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いつくしみ深き
06/06/28

賛美歌312に非常に美しいメロディーの『いつくしみ深き』という曲があります。おそらくだれも知らないものはないでしょう。日本でも『星の世界』などの唱歌としても親しまれています。

この歌の詞はアイルランド人ジョセフ・スクライヴィン(1819−1886)という人によるものです。スクライヴィンの生涯については諸説あるようなので、大雑把に説明します。

アイルランドで婚約者との死別。失意のもと、キリスト教に身を捧げカナダに渡り、布教活動をします。人の紹介でふたたび結婚するのですが、その折、またも死別してしまう。以後、彼は献身的に人々に尽くす宗教活動と作詩にあけくれたとのこと。

1854年、アイルランドの病床の母に贈ったといわれるのが『いつくしみ深き』だったといわれています。そしてスクライヴィンの死後、その詞にはいくつかの曲が付けられたようです。その中で、米国作曲家チャールズ・コンバースが彼の『エリー』という曲(1868作曲)にその詞をつけたところ大ヒットし、歌われるようになったそうです。『エリー』とは、五大湖のひとつ。

また『エリー』にはその後、いくつかの詞がつけられ歌われたようです。それほどに『エリー』は美しい曲ということがいえましょう。第一次世界大戦では、反戦歌として歌詞が付けられ、歌われています。

日本ではこの曲が発表されるとまもなく、杉谷代水(だいすい)と川路柳虹(りゅうこう)により、それぞれ『星の界(よ)』と『星の世界』という詞がつけられ、唱歌として親しまれるようになりました。ぼくは小学校の時、川路柳虹の『星の世界』でこの歌を習いました。

神をたたえるすばらしい詞と、だれにでも憶えやすい美しい曲がひとつになり、『いつくしみ深き』はキリスト教の礼拝や、式のたびに必ずといっていいほど歌われます。

おごそかで、力強く、心にしみる名曲です。


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アリラン(作者不詳)
06/07/20


朝鮮民謡として知られる『アリラン』。これは朝鮮半島のみならず、日本や周囲の国々でも親しまれている美しい曲です。でも『アリラン』についてはその曲の起源、作詩などについて明確なものはありません。ソウル周辺に伝わっていた古謡が朝鮮半島に広まったのではないかと言われています。

この曲の詞、メロディーとも朝鮮各地で少しづつ違っていて、その曲100、詩は3000のバリエーションにものぼるといわれています。

なんといってもこの歌で印象的なのは『アリラン』という語の繰りかえしでしょう。でも、このアリラン峠についても、その場所由来についてはわかっていません。

ぼくは詩を解釈することができないので、いくつかの『アリラン』を訳詞したものから解釈をしてみます。それによれば、この詞にあらわされているのはつらい『別離』です。そしてその悲しみは過去のものではなく、アリラン峠を越えて行く今現在のもの。一歩一歩踏みしめながら、その歩調につらさが刻みつけられてゆくかのようでもあります。

『アリラン』がとくに朝鮮半島で歌われるようになったのは、日本の植民地下にあった20世紀中ごろだともいわれています。また、朝鮮戦争が1953年に終結されたとき、この歌が板門店で流れたそうです。

考えてみれば朝鮮半島は日本や米国などが介入し、侵略し、分断されるという『民族自決』という当然の権利さえ奪われ続けてきたという歴史で綴られています。そこでは家族、恋人、民族の耐えがたい別れを強いられてきました。そしてそれは今も続いている。

『アリラン』が現在形の詞で綴られているという事実が、ひとびとの背負っている様々な別れを今現在もそれぞれの心に刻み付けているともいえるのではないでしょうか。そしてそのつらい別離は、アリラン峠を越えることでいつかまたふたたび出会うことができるのだという希望にもつながっています。

この歌が暗く悲しいけれど、希望も込められているほどに美しく、力強い朝鮮の民族の血を表現していることにちがいはありません。

きたるべき将来、南北朝鮮がその分断から開放されたとき、もしかすると『アリラン』は新らしい朝鮮の『国歌』となっても不思議はないのではないでしょうか。

そのときこそこの『アリラン』は、悲しみの歌ではなく、みなが再会し喜びを分かち合う喜びの歌として朝鮮半島に響き渡るのかもしれません。一日も早くその日が訪れんことを!


