251 W 杯
02/06/18

 自分ではそのつもりはなかったのだけれど、世間がここまで熱くなってしまっては観戦しないわけにはいかない。家でも息子・娘やその連合いが、メモ帳片手になにやら勝敗表をつけては真剣なまなざし。どうやら内内でお金も動いているようで、これではいやでもサッカー熱は高まるばかり。

 フーリガンなんぞの仕業なのかどうなのか、戦いに負けたチームの本国などでは、車が焼き討ちにあったり、死者がでたりと、負けたことによる憤懣というか憎しみというか腹いせから、やりたい放題の暴力沙汰まで起こってしまうほど。過去において、アルゼンチンと英国だったかでも、ひょっとするとサッカーの勝敗が原因?、ともいえそうな紛争まで起こったようなそうでないような。どこの選手だったか、自爆シュートを仕出かしてしまった結果帰国後、殺されてしまったこともあったというような記憶もある。とにかく、世界の一部の国を除いて、サッカーが国民的なスポーツであるがゆえなのだろうか。はたまた、これほど大掛かりで、各プレーヤーが接近戦でぶつかり合うからか、サッカーというのは端で応援するものにまで大きな興奮を呼び起こす。それがまた、国と国の国際戦であったりするものだから、その興奮はさらにエスカレートしてたまらない。

 単に技術だけが勝敗につながるというのではなく、なにかのきっかけで11名の意識が高揚したりなんかで、形勢というのが一気に逆転してしまったりするところがサッカーの未知数なところでおもしろい。それぞれの国のチームに、他の国へ越境していた選手が戻ってきてのまさに国対国の勝負というわけ。もしアラブ対イスラエル、米国対イラクなどというような夢の競演など実現したとすると、これほど興奮的な対戦もないのだろう。それこそ、試合の運び、勝負の行方によっては、さらにとんでもないような事態に発展してしまったりして。

 などと思っていたら、決勝トーナメントに進出した日本チームも、誠に残念ながら惜敗ということに。あとに残る希望といえば『韓国』ということに。

 まったく9割がたのにわかサッカーファンの熱い声援にのり、このWサッカー。これで日韓友好が進めば・・・、というところか。

252 
02/06/26


 大自然というものはそうだけれど、海なぞは日がな眺めていてもあきなかったりする。たとえばへぼではあっても釣なぞをすれば海の間近にも座っていられるし、魚を獲るという大目標も達成されるかもしれないという期待も抱くこともできる。というわけで、ぼくも非常にぜいたくな楽しみをもてたものだと、魚釣りをはじめたころには思ったもの。

 夜釣りなぞに行き、暗い闇に静かに息づく海をながめるのもなかなか風情もあり、心もなごむというもの。そんなあれは夏だったか、ひとりで浜名湖今切口(浜名湖が海に狭く開いた潮の出入口)に夜釣りに出かけたときのことだったと思う。雨は降ってはいなかったものの、風が強く、海は荒れ気味だった。案の定、釣り人もまばら。

 潮は下げとなっていて、群雲の間から月がのぞいている。大潮のため、その真円の月影はかなり明るくあたり一面を照らし出しているのだった。ふだんはのどかであるはずのその風景がその夜に限っては一変していて、それは身の毛のよだつものであったのだった。沖の方から押し寄せてくるうねりと、下げ潮で今切口を出てゆこうとする激しい流れ。そのふたつが、今切口の防波堤に立つぼくの目の前の沖でぶつかりあい、くだけて白い帯となって広がっている。そしてそれを上からくっきりと映し出している満月。ぼくはそのあまりに劇的かつ冷徹なパノラマに打たれて、身動きもできず、その場に立ち尽くしていたのだった。

 ‘70年代初め頃の旧ソ連のSF映画で、タルコフスキーという監督の『惑星ソラリス』というのがあった。ソラリスという惑星での不思議な出来事をつづったものだけれど、『海』が思考する大きな生命体であったというあらすじ。ソラリスの海は、それに向かい合う者の心を受け止めイメージを実像にして返してくるというもの。

