051 しゃぼん玉
04/09/15

野口雨情は1882年生まれ。中山晋平や本居長世(曲名を聞けばだれでも知っているものばかり)といった作曲家と同時代を生きています。そして童謡、民謡、校歌など、その数は2000に及ぶといわれています。

お母さんといっしょに子供がしゃぼん玉を飛ばしながら、必ずといっていいほど口ずさむ唄が『しゃぼん玉』(しゃぼん玉であそぶ機会も最近少なくなってきていますが)。この唄は作曲:中山晋平、作詞:野口雨情で大正11年(1922)に作られました。

ぼくも何の気なしに唄っていた『しゃぼん玉』なのですが、なんとこの唄の詞には野口雨情の深い悲しみが込められているということは、以外に知られていないようです。

野口は幼い我が子と二度死別している。ひとり目は生まれてすぐ、二人目は数え年で4才、病死。この『しゃぼん玉』の詞はその二度目の死別の悲しみの中で作られたそうです。


しゃぼん玉とははかなく亡くなった娘ということになるのですが、なんと悲しいというかさびしい出来事なのでしょう。

考えるに、悲しみの中で生まれたこの詞が、たのしくしゃぼん玉を飛ばす子供たちの「あそび唄」として唄われるというのは、なんとも複雑な気持ちになってしまいます。

ここで『しゃぼん玉』の詞を詠んでみると、その1番と2番とでは「しゃぼん玉」がちがった意味で使われていることに気付きます。

1番のしゃぼん玉は生まれてからしばらく生きていた我が子を映しています。このとき死んだ子は屋根まで飛んで、こわれて消えた。最初の子は飛ばずに、生まれてすぐ死んでしまった。
しゃぼん玉
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平

しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた
しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
生れてすぐに こわれて消えた
風風吹くな シャボン玉飛ばそ

しゃぼん玉飛んだ 屋根より高く
ふうわりふわり つづいて飛んだ
しゃぼん玉いいな お空にあがる
あがっていって かえってこない
ふうわりふわり しゃぼん玉とんだ


2番に出てくるしゃぼん玉はどういうわけか、もうこわれません。こわれないどころか、空にあがってもう帰ってきません。ここで映されているしゃぼん玉はおそらく、我が子の魂なのでしょう。

野口雨情は『しゃぼん玉』の他に『あの町この町』『雨降りお月さん』『兎のダンス』『赤い靴』『十五夜お月さん』『七つの子』『青い目の人形』『証城寺の狸囃子』などの童謡のほか『船頭小唄』といった歌謡まで、多くの詞を書いています。

『しゃぼん玉』の背景を思うとその他にも野口の悲しさ、さびしさが託された唄が何曲かあるように思えてなりません。

わたしたちが子供のころ唄った童謡、唱歌。おぼえやすく、親しみやすいメロディーもさることながら、意味は定かには理解できなくても、なんとなくその詞には深い共感をおぼえてしまう。作詞家の極々個人的な事情ではあるけれども、それでもやはりすべての人に通ずる深い思いというものが、そのひとつひとつの唄に込められているのだと思います。

野口雨情


052 藤原道長
04/09/27

道長の屋号の由来についてよく訊かれます。この名前は実は本家の『藤原道長』とはまったくゆかりがありません。要するに道が長いということ。

ぼくが若いころ、漬物屋を始めようと思ったころ、ぼくに漬物の作り方を教えてくださった方がいて、その方がぼくのために屋号を授けてくださったのだった。そして今ある道長の毛筆のロゴもそのときその方が書いてくださったもの。そのとき彼が使ったのは、POPを書くための朱色のポスターカラーとその毛筆。ささっと一気に書きなぐったのが、それ以来使わせていただいている『道長』の二文字です。

とはいっても、たとえばインターネットを『道長』で検索するとやたらと引っ掛かってきてしまうのが、本家本元の藤原道長。その中にかろうじて引っ掛かってくるのが『漬物本舗 道長』です。

