであったのだという正当づけられた行為として彼女たちの心に刻み付けられたのであった。


244 田 植 え
02/04/30


 昨年、初めて米作りをしたのだけれど、こりもせず、今年も・・。米どころ音羽で農家として仕事をしているかぎりは、米だけは自分の手で作りたい。というのがその気持ち。

 無農薬で米作りをしようとすると、まず問題となるのが水。幸い音羽町の場合、すべての田への水は山からの沢水が使われるのだけれど、その沢水を独立した水路から得られるという条件の水田を今年も貸していただくことに。

 昨年、除草対策として『コイ』を試したのだけれど、沢水が豊富に使えないため無理があった(常に沢水をたっぷり取り入れ、深水にしておかなくてはならない)。そんなわけで『コイ』にはちょっと酷でした。ほかに考えられる除草方法といえば、『合鴨』『アゾラ』『米ぬか』などあるけれども、合鴨は生きものだし重装備のためだめ。『アゾラ』をと思ったのだけれど、田植えの時期がこの地域では早いため、アゾラの増殖が追いつかない(水温がまだ低すぎる)ため、これも断念。音羽米研究会で比較的実績のある『米ぬか』農法でいってみることに・・(実はまだ詳しい方法はこれから勉強)。あとは『田の草取り機』で。

 本日4/29、いよいよ『田植え』作業となりました。実はこれ以前に、田越し。有機の『元肥』まき。入水。代かきという作業があった。田越しと代かきは素人にはちょっと出来ないので、音羽米研究会の鈴木さん(息子さんの晋示くんの担当)にしていただいた。代かきの仕上げと畦の草刈(真っ平らにする)はぼくの次男に手伝わせる。

 さて『田植え』。ぼくは長男を手伝うという感じ。この作業には音羽米研究会では、乗用の田植え機(6条植)ですいすいなのだけれど、道長の田植えでは2条植の田植え機にて。どうやらこの田植え機、道長以外に使うことがないと見え、もっぱら専用といった感。それでも『文明の利器』はさすがで、1時間半ぐらいで完了。ちょっとコツがわかってきた、というところでもう終り。やれやれとあらためて我が田を見渡してみると、田植えをした苗の隊列は大きく乱れているのでありました。一年にこれ一回きりの一本勝負。これでは何年目でまともな田植えが出来るようになるのだろう。田植えの済んだほかの田んぼの脇を通るたび、その出来栄えが気になって仕方がないのです。


245 日本の国民性
02/05/06


 世の中が国際的ということになってくると、どうしても日本人の性格というものが問題にされてしまうことがある。つまり、日本人は『曖昧』だとか、世間的で『個性を重んじない』など。こういった国民性はしばしば、弱点として取り上げられてしまうことが多い。

 日本語のきまり言葉で、「それじゃあそういうことで」、「どうでしょうか」と問われて「まあまあです」とか「なんともいえません」とか。または人付き合いなどで、『本音』に対して『たてまえ』というものがあったり。

 音羽町へ作業所を移転したおかげで、一日のほとんどをそこですごしている。そこでの人付き合いというものにも、今はすっかりなれた。そして、昨年から米作りをさせていただくようになってからというもの、つくづくというか、はっきりとその曖昧とした国民性というのに理解納得できたような気がする。

 音羽での米作りには、沢水が使われる。豊川用水というのがあるけれども、これは音羽町の一部に対して飲料用として配給されているにすぎない。沢水のみで米作りをするため、必然的に米の味は非常においしい(生活廃水などを含んで富栄養化した水での米作りは『硝酸態窒素』が過多となり、食味を落とす)。そんなありがたい『沢水』なのだけれど、これがひとたび干ばつともなるとたいへん。『我田引水』ということばがあるけれど、少しでも有利に水をいただこうと我がままな水取り合戦が、それこそ『水面下』でおこなわれることとなる。だから朝となく晩となく、田んぼの水の見回りはぜったいに欠かせない。とにかくどんなことがあっても、自分の田んぼには水がほしい。水争いで『血の雨』が降る、などと音羽米研究会の鈴木さんなどよく言っている。にもかかわらず、血の雨なぞ降ったことはない。みんなお隣の田んぼの持ち主と、何事もないようにやっている。この運命共同体にも似た、狭い地域での生きるための心構えとして、自らを殺すわけでもなく、相手を許してしまうわけでもなく、曖昧なのだけれどなんとか円く納めてゆこうと。このすばらしい性格はどうだろう。そんななか、それぞれの個性はみごとに貫かれているのがいかにもあっぱれな気がする。そんな苦し紛れの国民性だとすると、なんとよく出来た、とは日本人の性格なのだろう。