 込み入った話はともかく、その夜浜名湖で出会った海の風景は、かなり明確にその生命体としての存在感をぼくにとって、確かなものにしてしまったのだった。地球は実はひとつの生命体なのだ、というたとえもあるけれど、ぼくにとってはこの『海』というか『水』という存在が、確かにひとつの巨大な生命体として感じられる。コップの水のように小さな単位では感受できないのだけれど、海ほどの単位ともなれば、それはやはり明白であると思う。

253 川 掃 除
02/07/02


 毎年梅雨のころになると町内では『川掃除』ということで、文字通り川掃除をする。この『川掃除』は田植え前ころに行われる『道つくり』とならんで、田舎では大切な行事。

 『道つくり』では、村の共同の施設(寺、神社、遊園地など)の草刈が主で、そのついでに道路の補修用のアスファルトの袋いりが支給され、気づいたところを各自で直すというもの。

 というわけで梅雨空の合間となった先日、総出の『川掃除』が行われた。この小川(長根川)はいうまでもなく重要な水源。このあたりでは、米作りのすべてがこの小川の沢水にたよっている。

 西に岡崎名古屋、東に豊橋と近郊農業的立地とはいえ、音羽町は中山間地にしていされているだけあって、それぞれの水田はなだらかな傾斜地に階段状に作られている。必然的に川もけっこうな傾斜地をぬって流れている。地元のひとに聞いてみると、普段は水量の少ない小川なのだけれど、むかしはひとたび大雨が降ると川は一気に増水して、その姿さえわからなくなるほど暴れまくったとのこと。これはひとむかし前の話で、今では『河川改修』の結果そんなこともなくなったのだけれど・・・。ただ、その河川改修はいわゆる『三面張り(両側と川底すべてコンクリート張り)』という方式で行われた。そのおかげで、今の長根川の『川掃除』はいたって簡単に済んでしまう。川の中を長靴をはいて歩きながら、川底に生えた雑草や両側に覆い被さった雑草なぞを取り払うというくらい。

 昔の話を聞いてみれば、まだ暴れ川だったころには魚もいれば、蛍もたくさん湧いていたとのこと。そんな長根川、たまにはサワガニやウナギなぞもお目見えしたりするものの、豊富な水量もなければ小魚の集うよどみもない。なんともさみしい清流というわけ。

 音羽米研究会の鈴木さんも言っていたけれど、いっそのこと川掃除なぞやめて2〜3年もしたら、川底にも土がたまって草も生え、途中に小規模な堰でも作れば小魚や蛍も戻ってくるかもしれん(事実、田んぼの畦の水路では蛍もいる)。

 なんとも腑に落ちない川掃除が、今年も行事だからという理由で行われたのだった。


254 ライター
02/07/09


 ぼくが学生だったころ、今はとっくに止めたけれど、ご多分に漏れずぼくもカッコばかりの愛煙家だった。

 当時、愛煙家の中で爆発的に出回り始めていたのが、『100円ライター』。それ以前、ライターは低価格なものではなく、オイルにしろガスにしろ、燃料のタンクを購入しては補充して使っていたもの。だれでもが使い捨てライターを愛用している中で補充式のオイルライター、ジッポーなぞを持つとは、ちょっとしたカッコつけともいえた。

 当時、ある文化サークルに所属していたのだけれど、そこでの友達がこともあろうに当時高級ライターでおなじみの『ダンヒル』の銀無垢ものを拾ってしまった。当然のこと、彼も愛煙家であったため、その喜びようといったらなく、正直に交番にでも届ければいいものを、ちゃっかりといただいてしまったのだった。ぼくなぞは、日本製の『えせダンヒル』だったものだから、拾ったダンヒルが彼の優越感に火をつけてしまい、ぼくの前でタバコを吸うたび「ぼくのはダンヒルだから・・」などと、その重厚な逸品を得意気に見せびらかすのだった。事実、ぼくのは必要以上の輝きと、カバーを明けるたび「ガチッ」と濁音を発するのに対し、かれのは「カッ」という乾いた音を奏でるのだった。