自慢ではありませんがぼくは、歴史は大の苦手。何が苦手かというと、歴史的事実の起こったその年代、年号が覚えられないのがその理由。だからテストの時、日本史、世界史ともにいつも最低ラインを右往左往するという始末。

それでも、この年になって、さらに道長という屋号を背負っていると、やはり藤原道長とは一体どういう人だったのだろうという疑問がふつふつと湧いてくるわけです。しかしながら、藤原道長が生まれたのが966年(平安時代)といえば今から相当むかしのこと。道長とは一体どういう人だったのかということについてはちょっとむつかしい。

ただし、歴史的事実としてわかっていることは大体次のとおり
飛鳥時代、大化の改新で頭角を現した中臣鎌足を始まりとする壮大な貴族藤原氏の一人で、平安時代後半の10世紀前後、貴族政治を頂点に押し上げた人物
和歌『この世をばわが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば』を詠んだ人物
自分の三人の娘を天皇と皇族に嫁入りさせ、政治的実権のすべてを握った人物
紫式部の『源氏物語』の光源氏のモデルとなった人物

とここまで箇条書きにしてくると藤原道長の人物像とは貴族で、自分の娘を身売りさせてまでの権力欲の持ち主で、自分の栄華を和歌で詠うほど見栄っ張りで、やさ男でキザな奴。ということになり、ぼくとしてもちょっと付き合いきれない。

実際に最高位の『摂政』の座にいたのはたったの1年で、あとを息子の頼道に譲っている。その後道長は出家し、法成寺を建立。一見政治からは遠ざかったように見えますが、その権力たるや止まるところがなかったようです。

5男のうちで3男で生まれたにもかかわらず、本来部族を代表するような人物とはほど遠い生い立ちだったにもかかわらず、兄たちの疫病による死や強運のおかげでか、はたまた世渡り上手、負けず嫌い。


道長さん
歴史的には道長は65歳で大往生したことになっていますが、晩年の道長は心臓神経症、糖尿病、白内障などの病につかれ、臨終の年には背中に大きな腫れ物と実際はかなり苦しんだようです。

『御堂関白記』(もちろん後に付けられた名前)があったり、貴族のたしなみではあったものの、多くの和歌を残していたりということで文才があったのか、粋であったのか。

ただこれだけははっきりといえそうなのですが、ぼくの行なっている『道長』と平安の栄華を生きた『藤原道長』とは結びつくところはなさそうです。

やはり『道長』とは、ぼくにとってそういう世界とは大きく次元がずれていて、その歩む道は今までどおり長く続いてゆくのだなとあらためて自覚というか、納得できる気がします。


053 摂氏・華氏
04/10/20


日常日本で温度をあらわす単位として摂氏があります。これはスウェーデンのアンデルス・セルシウス(1701〜44)という人が考案したものだそうです。当初1気圧下での凝固点を100℃、沸点を0℃としたそうですが、後に現在のような基準に直されました。

この摂氏という命名には中国でのセルシウスへの当て字『摂爾修』の頭文字が日本では使われるようになったそうです。

それに対して華氏という温度単位があります。米国などで使われていますが、世界では主流とはいえません。この温度単位はドイツの物理学者ガブリエル・ファーレンハイト(1686〜1736)という人が考案したもの。ファーレンハイトへの中国での当て字が『華倫海』なのを参考にその頭文字をとって『華氏』としています。

最近では『華氏911』なんていうのがありますが(これは温度単位とは関係なさそう)、SF作家レイ・ブラッドベリの(1967年映画化もされた)『華氏451』というのがありました。これは未来の書物を読むことが禁じられた社会での話。メディアはテレビしか許されておらず、書物は焼却処分されなければならないという話。その物語では極度に思想統制された社会を描いているのですが、この華氏451とは書物の発火点を意味している(話がそれてしまいました)。