付:日本にも『赤とんぼ』(山田耕作/三木露風)があります。どこか曲調が似ていて、ぼくは夕焼けをみるたび、この歌を思い出します。
これも『アリラン』のように美しい歌です。


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むかしあって今は無いもの
06/09/06

回すと芯の出るシャープ:くるっと回すと芯が出る。なんと便利な筆記具。でも使い古すと書いてるあいだに芯が引っ込んでしまいます。あーあ、高かったのになあ。

電 蓄:電気蓄音機の略。さらにむかし手回しのゼンマイ式から発展。今にして思えば、ただレコードを再生できるというだけで音質なぞ二の次。それでもしあわせでした。

ソノシート:『少年○×』『小学×年生』などに付録で付いたりした、フニャフニャビニール製のレコード。少年少女の人気ヒーローの主題歌、童謡などを収録。でもこれを再生するとレコード針が傷みます。

オープンリールのテープレコーダー:今ではカセットテープでさえ過去の遺物になろうとしているけれど、その昔はこのスタイル。いちいちリールをかけてテープを引き出し、あっちこち通してもう一方の空リールに引っ掛けてさあ再生・録音。マニアックだけどめんどくさい。

ドドンパ:なんとも不思議なリズムの歌謡曲。1960年代初めころ『東京ドドンパ娘』などというのもありました。♪わたしはドドンパ娘/いつでもどこでも勝負する♪なんちゃって。う〜んちょっとあぶない。都都逸(ドドイツ)とルンバが合体して生まれたなんていううわさも。ちょっと頭が痛くなってきました。『スクスク』『スイム』『タムレ』に『チャチャチャ』。

旗日の国旗:むかし国民の祝日のことを『旗日』とよんだ。どこの家でも門口に国旗掲揚。門柱や玄関の柱に国旗を差し込む金具が取り付けられていました。あの愛国心はいったいどこへいったのでしょう。

電話番号の前に(呼)の文字:かつては家に電話があるなんてよっぽど金持ちか商売家くらいのもの。だから自分の住所に(呼)5537などと記載。この電話番号にかければ、その家人が電話を取り次いでくれました。

『立小便禁ズ』:ちょっと人目につかない路地の塀にこんな張り紙。でもそんなこと書くからみんなそこがそういう場所なのかしらんと思っちゃう。迷惑なのはわかるけど、かえって逆効果。

銀座通り:東京の銀座にちなんで、どこの町にもこんな名前の通りがありました。日曜日ともなれば人ごみで活気付きました。銀座をブラつけば『銀ブラ』。今は閑古鳥。

記念切手:むかし記念切手はマニアでなくても集めました。利殖のつもりもあったのでしょうか。その発売日ともなると、横丁の郵便局にも行列ができたもの。でも切手で儲けたひとをぼくは知りません。

ホッピング:一本足の鉄パイプにハンドルと両足を乗せるステップ。そしてそれを支えるスプリング。これに乗って飛び跳ねれば気分も爽快ホッピング。

フラフープ:プラスチックの輪っかを腰にあて、くるくる回します。でも「腸がひっくり返る」なんてウワサで一気に終息。でもまた流行ってるそうです。


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遺伝子組み換えナタネ抜取隊
06/12/06


 『遺伝子組み換え食品を考える中部の会』では11/25、三重県四日市市から津市までの国道23号沿線に自生する遺伝子組み換え(GM)ナタネの拡散を防ぐための抜き取り作戦『遺伝子組み換えナタネ抜取隊』をおこないました。

 四日市港で輸入陸揚げされるセイヨウナタネは製油所に陸送される際、国道23号線を通過します。その途中、輸送手段の不備から種子としてのナタネがこぼれ落ち、道路脇で発芽し、花を咲かせ、結実、そして種子が放出され、拡散ということになってしまっています。