 しかし、身分不相応というのか、拾ったダンヒルを所有したときから、彼はライターにまつわる不幸に見舞われることになったのだった。サークル仲間で軽食を食べ喫茶店を出ると、彼はライターがないのに気づいた(実は仲間の一人がいたずらで隠していた)。急いで店に戻ると、もとの席に客がいる。よせばいいのに訪ねたものだから、あやうくいちゃもんを付けられそうになる始末。あとで仲間に返してもらいほっと一息で事なきを得た。

 さらに悲劇は降りかかるのだった。間もなくサークルの合宿となり、活動報告、掃除、就寝となるのだが、いつのことなのかその間に、またもや彼のダンヒルは行方不明となったのだった。彼の慌てようは尋常ではなく、場合によっては暴力も辞さない剣幕。雑魚寝の闇で「貧乏人の持つ物じゃない」「身の程知らず」「おまえが悪い」などとそしられる中、漆黒の空から彼のダンヒルが「ボッコン」と床に飛来、落下する音。

 彼の元に無事、それは戻ったものの、それ以来、二度と彼はダンヒルを持ち歩くことはなかったのだった。分相応にしておけ、のよい教訓。

255 台風一家
02/07/16


 立て続けに台風がやってきて、今年は当たり年なのだろうか。我が家でも二十歳すぎた息子も、高校生の息子も台風となると話題は『警報』に集中する。ぼくなぞも子供のころ、台風といえば、警報が出る・・、学校が休みになる、という極単純な図式があたまの中に描かれ、楽しみでしょうがなかった(今でも?)。

 ぼくが子供のころには、ちまたの各々の『我が家』は造りも貧弱そのものだった。ちょっと大きな台風が通過したりすると雨戸が外れる、窓ガラスが割れる、瓦が飛ぶ、テレビのアンテナが倒れる、雨が漏るなどはっきりいって大変な騒ぎとなる。だから台風がくるかもしれないというニュースが流れると、外に働きに出ている一家の主たちが大急ぎでかえって来、我が家の心配な個所を普請(ふしん)する金槌の音があちこちで『トンカン』と響き渡ることとなる。そんなあわただしさとは裏腹に、ぼくらの心はわけがわからないのだけれどわくわくしてしまうのだった。

 ぼくの父は(ぼくとちがって)万全を期するタイプだったので、ぼくの一家は安心して台風を向かえることができたのだった。けれど一度だったか(たぶん伊勢湾台風の時)、台風の直撃を受けた夜、それは明らかに恐怖の体験ということになってしまったのだった。まずその風。南向きの縁側の雨戸が、外れるはずのない内側に向かって風に押され、たわんでどうにかなってしまいそうに・・。だから内側からもつっ交い棒をかませたほど。余りの風雨のため、南向きの屋根瓦の間からは雨水が風で押し込まれるため、その部分だけ全面が雨漏りとなる始末。闇に灯るロウソク一本で分けのわからない晩御飯を済ませ、携帯ラジオの台風速報にまんじりともしない夜がふけてゆく(なぜか台風は夜にやってくる)。

 ・・と、話はここで終わらず、さらにこんな展開を見せるのだった。台風も峠を過ぎたかと思う時分、外から戸をたたいて助けを呼ぶ声。なんとお向かいの一家で、風で窓が破られたとたん、家の壁という壁がほとんどすべて吹き飛んでしまったのだそうだ。慌てて我が家へ逃げ込んできたそのご主人の背中には何と、買って間もない家宝のテレビ(相当重い)が布団か何かに包まれて背負われていたのだった。

 そんな恐ろしい夜も、翌朝の青空で吹き飛んでしまうのだった。ラジオや大人達の口からは『台風一過』というせりふが決まって出てくるのだけれど、ぼくの頭にははなぜか『台風一家』と認識されてしまっており、なんだか意味のわからない、でも台風のような一家がなんとなくわかったような感じで連想されているのだった。