ファーレンハイトが基準にしたのは、氷水に塩化アンモニウムを加えた場合に下がりうる最低温度。これを0°Fに、さらに人体の標準体温を96°F(12進法を採用したため変な数値となった)と規定しました。なんとおかしなものを基準にしたものだと感心してしまうわけですが、それはそれで納得がゆくといえばゆくのかなといったところ。実は氷水に塩類を加えると温度が低下することを発見したのがファーレンハイトであったのだそうです。

華氏では1気圧での水の凝固点は32°Fで、沸点が212°Fということになっていて。ちなみに気温30℃は86°F。さらに華氏温度を算出するための式は次のようなものだそうです。
F=C×9÷5+32(F=華氏温度、C=摂氏温度)
なんと七面倒くさい計算なことでしょう。

ではどうしてファーレンハイトは水凝固点と沸点を基準にしなかったのでしょうか。実はこの点についても納得のいくところがあるのです。なぜなら水の凝固点と沸点は気圧の変化によって変わってしまう、ということがあるため、おかしな基準を採用したというのです(それにしても体温だって個人差がある)。

人工的に作りうる最低温度というのはまだしも、人体の標準体温(37℃とのこと)をもうひとつの基準にするというのもちょっとすごいと思ってしまいます。だって人の体温など個人差があるじゃありませんか(それこそ変)。

現代の日本ではものの長さや重さなどを表すのにメートル法を用いています。この単位は今では慣れてしまったため、極あたりまえで便利なものですが、これについても苦し紛れのものです。つまり地球の子午線の極と赤道間の距離の1千万分の1をもって1mとする、というものなのですから。

日本にはむかしから尺貫法というのがあります。外国でもフィートだ、ガロンだバレルなどといろんな単位であふれています。そしてそれらは以外にもその基準になっているものが、その民族の身体の一部の長さが基準になっていたりして、かえって生活にしっくりと当てはまるものであったりするものです。

匁(もんめ)だ貫目だ、坪だ反だ町歩だ、江戸間だ京間だと、わけがわからないほどいろんな単位があるものだとあらためておどろかされます。度量衡などという方法で換算しないとぴんとこない世の中ですが、すべての単位が国際規格(SI)で統一されてしまうのもちょっとまずい。固有の文化が失われ、グローバル化されるのはここでもちょっと待ったというところでしょうか。

それにしても日本でいえば『尺貫法』でがんじがらめの反グローバル化志向のアメリカなのに、その生活単位を世界に強要し、グローバル化しようというのは、これまた無理な話だと思います。


054 台風
04/10/27


今年の夏と秋はどうなっているのか、台風の当たり年となってしまいました。10月の23号台風まででなんと10個の台風が日本に上陸しています。これは1990年の6回、1954年、62、65、66、89年の5回を大きく上回るもの。これは昭和26年、気象庁が台風の統計を取り始めて以来の記録です。とにかく、台風で被害にあわれた方もいらっしゃるかもしれません。さらに新潟では地震の被害まで・・・。一日も早く復興の進むことを心からお見舞い申し上げます。

台風とは
熱帯の海上で発生する低気圧を「熱帯低気圧」と呼びますが、このうち北西太平洋で発達したもので、中心付近の最大風速がおよそ17m/s(時速63Km)以上になったもの。それに対してハリケーンというのがあります。これは東部太平洋・大西洋・メキシコ湾・カリブ海で発生した低気圧を指します。ただしハリケーンの場合は、中心付近の最大風速が33m/sということだそうで、けっこう強烈です。台風もハリケーンもいずれもサイクロン(低気圧)の大型になったものだそうです。

台風には名前がある
日本では過去において大きな被害を引き起こした台風に、洞爺丸とか伊勢湾、第二室戸などという名前を付けています。それほどに印象深い台風のため、しっかりとした名前がつけられました。ところが実は、台風にはその他に国際的な名前が付けられているのです。たとえば昭和25年には『ジェーン』という台風が日本に上陸して猛威を振るっています。

