home
暴論 「おしん」は「源氏物語」を越えるか?

 前章で「やおい」がおたくコミュニュティの共同幻想である、ってな事をエラそうにぶっこいてみました。うーん。でもよくよく考えてみれば、これって「やおい」に限った事じゃないんですよね。「母恋モノ」とか「成長モノ」とか「ロミオとジュリエット」とか「不幸モノ」とか…。物語の根底にはいくつかのパターンがある訳で。売れる物語であればあるほど、既存パターンに乗っかってる確率が高い。
 人間の考える事って、どこの世界でも、どんな時代でもベースになってる本能レベルはみな同じ。おまけに西欧文化がその価値観で世界征服したりしてる昨今。まあそのような現代にいきる皆様の心の「基本の基本」に訴える物語というのが、すでに世の中には多数存在しているようなんですな。
 「すべては共同幻想である」とか言ってた心理学者って岸田秀でしたっけ?(うわ、情報古すぎ)。

■ ■ ■

 前に著作権について書いたり、他人様のBBSにお邪魔したりした時にふと思った事なんですが。オリジナリティ(いわゆるその人の個性)は人を感動させないんじゃないかなあ、と。確かに「感心」はされるかも知れないけど、それって「感動」じゃないでしょ。感動は物語に「感情移入」して「共感」しなきゃできない気がするんですよ。で、その人の確固たる固有部分が共感を呼ぶか、って言ったらやっぱりそりゃ違うだろう、と。
 某オタク評論本によると「源氏物語」というのは、同人誌だったそうなんですよ。平安の昔、いわゆる学問として認められているのは中国伝来の漢学で、これは全て男の物だったと言います。この漢字からひらがなが作られた事は皆様ご存知ですね。ひらがなが女性の物であり、男性は(普通は)使えなかった事も。
 「源氏物語」はその時代の文学の主流からは出ていない。恐らく当時の宮廷女性達のたしなみである文を書く事の延長が、生んだ物語だと思います。伝え聞く所によると紫式部という女性、身分も高くないし、容姿も目立っていた訳ではない。今風に言えば「どこにでもいるフツーの女」だったそうです。明治の文豪にありがちな金持ちの坊ちゃんじゃあなかったんですな。知識階級の退廃道楽や啓蒙思想から、物語が生まれた訳じゃない。
 それが、千年の時を越えてしまった。

■ ■ ■

 「私の横っ面を張った1冊の本」(だっけ?)という書評本がありました。このタイトル見た時に「ナイス・ネーミング」と思ったのは、私だけじゃないはずだ! うん。こういう本に巡り会えるのって、すごく幸せな事だと思う。それこそ金の草鞋を履いてでも探さにゃならんモノです。でも…これらの本が千年生き残る可能性は限りなく低い。
 「横っ面を張る」というのは、読者の持つ既成概念をたたき壊すと言う事で。当然ながらその時代の価値観があってこそ効力を発揮いたします。欧州の古典と言われる物語がイマイチ私たちに馴染まないのは、物語の根底に「キリスト教」があるせいでしょう。欧州の価値観の根底を支えるモノが、私たち日本人にはない。だもんで読んでも共感もできなきゃ感動もできない「ヘンな話」で終わってしまう。
 アカデミズムが偉そうな顔して「これを読め」と言い、マスコミが受賞フェアやって売り込んでくる。たぶん「時代の横っ面を張る」物語はそうやって私たちの元にやってくるのでしょう。そうして時代に消費されて消えていく。対して民話や神話や伝説は、平気で千年を越えてくる。価値観に立ち向かうんじゃなく、人間の根底にある普遍的なソレを捕まえた物語は、信じられない位長生きします。どんなに偉い先生が「あんなもんカスや!」と言っても、それが事実。

■ ■ ■

 同人コミュニュティから生まれた「女性向けのホモセクシャル表現を含んだポルノ」が千年の時を越えるとは思いません。個人的観測ですが、20年後にはカンペキ滅びていると踏んでます。今の「女制」が滅ぶ時が現状の「やおい」の滅ぶ時かなと。残るとしたら、相当に形を変えてるんじゃないかな。
 でも「恋に恋する女の子の物語」は、恐らく千年を越える気がいたします。太宰も漱石も鴎外も、ひょっとすると龍之介が滅んだ後にさえ、「オリジナリティの欠片もないカス」物語は残るのかも知れない。「どこにでもいるフツーの女の子」の書いた物語が、千年の時を越えて人の心を掴むかも知れない。作者がその時代の平均的な人物で、その人が自分の根底にきちんと根ざした物語ならば、名だたる文豪の書いた物よりはるかに長生きするんじゃないか。

 物語というのは、本来そういう物だんたんじゃないかと思う今日この頃。神話も伝説も寓話も、決してマスコミや偉い先生が与えてくれた物じゃない。名も知れぬ人の口から出て、伝わる内に改良が加わって現在に至る…。
 ちょっとマスコミに毒されすぎてないか現代人、と問題提起して、この章はおしまい。



ああ疲れた>>>>戻る