 以上のことが問題となってから、関連製油会社では輸送トラックの改良を重ね、拡散の原因はほぼ解消されています。にもかかわらず『中部の会』の今年7月の調査では、次のような事実が確認されました。つまり今まで道路脇に点の状態で自生していたセイヨウナタネが、連なって線の状態に発展していたのです。このまま放置すると、『線』から『面』へと広がってしまう可能性があります。

 『中部の会』では今までの『調査』から、『拡散の防止・根絶』をめざしす一掃作戦へと活動を発展させることになったわけです。

 今回はその第一回目ということもあり、セイヨウナタネが一年でいちばん少ない晩秋をえらび『遺伝子組み換えナタネ抜取隊』ということになりました。

 当日は『中部の会』で募った市民約50名が三重県白子駅前の公園に集合。作業の方法、セイヨウナタネの見分け方などの説明のあと、各々4〜5名の10グループに別れ、全行程40キロのうち今回は20キロを分担して抜取り作業を行ないました。

 抜取り作業は正味1時間余りでしたが、「こんな季節に・・」と参加者がおどろいてしまうほどたくさんのセイヨウナタネが見つかり、抜取られました。

 抜取り作業終了後、参加者はふたたび白子駅前公園に集合。参加者の方たちに実際に危機感を持っていただくため、抜取られたナタネを検査キットを使って遺伝子組み換えかどうかの判定も行ないました。その結果ほとんどのグループで採取されたセイヨウナタネから除草剤耐性の組み換えナタネが確認され、参加者たちは真剣な視線を検査用試験紙に集中していました。

 今後定期的な活動をしてゆくには、多くの市民の力をお願いしなくてはなりません。自生進行中のセイヨウナタネの根絶にむけて抜取り作業は始まったばかりです。

遺伝子組み換えナタネと農業
 言うまでもなく遺伝子組み換えナタネは輸入農産物です。日本ではかつて菜種油を絞るためのナタネは地元で生産していました。もちろんむかしと今では食用に使われる油の量は比べものになりません。またそれを国産でまかなうことは不可能です。

 この問題を根本的に解決するには、それこそ日本の食文化自体を問い直す必要がありとてもむつかしいことです。

 メーカーとしても不安定な農産物の生産をGMフリーのオーストラリアだけにたよるわけには行かないというのが現状です。

 消費者であるわたしたちが「GM食品はいらない」と、明確に意思表示してゆかなければならないのではないでしょうか。

たくさんの人たちの協力で行なわれた『抜取隊』


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ブリティッシュロックの英雄たち
07/12/01


今となっては60、70年代のロックというと、なかばなつかしの大衆音楽と勘違いされがち。しかしながら、それどころか大衆音楽の流れを大きく変え、現在のそれの基本を形作るに至った文化革命であったといえます。

その波のひとつひとつとなった重要なバンドを年代順に挙げてみると。

ローリングストーンズ(1963年)
 今はなきブライアン・ジョーンズとミック・ジャガーがブルースというきずなで始めたバンド。当時の英国の若者特有の創造と破壊の精神(当時サイケデリックとも呼ばれた)で黒人音楽との融合をはかった。ビートルズと双璧のバンドと言われたが、ビートルズの解散、バンドリーダー、B・ジョーンズの死をきっかけに、ミック・ジャガーの一人舞台に。ブルースとロックンロール、ソウルというオーソドックスな路線ひとすじで今日に至る。

ヤードバーズ(63年):
 ストーンズとほぼ同時期、今はなきキース・レルフを中心に発足。ストーンズと同様に欧州の白人音楽と米国の黒人音楽の融合から、創造力豊かな音楽活動をした。三大ギタリスト、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジを輩出した。68年、押し寄せるハードロックの影響から解散。ストーンズとくらべると音質には重量感があった。ジミー・ペイジにより、後のレッド・ツェッペリンへと継承された。