2000年から
今までも台風に名前は付けられていたのですが、台風の場合、2000年から正式に命名の方法が定められています。それには従来どおり『リスト方式』という命名の仕方がとられていますが、アジアの各国言語での呼び名で命名されるようになりました。

まずあらかじめ順番の決まった140個の名前を用意しておきます。そして2000年になって最初に発生した台風(1号台風)にカンボジアで『象』を意味する『ダムレイ』という名前が充てられました。あとは台風の影響を受ける国々のことばの名前が順に用意されています。ちなみに日本名では『テンビン』『ヤギ』『カンムリ』『クジラ』など。

たとえば今年の台風21号は『メアリ(やまびこの意、北朝鮮)』、23号は『トカゲ(日本)』という名前となっています。トカゲがリストの117番目ですから、もうじき140番目の『サオラー(ベトナム)』となり、またはじめのダムレイにもどるわけです。

番号方式では毎年同じように順番で番号が振られるため、非常に曖昧です。その点リスト方式ではそれが起こりにくい。しかしながらこれもリストにある名前が140ですから、ひょっとすると大きな被害を及ぼした台風の名前が重なってしまう場合もあり得ます。そこで特例として、将来その名前を残しておくべき大きな台風については、その名前を永久欠番にすることができるのだそうです。

ただ、おなじアジアのことばとはいえ、外国語の呼び名で台風を呼ぶのは日本人にとっても苦手というわけで、やっぱり番号で呼ばれてしまいます(国際的な学会ではリスト方式は有効なのでしょうが)。フィリピンでも台風には自国語の名前が振られているそうです。

それにしても今年のようにたくさんの台風が日本に上陸してきた年はありません。夏から秋のこれも前代未聞の記録となってしまった真夏日の連続。猛暑という表現を超えて酷暑とまで言われました。そんな夏の気候が影響して台風を引き寄せてしまう高気圧を常駐させてしまったからなのかどうなのか、とにかく台風が日本列島に引き寄せられてくるというありさまでした。

もうここまできてしまうと、『温暖化』という世界的な気象変動が影響していることは確かなようです。かつて地球に生息した生物で、その気候さえも変えてしまったものもないのかもしれません。どの報道やメディアをのぞいてみても、深刻な気象変動が起きていると明言しているところはありません。しかし現実はおそらくそうだろうと思います。

むしろこの事実が公言されないことの恐ろしさを実感せざるを得ないところがやりきれません。


045 だまし絵
04/11/12


むかしから『だまし絵(トリックアート)』という遊びがあります。これは現代のようなテレビなどというような媒体のない時代に動かない一枚の絵をじっくりと見ながら、それに隠された様々な動物や、まちがい、見方を変えることでちがうものが見えてきたり、錯覚を応用したりと、とにかく様々な方法で観る者を楽しませてくれる・・・。これもまたひとつのメディアといえると思います。

1:隠し絵
の絵などは隠し絵の応用です。この絵がスカーフをかぶって左後方を向いている若い女性に見えるか、その耳が目、ネックレスが口という中年女性に見えるかというトリックになっている。
にはもひとつの絵にふたつの動物が隠されている。


2:錯覚
線の組み合わせによって平面の上にあたかも立体があるかのうように表現することができますが、その線の方向をちょっと操作してやります。するとそれを見るものの感覚を欺くことができます。ふたりの男が階段に座っているCの絵、やっぱり変。
Dの図形などはその典型的なもの。
Eは白い部分が目立ってしまうという視覚のクセを利用したこれも錯覚。『LIFE』の文字が浮き出てくる。