246 農業に就く
02/05/13


 日本各地のとくに中山間地などで、新規就農ということで多くはないけれども少なからぬ人、家族が農の生活に入ってゆく。道長もおこがましくも、漬物の仕事も『農のひとつのかたち』なぞといってその気になっているものの、それがいかに大変なものかぐらいがわかっている程度といっても仕方ない。

 道長なぞは15年ちかくも市街地で漬物づくりをしてきて、最近の7年くらいを農産地で仕事をしたおかげで、やっとじぶんのめざす漬物の仕事が『農』の一部なのだという実感を得ることができたといえる。天と地のめぐみでできたものを使い、やはりそのちからを借りて漬物作りをする。冷蔵庫を利用したりするのだけれど、天気まかせというか、その年の個性に合わせながら仕事をしてゆく。だから20年以上つづけてきたからといって、大きなことはいえない。その漬物の多くは年に1回の漬け込みのチャンスしかないものが多い。梅ぼし然り、楽京漬、奈良漬、かぶ千枚漬、その他本漬の漬物。20年といってもたった20回の経験というにすぎないわけだし、その1回づつが毎回ちがってもいるのだから。『農業は毎年が一年生』ということばがあるけれど、まさにそのとおりだと思う。

 年季の入った百姓で身近な人たちを見ていると、実にその年のその時々にうまく作業をこなしているものだと実感するもの。自然界の動植物は、干ばつにはそのように、暖冬や冷夏にはそれぞれそのようにうまく順応している。まるで季節天候とともにめぐっているという感じ。だからどんな年でもおどろくこともなく、現実をすべて受け入れ、畑仕事を続けてゆくことができる。そこに必要な感性とは、自然とともにある『動植物的』なものなのだろう。

 現代の慣行農法とは、結果としての自然現象に対し、どうするこうするというちょうど現代の医学のようなものかもしれない。未体験のことに対してはお手上げで、なにかの事例を当てはめるくらいしかできない。暦に従った化学肥料や農薬の散布、水の管理ほかをしていれば一応の成果が得られるのがそのメリットといえる。しかしながら、有機農業のように環境の中でそのサイクルのなかで生き、作物とともに流動してゆくためには、まず現代の培った『何か』を捨て、人間本来の動植物的感性を回復しない限りはむつかしい、とにかく根気と時間の掛かる事柄でもあるのだろう。


247 梅ぼしの作り方
02/05/20



 今年ももうじき梅の季節ということになる。梅といえば、梅ぼし。今年の梅の作柄は昨年ほどではないものの、平年並みといったところ。梅ぼしを店などで買おうとすると、よいものは高価だし、安いものは疑わしい。いっそのこと自分で漬けてみよう。

 まず、おいしい梅ぼしをつけるためのポイント。@なるべく完熟(樹で色んだ)した梅を使う(果肉が厚く、かじってみて渋みの少ないもの)。A塩は梅ぼしに使う唯一の調味料だから、特にこだわったものを選ぶ。