フー(1964年)
 ロジャー・ダルトリー、ピート・タウンゼント、ジョン・エントウィッスルのバンドに、強烈個性のドラマー、キース・ムーンの加入で決定的となった。おそらく60年代のロックではいちばんの破壊力を持つバンド。残念ながら78年、K・ムーンの死がきっかけで活動を終えた。

スモール・フェイセズ(1965年)
 フーなどと並び、モッズ(modernism、modernsが語源)スタイルで音楽展開。時代がハードロックへと進む中、ロッド・ステュアートの加入でフェイセズとなるが、これまたロッドの脱退(米国へ進出のため)で解体。

クリーム(1966年)
 英国のというより、世界のロックをハードロックの波に飲み込んで行くきっかけを作ったといって過言でないバンド。エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーのトリオ。ジャズの即興手法とブルース、そしてロックを融合させたいわば歴史的なバンド。たった2年の短命バンドだったが、ハードロックを語る上で欠かせない。

ジミ・ヘンドリックス
 なんといってもジミヘンの功績は大きいでしょう。おそらくここに記したすべてのバンドで、ジミヘンの影響を受けなかったバンドはありません。ロックに命を賭けた男といって過言はないでしょう。ただしひとつ残念なのはジミが米国の黒人であったこと。それゆえにその音楽性が英国ロックの範疇に入りにくいところがある。これとは反対にたとえばブルースに進んだエリック・クラプトンは、自分が白人であるがため、黒人であることを望んだひとりなのかもしれません。あのジャニス・ジョップリンがそうであったように。それほどに黒人音楽は白人の若者に大きな影響を与えているのです。

 この他にも名前を挙げたら切りがなく、おそらくその数は英国だけでも数百に及んでしまうほど、60、70年の境目あたりには、たくさんのバンドがありました。その当時、時代は新しい音楽の波を求めていました。それは世界がベトナム戦争や不安、不満で満ち溢れていたという背景を、文化というか音楽の世界にもそのまま投影していたといえます。

 若者の心は揺れ動き、常に満たされず、新しいものを欲し、古いものを否定したがる。一見無謀とも思われますが、そんな時代、場所でこそ、すばらしい文化が継承され、生み出されてゆくものなのではないでしょうか。


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むかしあって今はないもの 10
06/12/21


お菓子のバラ売り:せんべい1枚、あめ玉1個もむかしはバラ売り。内職で作った新聞紙製紙(カン)袋に入れてくれる。

食品の引き売り:佃煮、沢庵、糸引納豆、アイスキャンデーなどをぼくは憶えています。「たくあん漬けはよかったかね」という陽気な売り声が朝を告げたもの。

銭湯:今はスーパー銭湯などといって、車で出かけるレジャー感覚。冬の銭湯、帰りの夜道でぬれたタオルをぐるぐる回すとあら不思議。タオルが棒みたいに凍っちゃった。

物々交換でポンせんべい:ポンせんべい屋さんに米を持ってくと、相応のポンせんべいと交換。焼きたてで香ばしく、とにかく美味かった。

水溜り:目抜き通りでも自動車が通るといつの間にか凹凸ができてしまいます。雨が降れば水深不明の水溜り。自転車で突っ込むとひどい目にあいます。

パッカン屋:強力な圧力釜を大八車に積み込みやってくる『パッカン屋』。お金がない家はお米を持ってくと、『バン』という大音響とともにその何倍ものポン菓子になって返ってくるのが魅力(ほんとはちっとも徳じゃない)。爆発と同時にこぼれるポン菓子目当ての不衛生なガキどもに付きまとわれ、迷惑なのはパッカン屋。「っるせー、ついてくるな」。

鋳掛屋(いかけや):定期的に横丁に参上するのが鋳掛屋。穴のあいた鍋を修理してくれます。でもアルマイトの鍋は直せません。

おひつ:炊き立てのご飯はそのときだけ。あとは木でできたおひつに移しておきます。こうすればごはんが蒸れずにおいしく長持ち。でも過信はいけません。いつのまにかごはんが糸を引いてました。