3:数学のマジック
Fは考えれば考えるほどわからなくなる図形のトリックです。白く空いた1コマ分の面積が確実に広がっているはずなのですが。

このほかにもいろんなだまし絵があるようです。

4:?
これもインターネットから拝借しました。

絵の一部を入れ替えることで12人のはずが13人に変わってしまうというもの。
よく考えるとなるほどと思いますが、そのトリックにはちょっと気付きにくい。


046 食品という名の添加物
04/11/09


アミノ酸系調味料などと呼ばれる、実に都合のよい調味料が一般に使われるようになったかと思うと、こんどは『核酸系調味料』とか『酵母エキス』などというような調味料も登場しています。そしてそれぞれが化学調味料なのか食品なのかわけのわからないものとして扱われていることも事実です。

多くの場合、『加水分解』という方法で調味料としての旨み成分が精製、抽出されています。この『加水分解』とは読んで字の如し、タンパク質に水を加えて分解し旨み成分を得ることです。

加水分解の方法で作られる調味料
アミノ酸系調味料
植物性たんぱくや動物性のものを分解させて作る。大きく分けてふたつの方法があり、酵素を使う方法と、塩酸などの酸を使う方法が一般的。胃液などに見立てた強酸を使うほうが、強力な旨み成分を得ることができるため、こちらのほうが一般的。昆布の旨み成分、グルタミン酸などが知られています。
核酸系調味料

かつお節の旨み成分であるイノシン酸、しいたけのグアニル酸などが知られています。これも加水分解によって精製される。
抽出エキス:

水を加え加熱したりして旨み成分を抽出する方法。
たんぱく自己消化物:

魚醤のようにタンパク質を自分で消化させ、脱臭したり凝縮したりして得られる旨み調味料。
酵母エキス:

ビール酵母などのように、醸造過程に出る残渣などを発酵させ得られる旨み調味料。

これらの調味料が食品添加物と呼ばれず、食品として扱われる理由としては、その製造過程が消化や醗酵といった生物活動に非常によく似た条件の中で作られるのがその理由です。また安全上問題のある不純物や副生成物がないから、食品として認められています。

とはいえ、道長で使っている調味料などと比べて、やはり大きな違いがあるといわざるを得ません。そしてその差異はたやすく無視できるというものではありません。それを箇条書きにしてみます。
@
信用のできる良質な調味料と比べて、その製造工程にはあまりに化学的な部分、不明な部分が多い。
A
トレーサビリティ(追跡可能性・履歴)を重視した商品作りとはほど遠い。
B
食品添加物と同様に製造者の便宜を最優先させるためのもの。
C
安全性が最優先されていない。

調味料を含めて、食品とは何でしょう。またはその問を次のように言い換えたらどうでしょう。私たちは何のために食べ物を食するのでしょう。空腹を満たすためでしょうか。グルメの欲望を満たすためでしょうか。そのような目的のために私たちは食するのではないはずです。

『医食同源』ということばがあります。私たちは健康に暮らしてゆくために食するということを忘れてはいけません。そのためには、信頼できる生産者の作ったものを、安心して食べるという基本の姿がまず必要です。さらに生産者には強い使命が必要であり、さらに責任があるわけです。なぜならば、ひとりの生産者が受持たなければならない消費者の数は、あまりにも複数かつ多数であるからです。

いわゆる粗悪な食品になればなるほど、製造者の心は消費者から遠ざかってゆきます。そしてそれは本当の意味で、食べ物としてのおいしさとはほど遠い代物として判断せざるを得ないのだと思います。


047 ゆず(柚子)
04/11/01


柑橘類といえばおどろくほどたくさんの種類があります。それを大きく分けると果汁を利用するもの。果皮を香味の目的で使う。果肉を食べるもの。ゆずはレモンなどと比べて香りが2倍も強く、果汁・果皮ともに冬の食卓には欠かせないもの。ゆずのように香味と酸味のために果汁や果皮を利用するものを、香酸かんきつ類と呼びます。ゆずのほかに、大分県特産のカボス(香母酢)、徳島のスダチ(酢橘)などが知られています。スダチはゆずの近縁種としてできたとされており、歴史は古い。それに対してカボスは江戸時代には記録があるものの日本への渡来は不明。経済栽培されるようになったのも昭和46年と新しい。

