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■ワールドカップのこと1
 一番最初にサッカーのワールドカップ大会を見たのは、86年のメキシコ大会でした。当時はまだJリーグなんて物の影も形もなく、深夜0時過ぎから始まるワールドカップ中継を見ているヤツは完全に「物好き」というものでした。
 ワールドカップというと、真っ先にこの大会の事を思い出します。まだチーム戦術という物が幅を利かせることもなく、文字通り“中盤を制する者が世界を制する”サッカーの時代でした。いろいろ異論はあるでしょうけれど、キープレーヤーにボールを集め、そこから攻撃を組み立てるサッカーは、見ていてとても面白かったと思います。その人はチームの中の特別。その人にボールが渡っただけで観客がざわめくようなゲームメーカがいること。
 だからあの時代のスター選手というのは本当の意味で注目の的でした。皇帝ことドイツのベッケンバウアー、将軍ことフランスのプラティニ、そして何と言ってもこの大会は彼のためにあったと言っても過言にはならないでしょう、アルゼンチンの至宝ディエゴ・マラドーナ(彼の5人抜きの偉業を、私はリアルタイムで見ています)。たとえヤク中の人格破綻者であろうと、ドーピング漬けのフリークスだろうと、この大会の彼はまぎれもなく天才でした。
 優勝の瞬間、巨大スタジアムの中を銀の紙吹雪が舞いました。
 メキシコのアステカスタジアム。三階まである観客席から、広いフィールドに、ひらひら揺れながら紙吹雪が舞い落ちる。それも銀色で、キラキラ輝きながら。遠近感が狂って感じられるほど巨大なスタジアムに、それこそ都市人口にも匹敵するほどの観客が集まって、そこに銀色の紙吹雪が散る。
 本当に信じられないほど綺麗な光景でした。物理的に不可能だから信じられないんじゃなくて、こういう光景が起こり得る事が信じられないとでも言うのか…。大勢の人間が集まるということ、大勢の人間が心を一つにするということの力を思い知らされるような光景でした。
 世界一になるという事は、こういう光景をその世に出現させてしまう力を持つことなんだと、その時ひしひし感じたものです。――だから私はマラドーナを嫌いになれない。どんな人間であろうとも、あの瞬間を地上に出現させたことそれだけで、すべて許されてもいいんじゃないかという気がしてしまうんですよね。



■ワールドカップのこと2
 岡田監督がカズと北澤をメンバーから外したと聞いたとき、初めて「ああ、この人は本気なんだ」と思いました。「本気で勝ちに行く気なんだ」と。
 こういう言い方をするとJリーグファンの方から叱られそうですが…現在進行形で日本のサッカーレベルをナメてます(笑)。いえね、まだJリーグができる以前、サッカーがマイナースポーツだった時に日本のサッカーを見てしまったことに端を発するトラウマみたいな物なんですが。
 何てったって日本の代表と言われるチームで“パスが繋がらない”“技術以前に体力で負けてる”(ラモス瑠偉の半生伝『天国と地獄』にこのあたりのことが書かれてますので興味のある方はお読み下さい)。一番最初にワールドカップの面白い試合を見ちゃって、それからプロすらない日本のサッカーを見たってのが敗因と言えばそうだったんですが――二度と見たくねえや、ってのが本音でした。で、未だにそれをひきずってる。
 だからフランス大会も日本の試合は見ないつもりでいました。
 大会に先立ってどこかのテレビガイドだったかに、スターティングメンバー予想みたいなのが載っていて、FWが一人もいないチームが書かれてました。「日本が得点できるとしたら2列目からの飛び出ししかないっしょ」のコメント付きで。読んで思わずにやりとしちゃいましたね。確かにアルゼンチンやクロアチアが日本にポストプレイを許すとは思えませんでしたから、勝つ(得点できる)としたらこういうギャンブル的な方向性しかなかろうと。
 で、岡田監督の人選の報を聞いたとき「あ、この人本気で勝ちに行く気でいるんだ」と素直に思えた。
 結果は予想通りの惨敗でしたけど、絶対見ないぞと誓っていた日本の試合、それでも見させる程度には、日本のサッカーも興味深い物になりました。『何様のつもりだお前は』と非難されるかも知れないけれど、面白くもない試合をノリだけで見る気にはなれません。その程度には私もサッカーが好きだし、ワールドカップという大会に思い入れを持ってもいます。



■サッカーは何に似ている?
 以前タクシーに乗った時、運転手の方とサッカーの話になりまして…ちょうどフランスワールド杯の後ぐらいで、Jリーグ観戦後のお客さんのタクシー利用の話がひとしきりあった後、その運転手さんが言ったんです。「野球は面白いと思えるけれど、サッカーの面白さがどうしても判らない」と。
 初参加のワールド杯の後だった事もあって、サッカーについての一般の関心はことのほか高かった時期でしたが、そういう人は以外に多かったのかも知れません。
 で、私がその時話したのは、ニュースステーションで久米宏が言っていた事。ブラジルのエース・ロナウドの動きを指して、かの名物司会者殿はこうのたまった。「ボールが来る3秒前ぐらいまで足下を見下ろして“あーヒマだなー”って顔してるのに、ボールが来たとたんに一気に顔が変わってシュートに行ってる」
 「なるほど。そういう所が面白いんですね」とその運転手さん、納得して下さいました。
 もし野球が“筋書きのないドラマ”だとするならば、サッカーは“人生そのもの”と言えるかも知れません(実際そういうことわざが南米にあるらしい)。一塁から二塁、二塁から三塁という資本主義的蓄積が許されない。どんなに攻めてもシュートが決まらなければ得点にはならないし、その得点ときたら神様の気まぐれみたいにして与えられる。俗にいうおじさん世代には受けないスポーツのような気はしますねぇ。カタルシス少なそうで。
 22人の選手を1人の審判が判定するサッカーは、“神の手”みたいなズルも許されてしまうスポーツでもあります。11人の敵と11人の味方がてんでバラバラに動き回る、全く先の読めないスポーツでもあります(その先を読むための戦略がゾーンプレスみたいな物になる訳よね)。サッカーは人生に似ている――確かに言い得て妙だと思われませんか?
 サッカーの観戦には、TVよりスタジアムへ行くのが正しいと言われています。派手ではないけれど渋い仕事をするディフェンダーや、画面に映らない所で相手の足を止めているプレイヤーなんか、スタジアムへ行かなきゃ絶対に見られない。
 人生の視点はテレビカメラ一つじゃあありませんものね。


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