胡麻塩頭:子供の散髪はお金の無駄とばかり、バリカン一丁坊主頭。切れ味よければいいけど、そうでなければ悲惨。「いてーっ」。胡麻塩頭に切り傷の小学生がよくいました。

冬のぬかる道:凍てつく冬の朝。凸凹で歩きにくい道が、夕方には融けてぬかる道。ズック靴を新調した日には、独り寂しく遠回りの帰り道。

天狗傘:風が吹くと傘が天狗になりますが、こともあろうに学校の帰り道に『天狗傘』。広げた傘を思いっきり振るとあらまあ『天狗傘』。こんなこと何回もされたんじゃたまりません。「こないだ直しに出したばかりなのにもう壊れるなんておかしいわあ」とお母さん。こんなとこ見たら目が吊り上がります、きっと。

軟球のついた孫の手:修学旅行の定番みやげ。お母さんの肩こり解消とばかり親孝行のつもりが、帰りの修学旅行列車の中でポッポらポンと外れてしまい無残。

木刀の土産:修学旅行の土産に「木刀は買うな」とあれほど口酸っぱく言われていたのに、よせばいいのにたいてい誰かが買ってしまいます。当然先生に取り上げとなり、その木刀で「馬鹿もん」とゴツン。「いてー」。

丹頂チック:若いあんちゃん、かっこよく丹頂チックの強力ポマード塗ってテカテカ頭のリーゼント。おしゃれはいいけど、とにかくにおいがきつい。お尻のポケットに差した櫛がかっこいい。なんちゃって。


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むかしあって今はないもの 11
06/12/31


凧揚げ:冬の北西風が吹くと子供たちは凧揚げ。去年の天神さんで買ってもらった奴凧の紙を張替え、武者絵は書けないので『火の用心』。杭にくくりつけ、揚げたことをわすれてました。暗くなるまで揚げっぱなし。

羽根つき:押絵の美術的なものから、絵を描いただけのものまで各種の羽子板(木製ラケット)で木の実の種に羽根をつけたもの(シャトル)を打ち合うあそび。負けるたび、顔に墨を塗られます。晴着が汚れちゃうよー。

水中花:夏の風物詩。長いコップに水を入れ、これをトポンと入れるとあら不思議。水中で花が開きます。夏の終わるころ、無様に色あせて見る影もなし。

紙風船:富山の薬屋さんが置き薬の補充に来るたび、たのしみなのが四角っぽく膨らむ紙風船。『ケロリン』『熊乃胆』などと書かれてました。「薬屋のおじさん、もうひとつ頂戴!」「ちくしょーガキには勝てん」。

竹とんぼ:小刀で竹を削って手作りでも。青い空に向かって飛ぶ竹とんぼのすがすがしさ。

元旦出校の紅白饅頭:正月元旦は決まって出校日。いやいやの登校だけどただひとつの楽しみ。これがもらえます。美味かった。でもいつまでたっても悪くならないところが不思議。

だるまストーブ:寒い冬、石炭やコークスをくべるだるまストーブ。なぜかタバコの煙でもうもうの職員室だけにありました。自分たちだけぬくぬくしやがって。

着せ替え人形:パッチリ青いお目目のお人形の描かれた型紙に、折り返しの付いた洋服や和服の型紙を付け替える。女の子の夢。ファッショングッズ。でも男の子でこれに夢中というのは、ちょっとあぶない。

立体音楽堂:NHKの第1と第2放送を右左に置いた2台のラジオで聴きます。なんと立体音響の世界。でも同じラジオを二台持ってる家はなかなかありません。音響セットには二つのラジオ局を同時に再生できるものもありました。

軍人将棋:お祭りなどでよく売られてました。でもルールがなかなか難しく、マニアでなければできません。学級でもこれを楽しめる子はめったにいません。

子供銀行券:お金は子供にも魅力。小さなお札とプラッチックの硬貨。あー、お金持ちになりてー。でもこのアイテムではじまるのは決まって『お買物ごっこ』。お金は魅力だけど女の子のあそび。男の子はゴザに座らされてまたまたお留守番。