とにかく大元のゆずは長江上流が原産のミカン科の常緑樹だそうで、日本には朝鮮を経由して奈良から飛鳥時代に渡来したといわれています。柑橘類は温暖な気候を好みますがゆずは寒さに強く、東北地方などの寒冷地でも栽培されます。

ゆずにはクエン酸やリンゴ酸、酒石酸などの有機酸が多く含まれ、血行の促進、疲労の回復に効果があります。また健胃、血液浄化作用。

やはり多く含まれているビタミンCやフラボノイドは抗酸化作用があり、血中の活性酸素をなくすはたらきがあります。コレステロールの値を調節し、血液をサラサラにしてくれます。

直接的な薬効もさることながら、なんといってもその香りはすばらしく、精神を整えてくれます。冬の食卓に一家団欒の暖かさを演出してくれる香りの果物。ゆずはそのままでは酸っぱくて食べられませんが、冬の日本の食文化には欠かせないものです。

うどんなどに振る七味にもゆずの皮は欠かせません。チンピ(陳皮)と呼ばれていて、乾燥して細かくしたものを使います。
主な効能
疲労回復
抗菌免疫
抗懐血
解毒作用
血糖値低下
強心利尿
血中のコレステロール調節
ホルモンの増強
脳機能の老化防止


048 商工会
04/12/01



商工会議所と商工会という組織があり、全国の市町村での中小規模の事業者を対象に、その経営改善や支援などを目的にしています。そのふたつの区分けの基準としては、おもに市規模で小規模事業者が全体の8割程度までを商工会議所。町村の規模でその会員の9割以上が小規模事業者の場合、商工会という枠決めになっているとのこと。

道長のある音羽町の小規模事業者の拠所として商工会があるのですが、そのほとんどの事業者が高齢化で後継者不、周辺の大規模店舗進出、大量消費の使い捨て経済のあおりをもろに食らってしまい、まさにジリ貧の状態となってしまっている。また音羽町商工会の事務所も、役場からかなりはなれた小学校の近くの幼稚園の古い建物に間借りしている。そしてさらには小学校に隣接する公民館の駐車場が狭いという理由で、立ち退きまで迫られてしまっているという始末で、まったく情けない状況となっています。

これは全国的な問題といえるのでしょうが、商工会がその会費などで独立して運営できているというような状況もまた少ないといわざるを得ないでしょう。町村役場からしてみても、もはや地域の商工会なぞ行政の立場からしてお荷物的な存在として位置づけられてしまっても仕方ないのかもしれない。

音羽町商工会では町内での事業として、春のミツバツツジまつり、秋の紅葉まつり他のイベントなどの企画、主催など多く取り組みをしています。とはいえそれに対する観光収入や商工業の活性化にはほとんどつながっていないという状況も。東海道赤坂宿にせよ、宮路山にせよ、せいぜい休日のハイキングコース程度のものでしかなく、おみやげを買って帰るなどというものとはほど遠い。

道長にしてもそうですが、農産物を加工したつけものの消費地を地元に結びつけるのには若干無理があります。その他に音羽町には中規模以上の企業が企業団地で営業をしていますが、町内の消費者が直接の顧客というわけにはいきません。

かつて音羽町を含めていなかの商工業はどういう風であっただろう。大きな町に出て行き、何かを買ってくるというようなことはめったになかった。自分のところでできたものの余剰や、農閑期に作ったものを町へ売りに行くなどの折にいなかでは手にはいらないものを求めるということはあった。

都市と村の格差というものはあまりに明確となっている現在ですが、では地方の町村での小規模事業者にはもう役割はなくなってしまったということになるのでしょうか。かつては消費の規模も小さく、そのサイクルも遅かった。それで地域共同体としての経済が成り立っていた。