手順
青梅の場合は一晩、完熟なら2時間ほど水に浸して『アク抜き』をし、
その後で、手でかき混ぜながらよく洗う。
水から挙げよく水を切る。
清潔な漬物容器を用意。
塩は漬ける梅の重さの15%くらいが適当。最後に漬けた梅を塩でおおうのでその分を別にしておく(塩全量の8割ほど)。
容器の底に塩を振り、
全量の梅の1/5ほどを入れ、その上に塩を振り、梅を手で転がすように(塩粒で表面にキズがつくように)し、
先ほどの量の梅を入れ、同じことをくり返す。
後になるほど、塩の量をふやしていく。
最後に、別にしておいた塩で漬けた梅にふたをする。
重石(梅の重さの2倍くらいの)をかける。
フタをしっかりとする。できない場合は、虫や異物が入らないように覆いをしておく。
翌日か翌々日には、梅酢があがっているのを確かめる(手順どおりにすればまず大丈夫)
そのまま10日以上置き、頃合の赤しそが出回るのを待ちます。
赤しその量は、軸つきで梅の半分から同量の重さ。
赤しその根は切り捨て、葉をむしり、よく水洗いします。
水切りしたしそ葉に塩を振り、しっかり塩もみする。
水気とともにアクがでるので、よく絞りすてる。
漬け梅の梅酢を少し取り出し、しそに含ませ、さらによくもむ。
今度は絞らずに、漬け梅の間に少々はさみ、うえをしそで被う(しそに梅酢がよく染込むように)。
10日ほど置いたら梅としそ(梅酢はよく絞って)を取り出し天日干し。
梅酢に戻して2・3日後、再度天日干し。
3回目の天日干しで干しあげとし、梅酢には戻さず出来上がりとする。
梅酢は煮物に少量足してよし、サラダによし、一夜漬けの隠し味によし。重宝します。

 こうして作った梅ぼし、安全とおいしさ、健康を保証します。


248 アレルギー
02/05/27


 アレルギー対策として、アレルゲンの表示が義務付けられたり、細分化されたりしている。アレルギー体質ということとは無縁なものにとっては「何だこれしき」ということなのだけれど、現実としてそれをもつものには非常に深刻なものとなる。実はぼくも、昨年ひどい目にあってしまっている。

 そのとき、道長の仕事場の玄関口のところで2cmくらいの小さな『アブ』を見つけたのだった。何気なくそのアブを追い払おうとすると、こともあろうにぼくの右腕の内側に食いついた。一瞬ちくんとして「食われちゃった」と思ってしばらくすると、食われた場所から腕の付け根の方へ『じんましん』様のものが出来はじめる。そしてその赤い火照りはまたたく間に体中へと広がってしまった。これはまずいなと思ってはみたものの、その後事態はさらに深刻なものへと急進していったのだった。

 なんとなく息苦しくなって来、「なんかおかしい!」と不吉な予感が胸をよぎる。さらに数分後にはその予感が的中ということになり、とうとう呼吸をすること自体が困難なものとなってしまった。苦しさのため横にもなれず「これはまずいことになった」と気持ちだけは慌てほうけてしまうのだった。「救急車を呼んだほうがいいかも」でも 「今迎えにこられても、動くことすら難しい」と苦しみと恐怖にたえること20分くらいだっただろうか。でも、その苦しみは次第に和らいできた。はっきりとはおぼえていないものの、かれこれ1時間くらいのあいだの出来事であったように記憶する。しばらくの間は「一体何が起こったのだろう」という感じではあったが、アレルギー反応とは明白な事実。

 思い起こせばさらに1年前の夏、和歌山の共同畑研究会を訪れたときにも、アブに食われている。そのときには食いつかれた右足のかかとが腫れ上がり、半月ほど靴も履けずにいた記憶がある。それ以前にも、アブに食われたことはあったわけで首を傾げてしまうのだけれど、体質が変わったのだろうか。

 アレルギー反応の苦しみと恐怖は、経験したものでなければわからないのだろうと思う。したがって、それが起こらないように未然に防ぐ工夫・手立ては今後、とくに必要なことであろうと実感する。


249 ぎっくり腰
02/06/04


 今回ぼくに起こった出来事というのは、ちょっとはずかしくて他言はできないのだけれどあえて。大体、道長の家系というのはからだが硬く、学校などで各々測定させられる『立位体前屈』などでは、悲しいかないつもプラス!!cmという屈辱的な数字を残している。自慢ではないけれど、ぼくとぼくの息子、娘もその点では折り紙付。

 こういう体質に起こりやすい悲劇というか喜劇のひとつに、『ぎっくり腰』というのがある。ぼくなぞは、19歳の年に初めての経験をしたもの。以来、数年に一度というような間隔でこの現象に遭遇している。