パンチガム:「ガムをあげるね」「オッ、ありがと」ともらおうと思うと、バネの力でパッチンと指を挟まれます。わかってるけど、引っ掛かった振り。

糸引き飴:ざら目をまぶした逆円錐形のいろんな味のアメに糸がついています。どのアメがあたるかわからない。糸を引いてどうぞ。「オイそこのボーズ、やり直しはあかんぞヨ」。おっと店のオバアサンの目が光っています。

こうせん(麦焦がし):コップに砂糖とまぜて水を注ぎます。スプーンですくってめしあがれ。大好きな夏のおやつ。でもけっこうお腹もくちくなります。ご飯の前は禁物。

むかしあって今はないもの


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有機農業推進法
07/01/21


平成18年12月、有機農業を推進するための『有機農業の推進に関する法律』が国会で採択されました。これは超党派で2004年に発足した有機農業推進議員連盟により作成された議員立法です。日本での有機農業は2000年の有機JAS法の施行にもかかわらず、その比率は日本の農業の1%にも満たない現状で止まっているというのが現状です。この法律には有機農業を認証制度で担保するだけのものから、さらにもっと広めてゆく方策へ推し進めてゆこうという願いが込められているといえます。

有機JASの不備
農水省によるJAS(日本農林規格)での考え方は、食品の表示から農産物の栽培方法に至るまで、たとえば最近施行されたポジティブリストにも現れているとおり、許された資材以外は使用してはならないというような規定を定めることで、特に化学物質や遺伝子組み換えを規制しようとしている。ところがこの規定が農薬や添加物を減らし、持続可能な農業を推し進めてゆくための原動力になっているといえるでしょうか。むしろ順序があるとすれば、有機農業を推進しようという方策がまずあって、それに認証制度が求められるというのでなければならない。これは『西欧にならえ』という建前論から始められてしまっていたことの現われといえます。

日本の有機農業
日本は狭い国土にもかかわらず、明確な四季、豊富な水という実に恵まれた自然環境ゆえに、模範的ともいえる循環型農業というかその究極ともいえる有機農業が必然としてあったわけです。だから自然の循環に逆らうことなく生産と消費のバランスがとられてきたわけです。

これは日本の農業の特徴といえますが、決して自然に任せるという形で『農』が行なわれてきたわけではない。野と山、田と畑、人の生活をその土地の気候風土に合わせて維持する(西欧の考え方での、有機農業とは農業に自然の循環システムを取り入れ、畑という人工的な場所で『生産』を維持しようとするのとはちょっとちがっている)。

有機農業の定義
はなしがずれてしまったけれど、この法律の第二条で『「有機農業」とは、科学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組み換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行なわれる農業をいう』と定義しています。

近代農業の典型として、1960年ごろには『緑の革命』がありました。化学的な資材を投入することで農業を効率的に、高い経済性を目的に行なうというものでした。その結果、世界の自然は破壊され、農地(特に熱帯地方)は疲弊し、さらには農家の貧困化を招いてしまいました。そして現在では『遺伝子組み換え技術』をはじめとするバイオテクノロジーによる、これまた効率と経済性を追求した農業を『第二の緑の革命』とばかり懲りもせず進めようとしている。

農業の国際化に対して
米国の経済戦略が農を通して推し進められようとしている大きな流れがあるとすれば、有機農業を推進するということはその力に対抗するということになるわけです。これは米国によるグローバル化の波に対する『コーデックス』『カルタヘナ法』『京都議定書』などによる国際的な動きにも同調しています。

今現在では『有機農業推進法』は消費者の望む安全な『食』を『農』という基本で確保してゆくため、まずは国が明確に有機農業を認知しようと宣言されたといえる。そして有機農業という基本こそが、将来の日本、さらには地球の自然環境を破壊から再生へと向けてゆくためのワンステップとなってほしいと願いが込められている。