戦後の高度成長のもとで必要以上に増えてしまった商店については明らかに過剰ではあるのでしょうが、やはり適切な経済の流通のためには欠くべからざる存在の小規模事業者なのではないか。大量生産大量消費という方向とは別に、もうひとつ別の取るべき道、つまりオルターナティヴというようなものがあってもよいのではないか。

持続可能な、とか、循環社会、地産地消、身土不二などという言葉が『食文化』の基本に必要であるのと同じように、それ以外の経済活動にも同様な考え方を当てはめてみる必要もあるのではないでしょうか。


049 輸入穀物のこぼれ落ち、自生
04/12/22

最近各地のナタネ輸入港の周辺で遺伝子組み換え(GM)ナタネが自生しているという事実が報道されています。昨年カナダ産ナタネの輸入実績のあったのは北から鹿島(茨城)、千葉、横浜、清水(静岡)、名古屋、四日市(三重)、神戸、宇野(岡山)、水島(岡山)、博多(福岡)の各港です。

これらの港のうちの多くでは、すでにGMナタネの自生が確認されています。またその自生の状況から判断すると、その他の港でも同じようなことが起こっていることが予想されます。

とはいえ、それらのGMナタネについては、食品としての安全性が確認されており、それが自然界で自生したとしても問題はないというのが農水省としての見解となっています。それを正等とするものとして『カルタヘナ法』がありますが、とくに遺伝子組み換え作物などの新しい外来生物が国境を越えてくる場合に、それが生物的な危険(バイオハザード)を起しうる可能性がある場合には、それを防ぐための措置を取らなければならないとしています。
またGM作物を栽培するにあたっては、そのための申請を農水省に対し行ない、さらに近隣の農家などの承諾をえなければならないことになっています。

カルタヘナ法は日本では04年から施行されましたが、この国際法に依れば、認証済みであればGM作物を栽培してもよいという理屈になります。しかしながら、これはGM大豆の場合ですが、現実は栽培の事実が発覚した段階で、行政や地元農業関係者などの圧力で畑への鋤き込み処分されています(ただしカルタヘナ法施行以前には、秘密裏に栽培されたり、実際に収穫・流通もされてしまっていたという事実も発覚しています)。

話をナタネにもどします。GMナタネの自生で問題になる点を箇条書きにしてみます。
@
栽培をするという意図がないにもかかわらず、野外で生育している。
A
GMナタネの栽培申請がだされていない
B
カルタヘナ法によれば『バイオハザード』にはあたらない
C
自然界に及ぼす影響については未知数
D
雑草化する作物のため、拡散する
E
他のアブラナ科の植物との交雑の可能性がある
F
他のGM作物にもいえるが、安全性が明確に証明されているわけではない

考え方が食い違っている
GM作物を栽培しようとすると大きな問題となってしまうにもかかわらず、こぼれ落ちの場合には問題にならないというのはどう考えてもおかしいわけです。では何がその矛盾をおこしているのでしょうか。

作物を栽培する場合、使用するのは『種子』です。しかしながら、問題のGMナタネは種子ではなく、食品(食用油)の原料ということになっている。この種子ではなくて、原料だという見解がそもそも大きな間違いなのです。食品であろうと地面に落ちれば発芽してしまうわけです。

輸入ナタネだけの問題ではない
穀物の輸入港では食品原料のほかに飼料用として大豆、コーンなどが扱われています。ここでひとつ問題があります。飼料用の作物の場合、食品用と比べるとその取り扱いについての管理は格段に落ちるといういことです。したがって発芽の条件がそろっていれば、さながら大豆畑の様相も想定されてしまいます。これが問題にならないことはそれこそ問題です。
米国ではGM作物が表示義務なしで流通しており、推進側の意見では「GM食品で死んだ人はいない。だから安全」ということになっている。しかしながら、わたしたちの健康がアレルギー疾患などという形でも脅かされている現実を考えてみると、それがいろいろな原因で起されていることは明白です。その原因の一因としてGM作物が仲間入りする可能性もあるわけです。