256 バッキャロー
02/07/23


 道長という名前を『商標登録』しておいたほうがいいだろう、ということでその手続きをした。その出願をするにもけっこう面倒くさいため、商工会を通じて専門家のアドバイスをいただいたほど。その申請のための料金のかわりに印紙を添付するのだけれど、これが特許申請専用のもので、豊橋市役所(だったか?)に(めったに申請がないため)印紙の在庫を確かめてから出向くというありさま。

 もうすっかり忘れてしまったころ(半年くらい経ってから)、登録を認める旨の書類が書留でとどいた。それを開いてみて、ぼくは思わず絶句してしまったのだった。その中のメインの文章は次のとおり。『この商標登録出願については、拒絶の理由を発見しないから、この出願に係わる商標は、登録をすべきものとみとめます』、と。この申請を審査した人物は『特許庁審査官』とあるけれど、ちょっと頭が悪いんじゃないかと思ってしまった次第。ぼくが学校の先生だったら、こんな風に添削しようではないか。つまり『この商標登録出願を承認します』。

 おまけに、道長の商標権を受けるための料金(高い!)の支払いは、またもや『特許印紙』。さらにおまけに、その印紙を添付する書類の様式とやらがあるようで、それを『タイプ印書等』で作成するのだそうで、その書式の作り方が書いてある(そんな書式、こちらが書き込むだけにして同封しておけっ!)。そしてその用紙は『日本工業規格A列4番』ときた。要するにA4サイズということだろうが・・。こんな文章もある。『電子情報処理組織(これってオンラインって意味!?)を使用して登録料の納付を行うとき・・法律施行規則第11条の規定にしたがって手続きを行ってください』ときた。そして、ところどころこんな括弧書きが・・。「【納付者】」。商工会の方に問い合せていただいたところ、特に重要な部分にはこういった括弧付けをするとのこと(いったいだれが決めたんだ)。こんな但し書もある。『提出日についてはなるべく記載してください』!??。

 行政改革だなんだかんだ、と言っているが、役人のこういった『バカ』をまず直さなければいけません。さらにそれに寄生して生きている代行人というか代書屋みたいな輩を一掃しない限り、何も解決できません。インターネットで数分で済むような手続きを、半年以上もかかってやっているようでは、話にもならない。

 バカヤロー!!!。


257 稲 穂
02/07/30


 梅雨が明けた。田植えから80日ほど経った。いままで緑色だった稲田が、少し色彩を変えてきているのにふと気付く。いよいよ稲穂が出始めているのです。

 今までの間でのおもな作業はというと、畦草刈は別として、田起し、代かき(以上4月)、田植え、除草用くず大豆と米ぬか散布(以上5月)、田の草取り、中干(以上6月)。そして7月下旬となり、出穂となった。稲穂が出たとなると、しなくてはいけない大事なことがひとつ。それは『カメムシ』退治。山林の近い音羽町のあたりでは、『イネカメムシ』というのが『おたずね者』ということになる。イネにつくカメムシは、稲穂が出てまだ実がやわらかいうちに取り付いて、ストロー様の口で米の汁を吸ってしまうというやっかい者。これに吸われてしまった米粒は実の稔りが悪く、褐色の斑点米となってしまう。殺虫剤をかけるわけにはゆかないので、これを捕まえるということになる。田んぼに入って柄の長い、目の細かいタモ網を稲穂に当てながら振り回すと、あまり確立はよくないのかもしれないけれど、けっこうカメムシが捕まる。これを洗剤を混ぜ込んだ水に放り込めば、一巻の終わり。

 風のない日には以外に多くのカメムシを捕まえることができる。今日なぞは、(7畝の田んぼで)12匹も捕まえたのだった。こんな日はカメムシ退治をしてほんとうによかった、と実感もするのです。