 先日も、出荷荷物の積み替えなぞしながら鼻歌をならしていると、突然鮮烈な傷みと『腰抜け』に見舞われその場でしりもち状態となってしまったのだった。またやってしまったという実感。

 思い起こせば19の時、ぎっくり腰の傷みになすすべを知らず、ただ我慢をするだけの日々を半年間過ごしたことがあったもの。理屈で考えてもわかるのだけれど、長年の使用で次第に『ずれ』が広がって来、限界に達したとき神経が圧迫される。そのときに起こる軽い損傷による痛みがぎっくり腰の正体(この軽い損傷というのがくせもの)。この痛みは時間の経過とともに薄れはするものの、その原因の解決がなければ慢性的な痛みということになり、苦痛の日々が展開されてゆく。腰の部分の柱骨同士のずれも、もとにもどさない限り決して直ることがないわけだから(むしろさらに悪化する)、ほうっておくというのははっきりいって無謀というほかない。

 ぼくがいつも直してもらっている治療院は、指圧マッサージなのだけれど、整体の技術も持っているのでぎっくり腰にもりっぱに対応してくれる。施術後数日たてば、痛みもとれうそのような回復がみられる。その治療院氏いわく、整形外科での痛み止めの薬や、最悪手術などという無謀な手段は危険すぎて勧められない。むしろその原因を取り除くべく、背骨や関節のずれをまず戻してやることが先決。それもむつかしいような場合、整形外科が最終手段とのこと。

 重量物をさげられず、急な態勢の変化のままならない身のこなしに、本人の悲壮感とは裏腹に、それをみる端の目は、やさしいのか、哀れみなのか。それにしてもその目が笑っているのはどういうことなのでしょう。


250 恵 み
02/06/11


 この辺り、おおかたの田植えもすんで一段落。春にはけっこう雨量もあったものの、最近雨はまったく降っていなかった。こんなとき百姓にとって話題はといえば、とうぜん『雨』ということになる。そして待望の『恵みの雨』。

 考えてみると、ぼくたちの生とはなんとこの『恵み』というものに依存していることだろう。農業をとってみれば、『収穫』により『食』と『種』をいただき、種まきから『発芽』があり『成長』、『開花』『受粉』『結実』、そしてふたたび『収穫』。その一連の営みが四季の変化、日照、降雨もろもろの自然の『恵み』によってもたらされている。日照りのつづく野山を見れば、それぞれの葉が水分の発散を節約するあまり緑も浅く乾いた色をしている。そしてひとたび雨が降ってのち太陽が顔を見せれば、野山の緑は生気をふきかえし、目にも鮮やかな新緑を映してくれるもの。

 ぼくたちの『生命』というものも、実はその恵みによるものに他ならない。それもすべてにわたって。そんな状況にもかかわらず、人類というのはなんとそのことを忘却してしまってきていることだろう。夜が来て朝が来る。仕事が始まり、昼が来、夕となって家路、一家のだんらん、就眠。といった事柄のくり返しによる年月の経過。

 いったい『恵み』とはなんだろうと思う。いうまでもなく『恵み』とは大自然というか大宇宙から生物が生の営みの中で受けるものに他ならない。では『恵み』とはなぜ、何の目的で生物たちに与えられるものなのだろう。たとえば生物のいない宇宙の惑星を想像するとする。その惑星は光り輝く恒星の周りをめぐっているのかもしれない。しかしながら、その惑星には『恵み』というものはまったく皆無ということがいえる。この地球を考えてみると、同じように輝く太陽があり、もろもろの条件というものがあり、生物が発生している。その生物たちに共通にあたえられている何かがあるとすれば、それは何だろう。答えは唯一明確、生きつづけようとする『意志』であると思う。この『生への願望』がもろもろの生物に与えられていて、その総意が『恵み』を生み出しているというか意義付けている。

 現代のぼくたちは、諸々の生物の総意の一角に存在をしながら、この思考さえできる心でそれを確認できていると言い切れるだろうか。まずは雨の翌日、光に満ちた大自然を前にその『恵み』を確認しようではありませんか。