これ以上健康ばかりでなく、環境に対して悪影響を引き起こす可能性のあるものを手放しに『是』とするにはあまりにも安易すぎるのではないでしょうか。
自生する飼料用GMコーン



050 唐辛子とタイ料理
05/01/26



世界で一番唐辛子を一人あたりで消費する国はどこかというと、タイ国ということになるのだそうです。統計では1日に5グラムとのこと。

唐辛子の本場といえばなんといっても韓国、中国、東南アジア、インドといいたいところですが、その原産地はペルーやメキシコの中南米ということになっています。それが15世紀末のコロンブスの大航海以降、スペイン人の交易によってアジアにも伝えられた。唐辛子がアジアに伝わったのは早くても16世紀になってからということになります。

ということは、唐辛子の文化というのはアジアではほんのこの400年ほどということになります。食文化の歴史としてはなんと浅いことでしょう。

とにかく、中南米で原産の唐辛子は香辛料としてヨーロッパにも紹介されたのでしょうが、その辛さは受け入れられなかった。それにアジアのようにもともと香辛料を好む地域には抵抗はなかったのでしょう。

それにしても16世紀以前のタイ国ではいったいどういった食べ物を食べていたのでしょう。そもそもタイ国の食文化の基本とはなんなのでしょう。

なんといっても主食は『米』
13世紀タイのスコータイ王朝というのがあったそうですが、その三代目王の碑文には、「スコータイの国よきかな、田には米あり、水には魚あり」という一節が刻まれている。魚とは主に淡水魚を意味していて、雨季と乾季を繰り返す気候のおかげでタイ国はたくさんの魚類の宝庫ともいえます。

タイ国では鶏肉も食卓にのぼりますが、魚のように食べても食べてもまた増殖してくれるわけでもなく、やはり魚の食文化ということができるようです。

水の豊富なタイ国では、稲作のための田んぼは日本と比べるとずっと水の量が多く、深水栽培です。深水栽培の利点はなんといっても雑草が生えにくいことです。そしてなんといっても田んぼには魚がたくさん住み着き、おかずも田んぼで獲れてしまう。日本でも雪解け水の豊富な長野県佐久市などでは、深水を利用して鯉やフナの稚魚を放流し、除草をさせ、さらに秋には小ブナの甘露煮を食べたり、鯉はさらに一年育てて食用として出荷したりもする。豊かな田んぼは豊かな漁場でもあるわけです。

話を唐辛子にもどします
首都バンコクの近く、チャオプラヤー川沿いに14世紀ころから栄えたといわれるアユタヤー王朝というのがあるそうです。このアユタヤーは政治の中心であるばかりでなく、経済の中心でもあった。

ちょうどこのころがコロンブスを端に発した大航海時代。世界中の異文化の食材が交易されることとなり、中南米の唐辛子も紹介されたわけです。これは想像ですが、唐辛子の登場は南アジアの食文化にとって、相当にセンセーショナルな出来事であったはずです。まさにほしかった食材が登場したのですから。

大航海時代とは世界的に見ても、異文化が交流するという革命的な時代といえます。新大陸からは唐辛子をはじめ、ココア、トマト、ヴァニラ、カボチャ、七面鳥、コーヒー、トウモロコシなどがヨーロッパに伝えられました。それらが中国や中近東を経てアジアにも伝わりました。

コショウのことを『プリック・タイ』と呼ぶそうです。それに対し唐辛子は単に『プリック』なのだそうで、おそらくむかしはコショウのことを『プリック』と呼んでいたのでしょうが、それが『外国のプリック』に取って代わられてしまったということになるのかもしれません。

これもひとつのグローバリゼーションでもあったわけです。