地球温暖化による環境破壊に対し『It’s late, but not too late』という希望も込めて。




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かりんとうを作る
07/01/31



音羽町産の小麦粉でかりんとうが作れないものか。ということで検討をしていたら、なんと身近に適任がいらっしゃいました。それはいつも道長の野菜を作っていただいている鈴木慶市さんでありました。御歳80歳の彼は日本一の生産量を誇る豊橋市の某かりんとうメーカーの役員で、なんと54年間をもってする、その会社でかりんとうひとすじの大ベテラン。

今回かりんとうの試作に使ったのは地粉の強力粉。かりんとう作りにはとにかく強力でなければいけないというわけで、音羽の地粉で使えるかどうかが問題でしたが、慶市さんが試しに水だけで練ってみたところ『合格』ということで一安心。

用意した強力地粉500gに適量の砂糖と黒ゴマ、さらに彼の会社のレシピに従い、今回はドライイースト使用。これを耳たぶくらいの固さに練り上げる。30℃くらいに保って1時間あまり置くと発酵した生地はもとの3倍くらいに膨れて来、準備完了。

くっつき防止の手粉(同じ小麦粉)を振りながら、1cm弱に伸ばした生地をやはり同じ幅、5cmくらいの長さに切りそろえる。

これを約180℃ほどの米ぬか油で揚げる間、先に適量の粗糖、水あめ、塩に少量の水を加熱し溶かしておいた下地にメインの黒糖を加え、さらに加熱(沸騰させない)。

タイミングよく揚がったかりんとうに、完全に糖分の溶けた黒糖みつを一瞬煮立たせ、手際よくからめると・・・待ちに待った黒かりんとうのできあがり。感激!!

かりんとうに求められる歯ごたえは、昔とくらべると『カリッ』ではなく、むしろ『サクッ』に近いものに変わってきているとのこと。だから地粉ではなかなかむつかしいというのが業界の通説ではあるらしい。ところが県の農業総合試験場では本格的な強力粉用の小麦の開発も実用化されつつあるため、これから近い将来、国産小麦でもパンはもちろん、それ以上にたんぱく質の含有量が要求されるかりんとうにも、地産地消がじゅうぶんに可能になるようになる。

これならきっと地粉のかりんとう作りは可能と、この道50数年の鈴木慶市さんは語るのでした。ひょっとしたら地粉のかりんとう、商品化ということになるかもしれません。

小麦といえば日本の風土に合わない作物ですが、かりんとうはやっぱり代表的な日本の郷土菓子。その格別なうまさに・・、ちょっと食べすぎてしまいました。

ちょっと膨らみが不足気味


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平穂農園(愛知県豊橋市)
07/02/08



豊橋市の豊川の近く、牛川通に平穂農園があります。この農園、なんと22代目という長い歴史を持っているとのこと。

豊橋有機の会という生産者のグループに所属していて、無農薬で栽培した野菜を直接消費者に供給しています。また減農薬によるミニトマトなど、施設野菜も手掛けていて、市場経由での出荷もしています。

平穂農園の主は平尾和宏さんなのですが、この平穂と平尾のとりあわせはちょっと不思議だとは思いませんか。実はこれにはちょっとした理由があります。実は平尾さんの自宅にはその敷地内になんと平穂神社があるのです。

平尾さんの話によると、由緒ある平尾家はかつては地域を取り仕切る庄屋で、多くの小作人をかかえていた。その五穀豊穣を祈願するため、平穂神社が建てられたのだろうとのこと。稲穂が一面に広がる様と平尾の姓がもじられているのかもしれません。
なるほど、屋敷のとなりにはこじんまりとはしていますがりっぱな神社が祭られています。毎年平穂神社のお祭りにはたくさんの消費者や仲間の農家が集まります。

まったくおどろいてしまうほど多趣味の平尾さんは釣りをはじめ、観賞用家禽、ウサギ、観葉植物、熱帯性果物などと、まったくあそびごころにあふれた方。奥様もそれに習えのこれまたたのしい方。

平穂農園は、ちょっとつかみ所がないけれど、ちょっとおもしろい。

平穂神社
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