 田んぼで網を振り回すと、他にもいろいろな昆虫、クモなどがいることがわかる。数の多い順で、ウンカ類、ヨコバイ類、クモ類、アオムシ、イナゴ、バッタ、甲虫類、ガ、蝶、カマキリ、トンボなど、かなりの種類がいる。さらに水中にもカエルの類、水生昆虫などあげたら切りがない。カメムシにはあまり天敵がいないから、人の手で捕ってしまわないといけないのだろうけれど(とはいっても米の品質をあまり気にしなければ、あまり神経質にならなくてもいいのかも)、その他の虫などはどうやら食物連鎖がはっきりしているようで、さほどの影響はないのだろう。

 殺虫剤をまけば、カメムシ退治はできるかもしれないけれど、田んぼという縮刷版の自然の『体系』がこわされることになる。イネだけが育って、他の生物のいない田んぼの寂しさは、ぼくは想像したくない。

258 子供科学電話相談
02/08/07


 夏休みになると、『子供科学電話相談』というのが、ある全国ネットのラジオ局で高校野球の期間中を除いて放送される。その番組では、科学についての子供の疑問に、各部門に精通した先生たちがわかりやすく答えるというもの。

 この番組はいそがしい仕事中にあるため、ぼくはそれを録音しておいて他の時に聴きなおしたりする。子供たちが科学に寄せる疑問は、時としてぼくにも疑問であったり、回答者はこう答えたが、ぼくだったらこんな風にわかりやすく答えるだろうと思ったり、そんな質問があったのかと驚かされたりと、興味が尽きない。

 そんな番組をきょうは一日時間がなかったので、今夜は寝しなに寝床で聴きなおしている。「カナヘビの飼い方を教えてください。寿命は?。名前はカナちゃんです」「九官鳥を飼っているのですが、どれがほんとの鳴き声ですか」、「宇宙の終りはどうなっているのですか」「なぜキリンの首は長いのですか」、などなど。

 今でもあるかもしれないけれど、ぼくは中学のころ『子供の科学』という月刊雑誌を愛読していたもの。ぼくはその後の進路とは裏腹に、科学少年だったのでその雑誌を、今では考えられない『回覧雑誌』という方法で購読していた。5日置きだったかに本屋さんが雑誌を取替えに来る。ぼくはひたすら『子供の科学』の順番が回ってくるのを待ちわびたもの。その雑誌の中では、少年のぼくのいろいろな疑問や、初めて知る科学に関する驚きの事実をぼくに提示してくれるのだった。ラジオなどの組み立ても好きだったので、その本にある配線図と実体図をたよりに、電子部品店で買ってきた部品と、壊れたテレビなどから外した抵抗器、コンデンサーなどでかんたんなお遊び回路を作ったりしたもの。

 今にして思えば、そんなぼくにとっていちばんの科学の不思議とは、宇宙だった。宇宙に終りはあるのか。あるとすればどんなふうになっているのかしらん。あのアインシュタインの相対性理論によれば、宇宙は『有限であって限りがない』のだそうで、その理屈を後々知ったときもなんとなくわかったようなわからないような気もしてしまったもの。

 寝床のラジカセから、子供たちの疑問の数々がながれる。寝付け薬のつもりで聴いていたのだけれど、いつのまにかつり込まれてしまい、とうとうまんじりともせず、ぼくは興奮かつ壮大な時空をさ迷ってしまったのだった。

259 訃 報
02/08/12


 考えてみれば、訃報というのはいかにすみやかに行き渡ることだろう。もっともその本人の年令、社会的な立場、亡くなられた理由などにもよって、その知らせが走る速さも違うのかもしれないけれど。

 すばやいほどに、訃報がぼくのもとにも。ある会でいつも顔を合わせていたその方は、長い間消費者運動を牽引し、行動力もあり、たよりになる方だった。ほんとうに残念としかいいようのない出来事。

 ぼくもこの歳にもなると、いろいろな人のいろいろな『死』というものに出会ってきた。知人の死。病気による死、事故、自殺。いずれにしてもぼくと同年代あるいは若い人の死と遭遇するのは、それが身近であればあるほど衝撃であるし、悲しみでもあり、無念で仕方ない。

 『死』を自分に置き換えてみる。あれこれ考えても、未練なことばかりが目立つ。仮に生物に魂というものがあるのだとしたら、きっと死後のぼくの魂はこの世にばかり向いて、行きどころもなくさ迷ってしまうのかもしれない。あるいは『死』とはなによりも、恐れの対象としてぼくの前に立ちふさがっている。それは『死』に際しての恐れもさることながら、その後の『自我』の喪失に対するものであるかもしれないし、孤独に対するものであるのかもしれない。

 ぼくの父親は4年前、肺がんで逝った。死期を知らされ、それを受容し、覚悟を決めるのに、父親はいかほどの段階と時間を要したのだろうか。ぼくはその間に彼の心の中で幾度となく行われた思考の反復について、何も知らない。また彼もそれを語ることはなかった。早朝、ぼくが病室にたどり着いたときには、見守る母のもと、彼は逝ってしまったあとで、もうぼくとの疎通は閉ざされてしまっていた。

 当該の訃報の主は不慮の事故に遭遇してしまい、肉親二人とともに帰らぬ人となってしまった。そんな彼女は、ぼくの父のような猶予をつかの間でさえ持ち得たのだろうか、どうなのだろう。
 こんなぼくの取り留めのない思いをよそに、途切れる事を知らない焼香の流れの列の中、通夜の時は過ぎてゆくのだった。時も8月、広島、長崎、そして終戦。

 ひとのいのちの深さを知る。やすらかに。


260 ブルースとジャズ
02/08/12


 ポピュラー音楽のルーツをたどると、まずは黒人音楽に行き着く。黒人音楽といえば、代表的にはジャズとブルースということができる。他にソウルとかR&B、ラップ、クロスオーバー、フュージョンなどいろいろあるけれど、それらの基本になっている部分はやはりジャズ、ブルースということになる。

 この黒人音楽のルーツを考えてみると、やはり米国へのヨーロッパからの移民とアフリカからの奴隷の流入というふたつの流れの合流によるものということができる。ブルースについて言えば、ヨーロッパからのメロディーと黒人の持つリズムの出会いから歌が唄われたのが、始まりだと言われている。働き者の黒人たちは、畑での労働をワークソングという形でおこなった。1862年南北戦争以後、奴隷制は開放されたものの、黒人たちには小作としての労働の明け暮れが与えられたにすぎなかった。週に一度、日曜日の礼拝ともなれば、教会は一日中リズムの効いたゴスペルの大合唱で明け暮れたのかもしれない。音楽は、黒人たちにとって喜びであり、希望であったといえる。

 またジャズなどは、ニューオーリンズを発祥とするといわれているけれど、これも南北戦争終結後、負けた南軍の音楽隊の楽器が黒人たちのものになり、ジャズバンドのもとになったといわれている。スゥイングジャズの時代には歌も歌われたのだろうけれど、次第にジャズは演奏中心の形式になってゆき、モダンジャズ、フリージャズへと。

 ここで、ブルースとジャズの方向性の違いについて考えてみる。ブルースの起源は労働歌、霊歌、つまり歌。それに込められるのは『感情』の表現ということになる。ジャズの起源は歌もあるだろうが、やはり楽器の演奏というのが基本になっている。お互いの楽器による技巧的な表現により、ジャズは奏でられる。そこには洗練された『精神』の表現があり、どちらかといえば冷静(クール)ということができる。

 白人の若者は自らの音楽(ロック)を表現しようとした時、これは極自然な選択なのだろうけれど、感情表現の豊かな(下衆な)ブルースを選んだ。リズム&ブルース、ブルースロック、ハードロック、ニューウェイヴ、パンクへと感情と希望の音楽が発展してきた。

 ぼくには、音楽といえばやはり、ロック、ブルースが合っている気がする。